第20話 嵐の前の〈2 おからす様〉

「山内。ちょっとオレ出かけてくる」


 昼下がりになって、紺は庭先に声をかけた。


 十妙院家の庭園に比べるとこぢんまりした庭で、山内くんはジャージを着て型の演武をしている。上段回し蹴りをぴたりと止めた少年は、汗をぬぐいながら、彼女にけげんそうな目を向けた。


「……自分ちの蔵に忍び込みにいくの? きちんと楓さんに許可とったほうがいいと思うよ」


「ちげーよっ。鍵持ってかれちゃったし、そっちは楓が帰ってくるまで諦めてるよ! そうじゃなくてアオオニの行動についてよく知ってる人がいるから、話を聞きに行くんだよ。小学校までな」


「あ、僕も――」


「いや、自転車でさっと行って帰ってくるから。オレひとりでいいよ。おまえは気にせず稽古ソレやってな」


「……あの、でも、それだと僕ひとりでこの家に残ることになっちゃうんだけど」


 山内くんの表情に不安の影がきざすのを見て、紺は呆れた。


「なんだよ、すぐ戻るって。おまえ楓から護身の符もらってるだろ? なにかあっても少しのあいだなら保つ。だいたいなぁ、腕っ節強いくせに度胸が足りてなさすぎだろ、おまえ」


「しょ……性分なんだからしょうがないだろ」


「おまえってなんだかアンバランスなとこあるよな」


 きまり悪そうな表情になった山内くんをしげしげと見ながら、紺はそう評した。





 木造の小学校校舎の職員室では、古いエアコンの音に混じって苦い声が響いていた。


「事情はわかったが、十妙院。溺れた人を助けるために自分も飛び込むのは危険だ、と体育の授業で教えただろうが」


 パイプ椅子に深く腰かけた石田先生は渋い顔をしている。くどくど説教され、立ったままの紺はうつむいて聞き流しはじめた。


(めんどくさいことになったなぁ)


 どうやら河虎岩の淵に飛び込んだところを橋の上から見ていた人がいたらしい。それが小学校に連絡されたようで、顔を職員室に出すなり紺はそのことについて詰問されたのだ。説明した結果がこの説教というわけである。


「まったく……だれかが溺れたときは、岸から長いものを投げて溺れた人に掴ませるんだ。ロープのようなものがなければみんなで服を脱いで袖やすそを結び合わせてだな……それとすぐに大人を呼びなさい」


 紺は反論したくなった。

 あのとき、服を結び合わせている時間などなかった。彼女が意を決して淵に飛びこみ、山内くんを水面にとどめなければ、水神に目をつけられたかれは底に引きこまれていただろう。とっさに撒いた身代わりのための人形ひとがた紙片も間に合わなかったはずだ。


 だがそういうことを言っても石田先生には通じるまい。迷信のたぐいはいっさい信じないことを公言している人なのである。


(自分もこの明町の出身のくせに、こういうことにはアタマ固いんだもんなー)


 紺にとってこの眼鏡の教師は、べつだん嫌いではないが“やや苦手”な人物であった。たぶん向こうもそう思っているだろう、問題はないが付き合いにくい子だと。


「……言っておくがな、十妙院。先生は、おまえが人助けをしたのは良いことだと思っているんだぞ。方法が感心せんだけだ」


 とってつけたように石田先生は言い、直後に顔を嫌悪に歪めた。


「それにしても……青丹あおに阿嘉島あかしまか。あのトラブルメーカーどもはほんとうにどうしようもない」


 紺と石田先生は、ひとつだけ認識を共有している。

 アカオニアオオニを嫌うという一点で。


(やっと本題に入れそうだ)


 紺はこの先生に会いに来たのである。アオオニについてよく知っている人――それはまさしく石田先生だった。長年生活指導を行い、地域の青少年保護活動にもたずさわってきたベテランの教師。ボランティア補導員も兼ねているため、これまでオニ二人にさんざん迷惑をかけられてきた人。


「石田センセ。あの二人をたまに補導することあるよな?」


「あ? ああ。どちらも問題児だからな」


「あいつらがどこ行ってどういう悪さしてるのか教えてもらっていい?」


 石田先生はまじまじと紺を見つめた。疑惑が銀縁眼鏡の奥の瞳に浮かんだ。


「そんなことを聞いてどうする、十妙院。あんな連中となどつきあうな。感化されていいことはないぞ」


 その余計な警告は紺をいたく憤慨させた。


「ちっげーから! なんだよそれっ、あんなやつらとつるむわけねーだろ!」


「じゃあなんでそんなことを知りたがる」


「それは、えーと……そうだよ、アカオニのやつが穂乃果のビー玉盗みやがってたんだよっ。オレたちの仲間だって被害にあってんだ、今後避けるためにもあいつらの行動パターン知っといて悪いことないだろ」


 苦しい説明だったが、予想外の助けが入った。奥の机で事務作業していた初老の女性教諭が、「あら」と顔を上げた。驚いた顔をしているその女性は穂乃果の組の担任である。


「大浜さんのビー玉のこと? 没収したあと紛失してしまったとは聞きましたが、そんなことになってらしたんですか、石田先生?」


「……ああ」


 石田先生は苦り切った表情になっていた。紺をちらりと見てため息をつく。


「そうか、阿嘉島が。うすうすそうではないかと思っていたが。

 あいつを隣町で補導した夜に、ポケットのなかに入れていたものをあいつにごっそりすられたようだな。ちょうど大浜から校則違反で没収した日だった。まったく……あの手癖の悪さは教師では更生させようがない。もうこれはカウンセラーの役割だ」


 穂乃果のビー玉がどういう経緯をたどってアカオニの手に渡ったのかは明らかになった。だが、紺にとって、本当に聞きたいのはアカオニのことではない。


「隣町?」黒焦げ死体となっていた高校生が消えた場所。「……センセ、そんとき補導されたのはアカオニだけか?」


 その情報こそ、紺が知りたいことだった。彼女ははやる気持ちを抑えて問い詰める。


「アオオニのやつが一緒にいたんじゃないのか?」


「……まあな」


「アオオニはよく隣町に行くのか?」


 根負けしたように、石田先生はしゃべりはじめた。


「あいつはあちこちに出向く。主に深夜から早朝にかけてだが……小学生のころから無許可で校区外をぶらつくやつだった。二度ばかり、姫路市で補導されたことすらある。

 万引きや喧嘩を行う阿嘉島と違い、猫や鳩を殺す以外、さほど目立つ問題を起こしてはいないが……これまで、あいつを補導した現場近くでは、事故や火災が起きて重傷者が出ていることが多かった。あいつはいつもその様子を見ている。他人の不幸をのぞき見る趣味なのだろうかね」


 嘆かわしげに石田先生は言うが、紺は(違う)と確信していた。

 アオオニは事故や火災に寄っていくのではない。おそらく面白半分に術を試しているのだ。


(アオオニは隣町に出て行く……呪いを振りまいてる……姫路市にまで行ってる。姫路の山内のアパートは、原因不明の火災に遭ったんだったな。確定か?)


 ありがとセンセと礼を行って、紺は外に出た。

 来た時には肌に痛いほどだった夏の西日がかげっていることに気づく。空に入道雲が広がっている。大気は湿ってむっとこもり、雨のにおいがただよってきていた。





 急いだが、山内家への帰路の途中で夕立に降られた。

 玉砂利が打たれてはねあがるほどの豪雨で、自転車を飛ばしたのに、ものの数分で完全な濡れ鼠である。


「うえー……昨日に引き続きまたぐっしょりかよ……」


 自転車を山内家の軒下に止め、紺はぼやいた。肌にぺとっと貼り付いたTシャツの胸元をひっぱり、頬にわずかに朱を散らす。


(山内に見られる前にさっさと着替えよ。……着替えがないけど)


 あいつの服を借りるしかないなと思いながら家に入る。とたん、野太い声に出迎えられた。


「おう、おかえり紺ちゃん。運悪く夕立に追いつかれたようだな」


 先に帰って来たらしい。台所に山内くんのパパの背中が見えた。夕食の食材を並べているようである。

 そろそろと後じさって柱の陰に体を隠し、紺は恥ずかしげに聞いた。


「お邪魔してるよおじさん、あの、ところで着るもの貸してもらえない? 山内のでいいんだけどさ……」


「邪鬼丸のでいいなら車庫に陰干ししっぱなしだな。乾いてると思うが」


「ありがと!」


 紺は外に駆け戻ってシャツとデニムのショートパンツを取ってくる。見られないように素早く、廊下を浴室のほうへと渡る。


「シャワーもらうよ、おじさんっ」


「そうだな。飯はまだかかるから、先に浴びとくのがいいな」


「はーい」


 直後、「……あ、ちょっと待った」と山内パパの慌てた声が届いた。あいにくそのとき、紺はすでに脱衣所の扉を開けていた。

 湯上がりの少年が彼女のほうを向いて立っていた。全裸。

 稽古を終えてシャワーを浴び、バスタオルで髪をふいていたところのようだった。紺を見て石化している。


「うわわわわわわわごめんっ!?」


 うろたえた紺は焦って戸をぴしゃんと閉めた。



   ●   ●   ●   ●   ●



 ふすまごしにぎゃんぎゃん子供たちのいがみあう声が響く。


「信じられないよ! ふつうノックするだろ!?」


「うっかりしてたんだよ何回も謝ってるだろーがしつけーなー!」やけくそ気味に紺が開き直った。「おまえだって前にオレの胸さわったじゃねーか!」


「そっ、それこそとっくに謝っただろ! だいたいあれはっ……!」


 紺がさっきから何かしている部屋に顔を出し、山内くんはさらなる抗議をしようとしたが、タオルを投げつけられた。


「こ、こっち来んなっバカぁ!」


 シャワー上がりで山内くんの服を着た紺は、鏡台の前に座って顔を赤くしている。シャツにショートパンツだけならいつもの格好に近く、恥ずかしがる意味が分からないのだが、よく見ればひらひらした白帯みたいなものにドライヤーを当てている。もう片方の腕では、いつになくふっくら張り詰めたTシャツの胸元を、隠すように抱いていた。


 それで白帯の正体が胸に巻いていたさらしだと気付き、山内くんはあわてて台所に退散する。


「今夜は天津飯だぞう」


 のんきに中華鍋を振っているパパを、山内くんは尖った目でにらみつける。先刻の事故は、パパの細かいことを気にしない性格のせいで起きたようなものである。文句のひとつも吐いてやろうと口を開けたところで、プラムを一個目の前に突き出された。


「……なにさ、これ」


「完全に日が暮れる前に、おからす様にお供えしてきな」


 おからす様。

 山内家の縁の下に住まうという、丸いものを一日一個求める神様。

 そういえば最近はパパに任せちゃってたな、と山内くんはプラムを受け取りながら思った。

 雨が上がったばかりの庭に降りて、縁の下に果物を転がす。


「おからす様。お供えです」


 手を合わせながら、山内くんはふと思った。


(おからす様って、ほんとにいるのかな。いたらいまの僕には見えるかもしれないけど)


 どんな姿だろうか。やはり鳥なのだろうか。つかの間、縁の下を覗きこんでみようかと考える。


(やめとこ。なんか怖いし)


 そのまま台所に戻ろうとしたが……



 〈げえ〉



 はっきりと縁の下から鳴き声がした。山内くんはぱっと視線を下ろす。

 一瞬だけ、細長い影が縁下からはみだすのが見えた。うろこに覆われた、爬虫類の頭部……


(黒い蛇?)


 極楽縄のあれとは違う。きちんと頭があった。


(真っ黒い蛇のことをカラスヘビって言うんだったよね……おからす様ってそういうこと?)


 でも蛇って鳴いたっけ、と思いながら山内くんはじりじりと後退する。


 〈げえ〉とふたたび軋るような声が響き、そして、それは出てきた。


 蛇では、なかった。


 それはやはり名前のとおりからすだった……頭と胴体は。

 尾が黒い蛇になっている。二本の足は、猿の手のような毛むくじゃらの手のひら。血の色の瞳を鈍く輝かせ、黒い翼を広げてよたよたと歩み出てきた。


 呼吸すら止めて凍りついている山内くんの前で、“おからす様”はプラムの実をつつきはじめた。食べるのではなく、くちばしを突き入れて果肉を崩している。果物の汁が飛び散ってゆき、核がほじくり出されていく。その様子が、たとえようもなくいとわしかった。


 核をくわえて、“おからす様”は山内くんを見つめ返した。

 くちばしのあいだから、亡者がすすり泣くような唄声が響いた。


膿血のうけつタチマチ融滌ゆうてきシ 臭穢しゅうえハ満チテ肪脹ほうちゃくシ 膚膩ふにコトゴトク爛壊らんねセリ 人ノ死骸ハかず知ラズ〉


 山内くんは蒼白になってさらに後じさる。

 なにを唄っているのかわからない。ただひとつわかることがある……


(この歌は……あの、暗い夢のなかで聞いた)


くらワセ給エ人ノ


 いびつな動きで、“おからす様”は歩いてくる。


萬里ばんりガ間ニ音モセデ 地ヨリ湧キタル血ノ泉 十悪五逆ノ咎人とがびとノ こうべ連ネテ 頭連ネテ 六道地蔵ガむくろ喰フ サテモ目出タノ宮詣みやまいリ ひとふたみよいつむにななやト言ヒそろヨ 夜ノト夜ノト御伽おとぎニヤ 身ガ参ロ身ガ参ロ――〉


「寄るな!」


 赤い凶眼で見つめられて、山内くんは絶叫した。


(これはだめだ。関わっちゃだめなものだ)


 身に沁むように冷たい恐怖は、まぎれもなくあの夢で味わったのと同じものだった。

 呼吸がいやに苦しい。視界が狭窄していく。夕闇の中に自分とおからす様だけしかいないような気分になっていく。


 そのとき、手をにぎられた。温かく汗ばんだ人の手の感触――はっとして山内くんはそばを見た。紺がかれと同じく青ざめた顔で、かたわらに立っていた。


「こ……紺」


「あれを見るな。そばにいて見つめたりするから、おまえを新しい主と認識しかけてるのかもしれない。来い」


 悪夢から醒めたような心地で、山内くんは彼女に引かれて家に上がる。げえ、と鳴き声が背後で聞こえたが、決してふりかえろうとは思わなかった。


「あれはたぶん、祝部はふりべが使っていた古い式だ」


 家に入ると、紺はつないでいた手をほどき、固い表情で山内くんに告げた。


「祝部本家が滅んだときにいろいろな儀式や式神や呪具が散逸したっていうけど……あれは分家のおまえんとこに預けられてたんだな。伝承によれば、あれは鉢割烏はちわりがらすっていうんだ」


「鉢割烏……」


「鉢は頭のてっぺんだ。……丸いものをお供えに求めてたんだろ?」


 丸い卵。

 丸いおにぎり。

 丸い果物の実。


「山内、たぶんそれ、人の頭の代用だぜ。そうやってあの危険な式をなだめてたんだ。

 あーくそ、気持ち悪りー……あれたぶん、たくさんの人間を蠱毒に使って生み出してる。強力なわけだ」


 山内くんは新たな冷や汗が背筋を濡らすのを感じる。


「紺……祝部って、なに」


 おののきながらたずねた。


「この町に来てからよくその名前を聞く。アオオニも言ってた、僕は祝部の分家の子だって。それなのに僕は祝部というものをぜんぜん知らないんだ」


「……祝部はオレたち十妙院の昔からの敵だ。

 同じ外法の家で、この町にオレたちよりずっと古くからいて、オレたちより勢力が大きかった。この明町あかるちょうのほとんどの家は、さかのぼれば祝部から分かれてる。そのなかでも血の濃い家は、祝部本家のほか青丹あおに万津よろづ芦屋あしや、それにこの家……山内家だ」


 紺はついっと、山内くんの胸を指で指した。


「でも、祝部はもう終わりだ。

 祝部本家と芦屋は、ここ二十年で後継者が絶えて断絶した。万津家と青丹家は、才のある子が数代生まれなかったので、かなり前から衰えてる。山内家もそうなると思う――現当主の、おまえのおじさんがこの業界とほぼ縁を切ってるからな。

 アオオニはオレが潰すし……もっとも才能がありそうなおまえも、深入りするつもりはねーんだろ?」


 一も二もなく首肯する山内くんに、紺はほうとため息をついた。


「オレ、おまえの見鬼が無駄になるのはもったいないと思ってたけど、いまはそれがいいって思う。実際に見たのは今日が初めてだけど、祝部の術は……ちょっと……あまりに容赦がなさすぎる。外法にしてもくらすぎる。

 おまえが影響されて、アオオニみたいにねじ曲げられるところなんか見たくねーや」


「紺……」


「……ま、祝部が復活しなきゃ十妙院の天下になるしな。不戦勝ってやつだ」


 紺は暗鬱さを消し飛ばそうとしてか、朗らかな笑みを山内くんに向け、


「家々のこういう話は、オレより楓のほうが詳しい。興味があるなら、明日あいつが帰ってきたら聞くんだな。

 さて……おじさんには、お供えはもうお前にさせないように言っとかなくちゃ」


 しかし「お供え」の必要はなくなった。

 この夕方より後、縁の下におからす様を見たものはいない。

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