5

 他学部の校舎に足を踏み入れるというのは、思ったよりもスリリングだ。気分はちょっとした不法入国と変わらない。


 もしもいま俺が経済学部だってバレたら、たちまち文学部の奴らに囲まれて槍で突き刺されるんじゃないか、とおかしな想像までしてしまう。あやうく犯罪者になりかけたという体験が、俺にこんな妄想をさせるのだろう。むろんそんなことが起こり得るはずもなく、キャンパス内には国境線もパスポートもない。槍を構えるファランクスもいない。行き来自由の大陸である。


 二年前に改築されたばかりだという文学部棟は、思っていたより経済学部のそれとよく似ていた。どこにでもある白塗りの校舎、どこにでもある昼休みの喧騒。学生食堂へ急ぐ者、講義室でそのまま弁当を広げる者、そそくさと自分の研究室へ帰る教授たち。これぞ大学の原風景。


 さてそんなありふれた景色の中で、門倉だけが浮いていた。まるで合成ソフトで後から貼り付けたような違和感まみれの男は、どうあっても目立つ。今日も真冬コーディネートがばっちり決まっているようで、大変結構であった。


「門倉!」

 うしろから呼び止めると、門倉は何者かから身を守るように肩をすぼめてみせた。ここだけ見ると、こいつのほうがよっぽど不法入国者じみているよなと思う。


「……か、神尾くん」

「よう、昨日ぶりだな」

「そうだね……」


 昨日の威勢はいずこへ! 門倉はこちらが拍子抜けするくらい、俺に怯えていた。何でだよ。


 門倉の所在を教えてくれた安藤は、最後まで「本当に行くのか?」だとか「そいつラグビー部の先輩殴ったって噂だぞ」だとかあらぬ心配をしていたが、俺からしたら目の前の門倉は生まれたての羊ちゃんと変わらない。気まずいのか知らないが、目も合わせてくれないし。


「…………」

「これから時間あるか? 俺、お前に用があって来たんだけど」

「わたしは、これから講義があるんだが」

「へえーっ、門倉、昼休みにも講義入れてんの? マジかあ、真面目なんだなー」


 わが京央大学は、勉強熱心な学生諸氏──および、普通に単位が危うい学生のために、昼休み講義なるものが存在している。門倉は俺と同じ一年だから、おそらく前者の学生なのだろう。


「でも、それ聞いて安心したわ」

 隙を見計らって逃げる機会をうかがっているらしい門倉の腕を、俺はとっさに掴んだ。逃げてもらっちゃ困る。そこで初めて、門倉の双眸が俺をとらえた。


「何」

「大学の授業ってさ、四回まで休んでいいんだって」

「……それが?」

「だからお前も休めよ。平気平気、一回くらい。体調不良ってことにしようぜ。はい、お前は今から体調不良です。デューン」

「は、デューン? 『砂の惑星』か?」

「いやデバフ音」

「無理がある、全てに……」


 門倉が、露骨に顔をしかめる。不愉快さをできるだけ表明しようと努めているのがごとき表情がたまらない。手を振り払われないのが不思議なくらいだった。


 あまり歓迎されていないことはまず確実だが、俺はなりふり構わず二の句を次ぐ。

「お前にどうしても言いたいことがあって来た。できれば今日がいいし、今言いたい。大事なことだ」

「な、何……」

「あのな──」


 思えばこの一言を言うためだけに、随分とごたついてしまった。予告状だなんだの前に、ちゃんと言っておくべきだったのだ。

 そうすれば、俺たちはもう少し早く友達になれていたかもしれない。


「門倉。昨日は、助けてくれてありがとうな」

「……えっ?」

「え?」

「……あ、神尾くんの言いたいことって、もしかして、それかい?」

「それ以外ねえだろ」


 すると先程までとは系統の異なる困惑が、門倉の顔にありありと浮かんでいくのが分かる。もしかして驚いているのだろうか。まるで、今の今まで自分が感謝されるとは予想だにしていなかったみたいな反応だ。こいつが意外そうに目を瞬かせているのが、何だかおかしかった。


「昨日はあんな感じで解散だったし……助けてもらったのに、ちゃんと冤罪事件のお礼とか言えてなかっただろ? 今日会えなかったら土日挟むことになるしさ、どうしても今日言いたかったんだよ。鉄は熱いうちに的な?」

「は、はあ……」


 あ、そういやお礼言ってねえな、と気が付いたのは昨夜遅く、布団にもぐり込んでからだった。


 たしかに門倉は口が悪いし、話も長いし、警察に喧嘩も売るし、俺に対しても突然キレたり饒舌になったり終始よくわかんない奴だった。だが俺はそんな奴に、しっかり助けられたのだ。人生をがっつり救われたと言っても良い。


 それでありがとうも言えてない俺って、結構ヤバいんじゃないのか? というか、人として下の下? 有り体に言うとクズ──その二文字が浮かんだ瞬間、門倉に会いに行こうという結論になるのは至極当然のことだった。


「当然、なんだろうか……?」

「いやだって、お前のおかげで、俺はここにいるわけだし。お前がいなかったらどうなってたか想像もできない。だからありがとう、門倉」

「…………」


 しばし沈黙のとばりが降りる。ややあって、門倉が口を開いた。

「え……うん、いや。別に、君にお礼を言われるようなことは……うん……」


 ほかにも何かごにゃごにゃ言いながら、目の前の美形は照れくさそうに後ろ首をさすった。俺の安い挑発なんかにも易々と乗っかって来るし、褒めると照れるし、中学生みたいな奴だ。顔は引くほど良いくせに、まったくスマートじゃない。


「俺にお礼を言われるようなことだろ。一人の人生を救ったんだから、もっと自信持っていこうぜ。ポジティブにさ」

「『ポジティブ』か。最もネガティブな言葉だね」

「うーん、深いな」


 門倉のその感覚はちょっとよくわからなかったが、奴の唇がわずかに動いたのを見て──よく見ると、それは笑顔だった──俺はひどく安心してしまった。


 笑顔って素晴らしい。インスタントにハッピーな魔法である。


 真面目な門倉が講義をサボっていても、街には凶悪な強盗殺人犯が潜んでいても、これから何が起こるとしても、笑顔ひとつでハッピーエンドに向かっていく気がしてしまう。このまま全てが綺麗に収束していくような、幸せな幕引きなんかを俺はうっかり期待してしまうのだ。

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