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「そ、そんなこと……」


 あり得ない、とは断定できなかった。きわめて確率の低い話ではあるが、決してゼロじゃない。なぜなら俺は、門倉の推理が何よりも正しいことを、身をもって知っている。


 同時に、もしそれが真実だとしたら一大事だった。だってそうだろう。神出鬼没だと思われていた強盗犯が、本当は前もって犯行を宣言していたのだとしたら? そして次に狙われるのが、喫茶アムレートだとしたら?

 これはの連続強盗殺人事件。今まで誰も気付かなかったことに、門倉は、門倉だけは気付いていた。でも、それはつまり、どういうことだ?


 門倉は、そこそこ重要な証拠に気付いておきながら、わざと黙っていたことにならないか?


「門倉、お前、そんなに大事なこと……」

「『どうして今まで誰にも言わなかったんだ』、とでも言いたげだね」

 思考を先回りされて、言葉に詰まる。


「そ、そうだよ。どうして今まで黙ってたんだよ! 連続強盗犯は、本当は神出鬼没なんかじゃない。本当は予告状を出してるんだって、言えば!」


「言えば、どうなるんだい?」

 門倉は、まるで小さな子供のように、きょとんと目をしばたかせた。


「ど、どうなるって……。そのポスターが、犯人逮捕の、唯一の手がかりになったかもしれないだろ? それに人が死んでる事件なら、なおさら……」

「ふうん、手がかり。唯一の。面白いことを言うじゃないか」

 門倉が肩を震わせる。何が面白いのかわからないが、目の前の男はけたけた笑っていた。


「は? 何笑ってんだよ……」

「じゃあわたしは、子猫のポスターを持って『アナグラムなんです! 予告状なんです!』と警察署で喚き立てれば良かったか? それとも大学で注意喚起のビラ配りでもしたら良かったのか? そうしたら君は、一秒でも目を通してくれていたのか? 冤罪から助けてくれたわけでもない、の言葉を、君は聞いたのか? ……それに、構内でのビラ配りならもうやった。有象無象のサークル勧誘に混じってね」

「えっ」

「結果は惨敗! 『不確かな情報で、在校生の不安を搔き立てるな』ときたもんだ。傑作だろう、返す言葉もない!」


 そう言って笑う門倉の大きな目には、失望と怒りがあった──何に対しての? ビラ配りが禁止されたこと? 大学? それとも俺? でも、「何キレてんだよ」と肩を叩ける雰囲気でもない。何だこれ。


「『どうして誰にも言わなかった』だって? わかりきったことを聞かないでくれたまえ。まったく馬鹿馬鹿しい」

「門倉……あの」


「ふっ、そりゃまあ確かに、外野の人間が無責任に言いそうなことだよな。『どうして気付いたときに言わなかったんだ。何かできたかもしれないだろ』って、二言目にはいつもこれだ。これといった才能もないくせに、偽善で正義を語りやがって、いまいましいことこの上ない。本当に責められるべきは、何の活路も見出せない無能な警察連中と! 馬鹿みたいに自己顕示欲丸出しの犯人の方だろ!」

「うん……」


「よしんば本当のことを言ってどうなる? 何が変わる? 何も変わらないし、誰も救われやしないさ。わたしみたいな異常者の言葉を真に受ける奴なんて、どこにもいないんだよ」


「……門倉、」

「あーあ! 笑っちゃうよな本当……何もかもくだらなくてさあ……」


 すっかり酔いが醒めたという顔で、門倉は自嘲的に吐き捨てた。世界に向けられた、凍りつくような諦めと軽蔑が、そこにはあるような気がした。


「…………」

 こんなとき、気の利いた一言でも言えたらと思う。この白けた空気ごと、ぱっと吹き飛ばしてやれたらいいだろうと思う。でもできない。そんなことが言えるほど、俺は門倉のことを何も知らない。


「……悪い」

 今言えるのは、これだけだ。これしか言えない。この言葉が正解なのかも微妙なところだ。


 門倉は何も言わなかったが、それでも「君なんか助けるんじゃなかった」と言われなかったことが、少しだけ救いだった。


「……じゃあ、とりあえず神尾くんの容疑も晴れたところで、解散ってことにしようか。アムレートの件は要調査ってことで!」

 警官の無理に明るい声色が、むなしく「ぼんぼん堂」に響く。


 ***


 きっとこれまで何度も使い古されてきた表現なんだろうけど、〝まるで長い夢を見ていたようだった〟。


 無実の罪で、あやうく逮捕されかけていた俺。そこへ颯爽と現れた、謎の名探偵。

 そして連続強盗殺人犯だの、アナグラムだの、予告状だの、訳の分からない話を聞かされて。

 最後は俺が名探偵を怒らせた。


 はっきりしたケリもつかないまま、全てがうやむやに終わった悪夢の日。本当に夢だったらよかったよな、と思う。


 そんな昨日の今日で、しっかり一限から講義に出席している俺はえらい。とっても立派だ──本当は自主休講を決め込みたかったのだが、門倉がああして掴んでくれた無実を、大学生活を、他でもない俺がないがしろにするのは違う気がした。


 それに今日の俺には、ちょっとしたミッションもあるしな。


 それにしても、こうして昨日ぶりに大学構内を歩いていると、いつもの階段教室や同級生の顔ぶれなんかがいちいち懐かしかった。そして愛おしい。まるで一年くらい大学に来ていなかったみたいに不思議な心地だ。いやはやこれも冤罪効果(?)だろうか?


 しみじみとそんな感慨にふけっていると、

「おーっ神尾じゃん! お前、昨日警察に捕まってたってマジなん?」

 廊下の向こうから大声で近付いてくる男が一人。同じ経済学部の同級生、安藤あんどうだった。


 少年のように屈託のない笑顔が、今日に限っては若干憎らしい。昨日のアレは誰にも話してないはずだが、一体どこから漏れたんだろうか。壁に耳あり障子に目あり。油断も隙もない。


「マジだよ。……マジだけどさ、誰から聞いた?」

「いやあ、同じ簿記論取ってる女子がさ、お前のこと噂してたんだよ。気になって『何かあったのか』って聞いたら、『神尾くんが警察のおじさんに捕まって泣いてた』って」

「ああ……」

 よりにもよって。


「……なあ、本当に何したんだよ」

 今さら気を遣ってくれているのか、安藤は声をひそめて尋ねてくる。


「何もしてないんだって……。冤罪だよ、冤罪。万引きのな。でもなかなか信じてもらえなくて、昨日ちょっと揉めた」

「はー。そりゃ災難だったな……で、もう容疑は晴れたのか?」

「晴れてなきゃ、俺はこうしてお前と話せてねえよ」

 身を切るような自虐ジョーク。あまりウケなかった。


 それでも安藤と、こうしてくだらない冗談を言い合えるのが嬉しい。こんな何でもない日常でも、昨日で手放していたかもしれないと思うと少し怖かった。


 「今日という日は、昨日死んだ人間が生きたかった明日」だなんて陳腐すぎる教訓だが、昨日の俺は、たしかに今日この日をちゃんと生きたかったのだ。


「……なあ、安藤」

「ん?」

「実は俺、ちょっと人を探してるんだけどさ」


 だから俺は、もう一度あいつに会わなくちゃならない。うやむやにしたままは嫌だ。昨日の俺が言えなかったことを、今日の俺はちゃんと伝えたい。


「お前、門倉朱雀って知ってる?」

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