第23話 夕立
盆の二日目。十妙院家の庭で、花火の袋が開けられた。
夕涼み時刻、太陽はまだ沈みきっていなかったが、子供たちはすでに空の植木鉢のなかにキャンドルを立てている。
「夜やない時間の花火もええね、真っ暗はもうこりごりやもん! 昨日は山内くんが戻ってきてすぐ蔵から出してもらえてよかったわ! ……ところでその山内くん、どうしたんやろ」
キャンドルの火に手持ち花火を近づけながら、穂乃果がここにいない少年を案じる。
「花火やる前にどっか行ってもーて。せっかくいっぱいもらったのに」
「知らねーよ」
紺は火を自分の花火に分けてもらいつつ、ぶっきらぼうに答えた。微妙に機嫌を損じていた。
(なんだ山内のやつ。いつもはビビリで、夜が近づいたらオレから離れたがらないくせに)
それがこの夕刻、かれはみなが集まったときにひとり姿を消したのだ。理由を明瞭に言わず、ふいっと気がつけば消えていた。
(こんなときになに危なっかしいことやってんだあのヤロー)
憤っていたが、紺はふと心配になった。
思い返せば、かれの様子は昨日からおかしかった。昨日、蔵に入って紺の祖母に会ってきてから、ずっと心ここにあらずだったのである。
「あいつ、十妙院の大奥様となに話したんだろうな」
両手に花火を持って宙でくるくる回していた直文が、手を止めて言った。薬臭い煙に顔をしかめていたマイタケが「そうだねえ」と懸念の声を出す。
同じことを、紺以外の子供たちも思っていたようだった。
「……さあな。お祖母様はたまに悪趣味だから。なに吹き込んだことやら」
人の宿運を
はた迷惑な一方で、力が頼りになることも確かなのだが……
「実を言うと、アオオニとオレの術くらべの結果も前もって詠んでるはずなんだよな、あの妖怪」
「……マジかよ。じゃあ、やる意味あんのかよ、紺? 術くらべ」
「やらなければまた別の未来に変わる。オレとアオオニが術くらべする未来が、お祖母様が導こうとしてる未来なんだろ。あの人の考えはよくわからねーし、オレは気にしないことにする」
水を張ったバケツに花火の燃えさしを突っ込みながら、紺は投げやりに言った。
「でも勝つやろ、紺ちゃんなら」
つとめて明るい話に戻そうとしたのだろう、穂乃果が火をつけた花火をにぎやかにふり回しながら楽しげに言う。
「それに大奥様が言ってくれたんやろ! 紺ちゃんがアオオニに勝てば、しきたりの、えっと、おぐななりだっけ? 男の子カッコしなくてもよくなるんやろ! よかったやん!」
「あ、あー……うん……」
「前に『さらしで締め付けんのがいい加減キツい』とこぼしとったやん、これでブラジャー買えるね!……ひたたたた!?」
「点火した花火の尻くわえさせるぞてめー、なんでみんなの前で言う。こないだから妙に人の胸をネタにしやがって!」真っ赤になった紺が穂乃果の両頬をつねる。
身をよじってなんとか紺の手を逃れた穂乃果が、頬を押さえながらはしゃいだ。
「そうなったらうちに来て! お父さんがあたしに片っ端から服買ってくるので余っとるんよ! 紺ちゃんにいろいろ着せたげる!」
「なんでおまえがそんな楽しそうなの……」
「だって前に聞いたもん。十妙院家の女のひとが一人前と見なされるってことは、女の子の服着られるようになるだけじゃなくて、恋愛解禁のしるしでもあるんやろ?」
穂乃果の目が星屑を浮かべて、紺はたじろいだ。
猫にまたたび、ませたJSに恋バナ。
「なんだそりゃ、別にそんなこと正式に決まってるわけじゃ」
また盛られたうわさ話が出回ってんだな、と紺はうんざりする。たしかに、たとえば紺の母親も、童男姿を解いてすぐの時期に見合い結婚している。だが一人前となったうえ結婚年齢に達した者が身を固めるのは自然な成り行きであって、別にしきたりだの掟だのではない。
しかし明町内の口さがなくうわさする人々は、表面だけを見て「世間とは変わった十妙院のしきたり」をでっちあげてくれたようだった。
「童男姿を卒業してない未熟者のうちは、色恋なんかにうつつ抜かしにくいってだけだよっ。それ以上でも以下でもねーの」
呆れ声で訂正したが、穂乃果はけろりとしている。
「そうなん? でも結果だけ見たら同じやんね! 周りの男の子みんなそう信じてたから、だれもいままで紺ちゃんにそういう態度で接しないようにしとったんよ! だから紺ちゃんが女の子の服着始めたら、友達と思ってた男子がどんどん態度変えてくるんちゃうかな。二学期ますます楽しみやね!
あ。そうや。今度こっくりさんやるときは紺ちゃん『を』好きな男の子の名前聞いてみよ! 何人おるやろ」
「やめろ、そういうこと」
頬に赤みを
「えー、普通気になるものやん。自分ではならへんの?」
「ならねーよっ! だいたい、いねーだろそんなやつっ。オレはずっと童男姿だったんだぞ、そういう対象になってるわけねーだろ」
穂乃果が、ふりかえって後ろの直文やマイタケと顔を見合わせた。そろって呆れた顔をしているのが腹が立つ。
前に出てきた直文が、肩をすくめるようにして言った。
「あのさぁ、紺。どう見てもおまえのこと気にしてる男、うちのクラスで俺が名前知ってる範囲だけでも二人いるし」
青天の
「なんだよ、それ。知らねーぞ」
「ぼくのクラスにもいるよ。複数」直文の隣の学級であるマイタケが手を挙げた。「紺見るたびからかったり嫌味言ったりちょっかい出してる男子グループのうち、何人かがそうだよ。……君はウザがってたけど、そういう事情も
絶句して立ち尽くしている紺に、穂乃果が駄目押しする。
「紺ちゃん、女子からしょっちゅう特定の男子名指しした恋愛相談引き受けてるやん? あれ、紺ちゃんへの牽制でもあるんやで。その男子が紺ちゃんのことええなと思ってるぽいから」
「そ、そ、そんなこと知ったこっちゃねーって言ってるだろ」
紺は風呂で溺れているような心地になってきた。
顔が熱くなり、息が苦しい。
呼吸困難気味にはぷはぷしている彼女を横目に、穂乃果たちがひたいを寄せ集めて審議に入る。
「どう思う、この意外なネンネっぷり?」「こいつを好きな奴らに同情する」「いや、耐性なさすぎて案外チョロく落とされるかも」「あ、わかる。アタックされたらあっさり押し切られて誰かと付き合いそう」「すごく面白そ……不安やね」「つまり実質的に早いもの勝ちか」
「ふっ、ふざけんな、チョロくね――!」
夕雲染まりつつある空に、惑乱した怒声が響いた。
やっぱり山内を呼んでくるといって紺は逃げてきた。
実家戻ってんのかな、と山内家に寄ってみる。玄関を開けてみた。
「山内ー?」
靴は、ない。家のなかに明かりもついていない。鍵は開いていたが、このあたりの田舎では昼間家を空ける程度では鍵をかけなくても普通だ。
(いないか。どこだあいつ)
身を返して戸を閉め、敷地内から出ていこうとし……紺は、足音を忍ばせてそろそろと戻ってみた。勘がささやいたのである。
一気に戸を開けると、虚をつかれた山内くんが表情をこわばらせて立っていた。さっきは隠れていたようだ。紺が去ったと見るや、念のため玄関の鍵をかけておこうと出てきたのだろう。
「やっぱりいたのか……なにやってんだよ、居留守まで使いやがって」
口を尖らせた紺に、山内くんは押し殺した声で言った。
「いますぐ帰って」
それはついぞ、紺がかれから聞いたようなことのない声音だった。口を開け、それから眉を寄せ、紺はいぶかしむ。
「おまえ……」
かれの様子は、明らかにおかしかった。
「……山内。蔵で、お祖母様になにか言われたのか?」
「帰って。あとからそっちに戻る」
取り付く島もない、突き放す口ぶり――紺は、自分でもびっくりするくらいに腹が立った。「なんなんだよ、なにかあったなら言えよっ」食い下がろうとする。
エンジンの音が、表で聞こえた。
山内くんのパパの乗るバイクの音。
その瞬間、紺は山内くんに腕をつかまれてぐいと家のなかに引き込まれた。目を白黒させる。
山内くんはすばやく、しかし音を立てないように玄関の戸を閉め、鍵を下ろした。呆然とする紺に「上がって。早く」と押し殺した声でささやいた。
「おい、何が……」
「静かに。お願い、僕が家にいるってばれたら困るんだ。なにも言わないで言うとおりにして」
やむなく紺は靴を脱いで上がった。その靴をもすばやく山内くんは回収し、紺を押すようにして奥へ連れて行く。
客間へ入る。かびくさい押入れを開け、かれはそこに彼女と自分の身を押しこんだ。かくれんぼでもしているかのように。
連れこまれた形の紺は、かれに密着した身をもぞつかせて困惑の声をあげる。
「わけわかんねーんだけど……むぐっ」
口を山内くんの手のひらでふさがれた。
かれはそうしておいて、わずかに開けた押入れの戸のすきまから、真剣に室内をうかがっている。声を封じられた紺は至近から山内くんをにらみあげた。すきまからの明かりに照らされた少年の横顔を見て、どきりとする。
――こいつ、すごくはりつめた顔してる。
唇を引き結んで血の気が失せた、余裕を完全に無くした表情。
暴れる気が失せ、紺は体の力を抜いた。悟ったのである。そんな表情をさせるほどのただならない何かが、かれの上に起きているのだと。
……玄関が開けられ、閉まる音がした。
鍵を持っているのだから間違いなく山内くんのパパだろう。足音が上がってきて、ぎしぎしと廊下をまっすぐ進んでくる。紺はおとなしく耳をかたむけ……ふと気づいた。
足音は、大人二人分ある。
連れ立って客間に入ってくる気配。
唇をふさぐ山内くんの手のひらが、緊張ゆえかほのかに汗ばむのを感じた。
入ってきた者たちはすぐ隣室……たしか仏間……へと通過していった。動く気配はするが、会話は一言も聞こえてこない。無言でろうそくを灯し、線香に火をつけ、手を合わせている情景が目に浮かんだ。
それから、かれらはふたたび客間に戻ってきた。ふすま戸がすうっと開いて、閉まる音。
山内くんのパパの声がした。
「――ありがとうよ、楓ちゃん。いつもこっちで手を合わせてくれていたんだろう。佐知子と
(楓?)
驚きに目を見開く紺の耳に続けて入ってきたのは、
「お礼など……先輩。佐知子は、わたくしの友人だったんですよ」
まぎれもなく、母親の声だった。声は苦笑と懐古、そして哀愁を帯びている。
「ただ……佐知子はともかく、隆之さんはわたくしが手を合わせても喜んでくれるでしょうか。わたくしは十妙院ですが」
「問題ねえだろうさ。隆之のやつは祝部本家の当主ってえ立場にもかかわらず、この町の古い考え方が大嫌いな奴だった。俺以上にな」
パパの声もまたしんみりと、思い出を噛み締めるように変化する。
「一度四人で会ったことを思い出しな。対立する家の人間だからと、楓ちゃんを隔てるような素振りはかけらもなかっただろ。
もうちっと、楓ちゃんにもあいつのことを知ってもらいたかった。その前に逝っちまったが」
「ほんとうに残念です。
あの一回しか、間近で言葉を交わしたことはないけれど。そういう方だと知ってさえいれば、もっと早く打ち解けることができたかもしれないのに。
祝部隆之さんが……あの穏やかな人がすべての鍵だったのだと、この十年で何度思ったことか。かれがあのとき、とつぜんに亡くなったことで、何もかもが変わってしまった」
「……たしかにな。こんな成り行きになるとは、あのころは想像もしていなかった」
「ええ、先輩」
楓さんの声にこもる感情が、そのとき微妙に変化した。
「隆之さんがご存命であれば佐知子は……かれと結婚していたはずだった。あなたではなく」
(いったいなにを話してるんだよ、楓……佐知子ってひとが、おじさんの奥さんで、それが死んだ祝部の当主と結婚するはずだった?)
母の言葉に当惑して、紺は話の先を求めた。息を殺している山内くんの胸前へと、割りこむようにごそごそと動く。自分もすきまから室内をうかがった。
あかね色に染まった室内。窓辺の床に、放心したように座っている楓さんの姿が見えた。白足袋を履いた足を崩して、片手を床につき、視線を窓にあてている。さながら窓が、過ぎ去った時代を描いた追憶の絵画であるかのように。
差しこむ西日に染まったその姿は、芯を抜かれたようにうつろで、見るものをうずかせるような
「あなたはとつぜん、佐知子を連れてこの町を出て行ってしまった。
みんないなくなって、先輩……
楓さんは、そっと息をもらして言った。知らずのうちにか、
「僕は、あなたが佐知子と籍を入れたと聞いたから、それまで断っていた見合いを受けたんです」
「……そうか」
パパの声に、困惑が混じった。
困っているのは押入れで聞いている紺も同様である。
(なにこれ。なんかやだ)と顔を伏せたくなる。母親の告白など、聞いても気まずいばかりだ。母が少女だった昔の話だとしても。父は自分が生まれる前に死んでいるのだから、未亡人の母がいつ再婚してもおかしくはないと頭ではわかっていても。
「ごめんなさい。いまさらこんなことを言い出して」
恥じいる様子で楓さんはうなだれる。
が、はたと気づいた表情で顔を上げ、あわてた声を継いだ。
「あの、はしたない女だと思わないでくださいね。いまになって先輩に受け入れてほしいなどと、そういうつもりで話しているのではないですから。
ただ……聞いてください」
楓さんは表情に浮かんでいた慕情の残滓を消し、居住まいを正して、
「わたくしは、あのころあなたを見つめていました。あなたが佐知子をひそかに見つめていることも、その佐知子に恋人が……隆之さんがいることも知っていました。
あなたは、好いた女を親友から奪おうとするような人ではなかった。たとえそれが友人の死後であっても、いえ、亡くなった直後だからこそなおさらに」
だから、あなたと佐知子の唐突な結婚には当初から違和感がぬぐえませんでした。
きっぱりと、彼女はそう言った。
無言のパパに向けて、さらに断定の言葉を投げかける。
「あなたは、おなかに邪鬼丸くんのいた佐知子を守るために籍を入れたのでしょう?
邪鬼丸くんは、隆之さんの子。そうですね」
パパは黙ったまま、すぐには答えなかった。
だがその痛いほどの沈黙こそが、それが真実だとなによりも雄弁に語っていた。密着した山内くんの体がわなないたのが、紺にはわかった。
「……俺は隆之に、自分になにかあれば佐知子のことを頼むと言われたことがある。
まるで自分の死を予感しているみたいな言い方で、縁起でもねえと俺は怒ったが、翌週あいつはほんとに死にやがった」
ようやく、パパの声が流れ始めた。すべてを認める告白。
「佐知子は知ってのとおり孤児出身で、元から頼れる身よりがない女だった。
そのうえ、隆之のやつを失った打撃が大きすぎた。佐知子はあの日から、二年後に死ぬまでずっと心身の状態が思わしくなく、自分の身を守れるような状況じゃなかったんだ」
「はい……覚えています。『絶対に、通夜にも葬式にも顔を出しては駄目』と言ったのに、あのときだけは佐知子はなにかに憑かれたようになって、わたくしたちの言うことを聞かなかった。結果、祝部の縁者たちに、彼女の存在は知られてしまった。魑魅魍魎のようなあの人たちに」
大人ふたりの嘆息。
「楓ちゃんの言うとおり、佐知子の腹にはすでに隆之の子がいた。ほかの祝部分家の術者……あの、隙あらば本家に取って代わろうとしていた連中、
「だから先輩はそれを誤魔化すために、生まれてくる子を、自分の子と偽れるようにしたんですね。
生まれた子が祝部の徴を備えていても、それは分家であるあなたの血のゆえだと思わせられる。この土地から離れて、祝部に二度と関わらないという姿勢を見せたのも、かれらの悪意をできるかぎり避けるためだった」
隠されていたものが暴かれていく。
「あなたは友人の死で故郷に嫌気がさし、恋人を連れて出ていき、よその土地で結婚したのだと……周りにそうよそおったのですね」
「実際、嫌気がさしていたからな。この地を捨てるにためらいなんざなかった。
もったのは数年だったけどな。邪鬼丸は結局分家の誰かに目を付けられちまったようだ。姫路なんぞと言わず、もっと遠くへ逃げりゃよかったのかもしれん。
そうしなかったのは……」
パパの慙愧に満ちた吐露。
「そうしなかったのは、俺の手に余ることが起きれば、十妙院に……楓ちゃんに助けを求められるという甘え心があったからだ。
すまねえ。勝手に行動したくせに、最後はいつも頼っちまって」
「ほんとですよ。全部は打ち明けてくれず、僕が必要となったときだけ戻ってくるんですから」
楓さんの雰囲気がまた崩れる。目元を赤らめ、泣き笑いに近い表情。
「佐知子と出ていくときは『たぶんまた来る。連絡する』としか言わずに行ってしまって。待っていたら、来たのはあの子と籍を入れたという報せだった」よほど根に持っていたのか、彼女はさっきと同じことを繰り返した。さっきと違うのは、切なげに怨ずる響きがたっぷり声に含まれているところであろう。「謝られたっていまさらです。先輩はいつだってわたくしに対しては勝手なんです」
「……すまんかった。いろいろと」
「もういいです。先輩はそういうひとだもの。にぶくて、一途で、融通のきかないひと。
そういうあなただからしょうがありません。親友と好きな女のあいだの忘れ形見を守ることしか、頭になくたって」
押入れのなかにまで、話は残らず響いていた。
紺の背に密着した山内くんの体が細かく震え続けている。
紺はどうすればその震えを止めてやれるのかわからず、唇を噛み締める。大人たちの話をもう聞かせないほうがいいのだろうか。
(お祖母様がこいつに吹き込んだのは、この話かよ)
今日のこの時刻、この部屋に隠れていれば、ほんとうのことを確かめられるよと山内くんに言ったのだろう。
(こんなこと明かしてどうすんだよ? お祖母……あのクソババア)
直後だった。
山内くんが押入れの戸を開け放ったのは。
紺が制止する暇もなく、かれは紺の横から室内へと飛び出した。
驚愕の表情で、パパと楓さんが座布団から立ち上がる。パパの前で一瞬だけ山内くんは動きを止めた。
少年はくしゃりと歪めた顔をそむけ、玄関そして外へと駆け出していった。
● ● ● ● ●
夏の夕べの通り雨が降り注いでいる。
缶蹴りで遊んだ公園の樹の下にすわりこみ、山内くんはひざに顔を埋めている。頭のなかがぐちゃぐちゃで、どうすればいいのかまったくわからない。
(銀さんの言ったことはぜんぶほんとだった。あの人の指示通りにしたら、パパたちの話を聞けた)
ほんとに未来詠むんだ、すごいなあの人、と現実逃避気味に感心する。現実など見つめたくなかった。
――僕はパパと血がつながっていない。
――僕の本当の父親は死んでいて、パパはかれの遺言で僕を引き取っただけの人。
銀に教えられ、先刻確定したその情報が、いつまでもぐるぐると頭のなかをかき乱している。枝葉のあいだを縫って夕立の雨粒がしたたってきていたが、それを避けて移動することすらおっくうだった。
(この町に来なきゃよかったな)
身を濡れるに任せながら、そう強く思った。来なければ、こんな知りたくもない話を知らずにすんだはずだった。
自転車が止まる音。
「山内……」
少女の声がかかり、雨滴が頭上から落ちてこなくなった。
山内くんはちょっと顔をあげた。
水玉模様の傘をかれに差しかけて、自転車から身を乗り出した紺が目の前にいた。
なんで君が泣きそうな顔してるんだよ、とちょっとおかしく感じる。
「あのさ……とにかく、帰ろう。おじさんが心配してる」紺はそう言う。
「パパが」
山内くんは口のなかで言葉を転がし、
「……先に帰って。僕は、あとから戻る」
「放っておけるか。いっしょに帰ろうって。なあ」
面倒見の良い紺の気質を、山内くんはよく知っていた。
だがこのとき、かれの精神状態には余裕がなかった。いつもならこの程度で覚えるはずのないいらだちが、あぶくのようにふつりと生じる。
口角を吊り上げるようにして、無理やり笑う。
「だいじょうぶ、紺……僕だってそこまで馬鹿じゃない。ちゃんと帰るってば」
「いいから。行こ」
傘の柄を持った紺の手が、指を伸ばしてかれのシャツの袖をつかむ。
そのおせっかいさに、いらだちが瞬間的に自制を突破して、
「うるさいな!」
傘ごと少女の手をはねのけてしまった。傘が宙に舞って落ちた。
「僕のことなんか放っておいてよ!」
怒鳴って彼女を見上げてすぐに、山内くんは後悔した。
手を振り払われた紺は呆然としていた。それから眉がぎゅっと下がって目尻に涙がたまり、
「そんなら勝手にしろよっ! どこにいるかはおじさんたちに伝えるからな!」
怒鳴り返すと、立ちこぎで紺は走り去っていった。
取り残された山内くんは、自己嫌悪に唇を噛む。手を差し伸べてくれた女の子を泣かせてしまった。
(最低……)
すぐに帰ろうと思った。
戻ってもどうすればいいかわからないが、ひとつだけやることは決まっていた。紺に謝る必要がある。
のろのろと立ち上がった。林道に転がった、水玉模様の傘を拾い上げようと歩き出す。
歩く。
歩く。
いつまでも、数メートル先の傘にたどり着けなかった。
視界が揺れている……大地が波打ち、木々や傘がぐんにゃりと歪んでいる。山内くんはひどく気持ち悪くなって転倒した。吐き気。視界が回転する。車酔いを最悪にしたよりもっとひどい。
目の前に、自転車のタイヤが見えた。
紺が戻ってきたのかと思ったとき、アオオニの嗤い声が降ってきた。
「おい、どうした。今日はずいぶん、摂魂術がかかりやすいなあ?」
続いて後頭部に強い衝撃がぶつかり、山内くんの意識は刈り取られた。
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