第7話 よってくる夜
パパはいったん実家に帰り、山内くんだけが夜の十妙院家に残される。
あてがわれた寝室には蚊取り線香の煙がただよっていた。
二組のふとんが並べて敷かれたその部屋を見回し、山内くんは疑問をおぼえた。さっきの部屋とほぼ同じ造りの、純和風の畳部屋だが……
(お札が貼られてない。こっちはふつうの部屋に見える)
「とっとと寝よーぜ、夜も遅いんだ。ったく、すぐ脱ぐのに振袖なんか着せやがって……」
となりに立った紺が心底眠たげにうながしてきた。
ついさっきまで振袖姿だった彼女は、すでに白い
彼女に山内くんは疑問をぶつけてみた。
「あの……この部屋はなにもしてないんだね。さっきの部屋にはお札をべたべた貼ってたのに」
「あれか」紺はふわふわ口を開けてあくびまじりに答えた。「ありゃオレが女のカッコするときのための結界だ、気にすんな」
「え?」
「うちの伝統でオレ、男装を簡単に解いちゃだめだから。原則としては、女の服着ていいのは、あの部屋みたいな結界のなかでなんだ。
ともかく、こっちの部屋が本来の客間。結界は貼ってない」
君のいうことはよくわかんないよ、と山内くんは困ったが、紺はそれで説明は済んだとばかりに電灯のひもに手を伸ばした。
豆電球をのこして部屋の明かりが消える。
「注意しとくけど」
二人して布団に寝そべったのち、紺が釘を刺してきた。
「こうなったからには、ちゃんとオレの目のとどくところにいろよな。めんどくせーけどやるからにはきちんと守ってやる。安心しな」
「そうするけど……でも、あの、寝室までいっしょにする必要が……?」
「これは罠だから」紺はとんでもないことを言った。「あえて呪詛を呼びこんで現場でその術を解析し、どこのだれが悪さしてるのか探るのが手っ取り早い。おまえがネズミ、犯人が猫、オレが犬だな。猫がネズミを仕留めに来たら、犬が現行犯で首根っこ捕まえるのさ。おまえがやられてもちゃんと犯人は突き止めるから、安心しな?」
「どう安心できるんだよ!?」
「冗談だよばーか」
意地悪く笑って、紺は天井の隅を指さした。
「罠ってのは本当だけど。
おまえはさっき気付かなかったけど、この部屋だって何もないわけじゃない。あそこの、わかるか?」
言われて視線を天井に向け、山内くんは気づく。小さな点ほどの光がひとつ灯っている。
「……蛍?」
「監視用の式(式神)だよ。この部屋で起きることは楓やお祖母様に筒抜けになってるんだ。だからもしもおまえがオレにトチ狂ったことしようとしてもすぐわかる」
「しないよ!」
どういう意味かぼんやりわかる年頃である。赤面して山内くんは否定する。紺はとりあわず「しかしおまえ、ほんとにあの式が見えてんだな。隠密性高いから、オレだって目を凝らさなきゃ見えないのに」と感心した。
「おまえ自身もその目ぇしっかり使って警戒しとけよ?
楓がさっき話してたろ。見鬼をすぐ封じないのは霊障や呪詛への対処に役立つからでもあるんだ」
「……呪詛って、見えるものなの?」
「見えるよ。呪詛ってのは式を使うものだもの。つってもおまえの場合、まだ呪詛だとははっきりしてないんだっけ」
紺は寝返りをうって山内くんのほうを向いた。整った目鼻立ちが、口元のおぼろな炎に
さいわいといっていいのか、紺がおそろしいことを言ったので、すぐ山内くんの意識は別方向に向いた。
「完全な偶然というには無理があるから、呪詛じゃなかったとしたら悪質な憑き物だろうけど」
憑き物。
以前からうすうす危ぶんでいたことではあるが……あらためて聞くと、呪詛よりもぞっとした。
「なにかに
紺はなぶるような笑みをニッと浮かべた。
「霊にならずっと憑かれてたぜ。……待て待て、そうおびえんなって。憑いてる霊がいたけど、それは悪いものじゃなかったんだ。だから昔、オレは牙笛をおまえに渡したのさ」
ますます混乱する山内くんに、紺は「牙笛ってのは」と説明する。
「危険が迫ったとき、すぐそばにいる好意的な霊が鳴らしてくれるものなんだよ。おまえは憑いてるものに守られてた」
「……守護霊ってこと?」山内くんは漫画で得た知識を思い出した。
「あー、そう言ったほうがわかりやすいかぁ。ともかく、おまえはカラカラに乾いたぞうきんみたいな奴だからさ」聞きようによっては失礼きわまりないことを紺は言った。「ぞうきんが水を吸い込むように、怪異や災いを引きこむ体質してるよ。そばにいる霊に守られてなきゃ死んでたなぁ」
嘘だと言うには、過去にいろいろありすぎた。脳裏に浮かぶのは車に崖下へはね飛ばされてダムで溺れた記憶、誘拐されて逃げないよう脚をバットで叩き折られた記憶、ショーウインドウガラスの倒壊に巻き込まれて血だまりのなかで痙攣するはめになった記憶だ。
げっそりしたのち、気をとりなおして話の焦点を変える。
「僕を守ってくれてる霊って、どんな姿かたちなの?」
「外見までははっきり確認してねーよ、オレは気配感じただけで……でも、おおかた祖霊(先祖の霊)だろ。ほとんどの場合はそうだもん」
「ふうん……女の人かな?」
ママかも、とかれは考えた。山内くんのママはかれが幼いころに鬼籍に入っている。
だが、紺は否定した。
「いや、たぶんだけど若い男。男と女じゃ霊気の陰陽の配分が違うからわかる」
「そうなんだ」どうやら顔も知らない誰かが守護霊らしい。
「いっそ自分で見たらどうだ? おまえは見鬼だけならオレより上かもしれないんだろ。ほら、いまはわかりにくいけど目を凝らせばそこの……」
紺は山内くんの守護霊を探すようにきょろきょろしはじめ――
「あれ?」
いぶかしむ声をあげた。
「おかしいな、気配が薄いどころかまったくなくなってる」
「え? そうなの?」守護霊がいないと聞いて、にわかに山内くんは不安になってきた。
「ああ。守る霊がいないんじゃ、牙笛あっても役に立ちゃしないな」紺の声にわずかな困惑が混じる。「なんで守る霊がいなくなってんだ、おまえ?……もしかして、オレがおまえを見鬼にしたのが関係あんのかな? 離れられちゃった?」
彼女は勝ち気そうな眉を、気まずげに下げた。「そのう……そうだとしたら、わるかったよ」と山内くんに初めて謝った。守護霊の不在におびえながらも、「うん」と山内くんは受け入れた。いなくなったものはしかたないし、ちゃんと謝られたのだから許すのが筋だ。
おたがいなんとなく沈黙する。鈴虫の音が庭からしばし聞こえてきていた。
「あの……十妙院さん?」
「なんだ……待て、下の名前で呼べよ」
山内くんが呼びかけると、紺は微妙に苦い表情で訂正を求めてきた。「オレ、家名で呼ばれるの好きじゃないんだ」
僕の逆だな、と山内くんは思った。かれが嫌いなのは自分の下の名前である。とりあえず呼び方を直してみる。
「じゃあコン太さん」
「おまえけっこう陰険だな。はいはい名前でウソついたのも悪かったよっ。なんだよいったい!」
「紺さん。なんで話し方やあれこれ、男の子っぽくしてるの?」
それのためにずっとこの少女のことを、少年だと勘違いしていたのだ。
「さっきは意味があることみたいな口ぶりだったけど……結界のなかでしか女の子の格好できないとか」
「これか」紺はあっさり教えてくれた。「おまえの名前と似た事情だよ。昔から伝わってる、幼いころだけの魔除けの風習だ」
山内くんは衝撃を受けた。
(僕の名前と同じ事情? いやそれより、邪鬼丸だなんてふざけた名前に事情があったの?)
紺が淡々と説明する。
「呪いや物の怪から子供の身を守るおまじない』なんだよ。わざわざ子供に恐ろしい名前やけがれた名前をつけたり、子供の真の性別を隠したりするのは。
うちはいまでこそ上品ぶってるけど、もともと呪術使って後ろ暗いことやってた、いわゆる
一人前になったと認められたら好きに女の服も着られるけど、それまでは基本的に
こんなしきたり、いまの世じゃアホらしいったらないよな。紺はぼやくが、さりとて積極的にしきたりを破るほどの憤りはないようだった。
彼女の事情はわかったが、山内くんの関心はすでに自分の名前の由来に向いている。
「あ、あの、僕の名前についてももう少し詳しく説明してもらえると……」
「あー、うん。
んでさっき言ったように、幼名には恐ろしい字やけがれた字……たとえば『夜叉』『鬼』などを使って災いを遠ざけることがあった。おまえの名前はそれだろたぶん。理解した?」
「昔から伝わるしきたりって迷惑だなあ!」
山内くんは悲憤慷慨した。いまのご時世、改名はそうたやすくできないというではないか。紺のほうは身なりと口調を改めるだけですむのだから、自分よりましに思える。
紺があくびする。
「同感だけどカッカするのは明日にしろよ。いいかげん寝よーぜ、もうじゅうぶんに遅いんだ。あとオレの名前だけど、さん付けでなくていい……友達みんなオレのこと呼び捨てで呼んでる……」
それきり彼女は草木柄の
山内くんは微妙に途方にくれた気分で彼女を見やる。
友達になったのだろうか。よくわからない。
寝ついてしばらくしてから、山内くんは意識を再浮上させた。強い異臭を感じたのである。血なまぐささと獣臭さが混じった異様なにおいだった。
(……なに?)
目を開けてみると部屋の隅を四つ足でぐるぐる回る影がある。
それは凍りついている山内くんの視線に気づいてぴたりと動きを止めた。頭とおぼしき部分をぐるりとめぐらせてかれをねめつけてきた。
中型犬ほどの大きさのそれは、最初は黒いもやのような姿だった。だがじわじわと輪郭を明らかにしてゆく。血かなにかでひどく汚れた毛並みが見えはじめた。
「うわっ……!」
山内くんは上掛けをはねのけて身を起こそうとする――が、そこでかれの頭に、のしっと少女の重みがかかった。
「失せろよ」
ひざ立ちで紺が起き上がっていた。山内くんの頭に組んだ腕を置き、かれのうしろから身を乗り出すようにして、黒い影をにらんでいる。
「燃やすぞ」
冷ややかな声とともに、彼女の唇からふぅーっと青い火が伸び、黒い影をあとじさらせた。影は向きを変え、すばやく障子戸から庭に面した廊下へ飛び出していった。
開いた障子の隙間だけが残った。
「紺さんっ……紺、いまのはいったい……」
「犬かタヌキに見えたな。頭がはじけた
紺はかれから身を離すと、さっさとふとんに横たわった。
「寝ろよ。さっきみたいな低級霊は金縛り起こすのがせいぜいだし……おまえはオレの霊縛術すら解いたんだから、そんくらい余裕なはずなんだ。手に負えそうもないのが間近に来たなら追っ払ってやるけど……ふぁぁ……オレはぐっすり寝たいんだから、ちょっとのことなら騒ぐなよ……」
彼女はふたたび寝息をたてはじめた。
(ぎりぎりまで起こすなって? そんな!)
胸中で悲鳴をあげ、山内くんは身震いする。
ちらりと障子戸に目を向ける――まだ隙間は開いている。気になってどうしようもなく、山内くんは四つんばいで障子にそろそろと近寄った。
閉めようと手を伸ばしたとき、障子の向こうの人影に気づいた。見下ろしてくる視線にも。
隙間の上方に、ふたつの目が並んでじっと見つめてきている。
だれかが無言で室内をのぞいているのだ、頭をかくんと横に倒して。生きた人間の気配はしなかった。
ぴしゃっと障子を閉め、山内くんは四つんばいのまま後ろ向きにすさささとふとんに戻る。
――閉めたばかりの障子戸がカタンと音をたて、またわずかに開いた。
やっぱり紺をもう一度起こそうかな、と山内くんは震えた。なるべく彼女のそばにと身をちぢこまらせる。かなり情けないが、しばらく夜はボディーガードの少女を頼りにするしかなさそうだった。
闇のなかで蚊取り線香の香にまじり、少女の甘い匂いがただよっていた。
山内くんの心臓がひどくどきどきしはじめた。それは主に障子戸からのぞく不気味な視線のせいだったが、ほんの少しは別の要因もあったかもしれなかった。
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