第1話「光の日」

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 どこから話したらいいだろう。


 人生には、それぞれ分岐点というものが存在する──こんな語りだしでいいだろうか?


 そして俺の人生にもそういう分水嶺があったのだとすれば、あの日起こった出来事は、他のあらゆる分岐点をも卓絶たくぜつしていた。


 今から四年前に、俺がうっかり前科持ちになりかけたという事実と、その四年後に、俺が名探偵になっているという事実が不思議と繋がってくる。まあ、落ち着いて語ろう。少し長くなるかもしれないが、辛抱して聞いてほしい。


 俺の人生は、もともと「名探偵」などとは無縁のものであった。きっと多くの人がそうであるように、俺の人生だってそうだった。


 俺の中で「名探偵」と言ったら「名探偵コナン」だし、そのコナンだって小学生の時にロードショーで観た劇場版で最後である。

 蘭や少年探偵団などお決まりの面々が、シミュレーションゲームの中に入って十九世紀のロンドンを冒険するとかいう、なかなか楽しい映画だった。薄暗いロンドンの街がいやに不気味で、幻想的で、それが俺の冒険心を刺激したのだ。一人ずつ消えてゆく子供たち、人工知能の暴走、おぞましい切り裂きジャックの歌……。


 とにかく俺の中の「名探偵」のイメージは、かくして十年以上も前から「コナン君」のまま上書きされずに固定されている。


 大体、華麗な推理で「犯人はあなたです」と言い当てる正義の名探偵なんていなくても、人生は続くし地球は廻る。明日は明日の風が吹く。嗚呼人生って素晴らしい!


 少なくともこの十九年間、俺はそういった主義と思想でお気楽な毎日を送っていたのだった。


***


「とりあえず君、学生証。見せて」

「はい……」


 大学一年生の五月。関西ではすっかり桜も散り去って、楓が新緑の若葉を広げはじめていた。駅の観光案内ポスターの写真も、いつの間にか桜並木から清涼感ある竹林に変わっている。


 さて、俺は哀しきかな、せまい昔ながらの古本屋で、肉食獣に襲われた小動物よろしく震えて立ちすくんでいた。警察官に言われるがまま、リュックからうやうやしく学生証を取り出す。


「かみお──なんて読むの? 名前」

「神尾、あおいです」

「ふうん。京央きょうおう大学の一年生ねえ」

「……」

「君さあ、せっかく良い大学に入ったのに、こんなことしちゃだめだよ。万引きがだめなことくらい分かるでしょ? 小学生じゃないんだからさあ」


 やけに精神を逆なでするような警官の声色に、俺は思わず涙が出そうになった。話の通じない問題児を相手に、やれやれ困ったもんだと呆れられているようで実にみじめだ。正直、わかりやすく大声で怒鳴られるよりも辛い。


「俺、やってないです。まっ、万引きなんて」

 本当にやっていないのだから、言えることがこれくらいしかない。少しでも疑われないように平静を装うつもりが、余計に声が震えてしまった。


「本当に?」

「本当に本当です」

「ふん。そんなの嘘ですよ、あたし見ましたもん! この人が、うちの本を持って立ち去ろうとしてるとこ!」


 古本屋のバイトとして雇われているらしい若い女性──きっと彼女も大学生だ──が、俺に人差し指を向けて口をはさんだ。

 その失礼な物言いに普段なら腹のひとつも立てていただろうが、自分の味方が誰もいないこの状況ではそんな気すら起らない。

 誰も見つけてくれない海底の砂に、ひとり埋もれていくような気分だ。つらい。


「でも、だから、それは、この店のドアのところに本が落ちていたから、拾っただけで……」


 そもそも俺は、この古本屋の中に足を踏み入れてすらいない。ただ商店街の道端に本が落ちていたから、何だろうと思って拾っただけだ。その場所が丁度ここ「ぼんぼん堂」の目の前で──これがまずかったのだろう。


 店の奥から「あーっ!」という声が聞こえたと思った時には、時すでに遅し。開けっ広げの店のドアから可愛らしい女の子が出てきたと思ったら、あれよあれよという間に警察を呼ばれ、こうして処刑台の上に立たされているというわけである。最悪だ。あんまりだ。人生ってクソだ。


 そもそも、このご時世に監視カメラも無いのはどうかと思う……。


「彼はこう言っているけど……」

「落ちていた? はっ、小銭や軽いパスケースなら、それも分かるけどね。そんな分厚い本を入り口で落として、気付かず立ち去った人がいるとでも?」


 その言い分はごもっともだが、俺だって認めるわけにはいかない。


「でも、俺マジでやってないんですよ!」

「まあまあ。とりあえず神尾くんは、今からぼくと一緒に京央大学に行って、今回のことを報告しに行こうか。話はそれからってことで。それとここの店主さんにも連絡を入れたいな。今ご不在なら、電話番号を──」

「だ、大学……?」


 大学! 警官の言葉に、俺は再び泣きそうになった。というか、泣いた。


 嫌だ、行きたくない。無理だ。いくら俺が無実を主張したところで、一体誰が信じてくれるだろう。大学に合格して浮かれ過ぎた一年生が、調子に乗って万引きしたと思われるに違いない。


 謂れなき罪で、停学──いや、退学処分になったらどうしよう。大学受験というあの永遠にも思われた長い冬を終えて、先月京央に入学したばかりだというのに! 俺の輝かしいキャンパスライフは、かくもたやすく崩壊してしまうのか?


「外に車を停めてあるから、それに乗って大学まで行こうか」

「やだ…………」

「やだじゃないんだよねえ」


 車って、やはりパトカーだろうか? そんなものに易々と乗り込めるほど、俺の往生際はよろしくない。

 おまけに好奇心旺盛な野次馬たちが「何事か」と店内のようすを覗こうとしているところが目に入ってしまった。悔しい。悲しい。恥ずかしい。泣けて泣けて仕方がない。こんなこと、成人もしていない人間に味わわせていい屈辱だろうか?


「うう……」

「あの。失礼ですが、彼は万引きなんてやっていませんよ」


 両親の泣き顔まで嫌にはっきり想像できていたその時、俺の肩を叩くものがあった。振り返ってみると、俺と同い年くらいの男がそこに立っている。

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