第42話 大人

「千葉先生。お久しぶりです」

 野田の明るい声が聞こえてくる。

 声を聞くのと同時に、自分の首や肩からふっと力が抜けていくのを感じた。


「久しぶり」

 最後に会った日から一年も二年も経ってしまったような気がする。


「引っ越し、大丈夫だった?」

「はい。まだ家の中はごちゃごちゃしてますけど、来週からなんとか新しい学校へ通えそうです」

「新しい学校か。緊張するな」

「すっごく緊張してますよ。転入していきなり体育祭があるんです」

「体育祭かあ。もし玉転がしやるならコツがある。玉に付いてるチャックを探して、それ引っ張って全力で走るんだ」

「ずるいですよ、そんなの。玉転がしなんてやりませんし」


 野田は快活に笑った。

 声を弾ませながら、転入先の学校は共学だとか、制服が地味だとか、購買のパンが美味しいらしいという世間話を続ける。


 彼女の話を聞きながら、ビルとビルの間に教会の十字架がぽつんと光るのを見つけていた。


 一通り話した後、野田は「さっきの画像、見ました?」と訊いてくる。


「あ、まだ見てない」

 確認する前に画面が切り替わってしまったからだ。

 通話を続けたままスマホを操作し、野田が送ってきた画像を開く。

 封筒に入れられていた、澄空すかい作の似顔絵を撮影したものだった。


「この似顔絵、ありがとうな。澄空にもよろしく言っておいて」

「似顔絵? それ、絵じゃなくて澄空の描いた手紙ですよ」

「え、手紙だったの?」


 てっきり俺の顔か塩昆布の絵を描いてくれたのだろうと思っていた。

「はい。澄空は字も書けるんです。賢いんですよ」

 画面の向こうで野田は誇らしげだった。


「本当は直接渡したかったんですけど、当日はバタバタしてまして」

「そりゃそうだよ。引っ越しって忙しいんだよな」

 物心ついてから引っ越したことは一度も無いのだが、想像するだけで疲れてくる。


「何が書いてあるかわからないだろうから、解説しようと思ってたんです。ええと、左から『い、き、せ、せ、だ、ん、い、す』です」

「暗号を解くとカレールーが貰えるとか?」

 ふふ、と野田が笑った。

「文字は左から右に書くっていうルールがまだわかっていなくて順番がめちゃくちゃなんですけど、並び変えると『せ、ん、せ、い、だ、い、す、き』、です」


 夜景が滲み、十字架も、ただ一つ浮かんでいた星さえも見えなくなる。


 無邪気に駆け寄って来る澄空の声をもう一度聞きたくなった。


「……『せんせー、きらい』なんて言ってたのにな」

「きらいだなんて、そんなの冗談ですよ」

「わかってるよ」

「澄空、ずっと寂しがってました。……私も、先生と会えなくてすごく寂しいです」


 目元を拭い、一度見失った星を再び探した。

 この街では星は見えないのだと思っていた。

 見えないのではなくて、見つけようとしなかっただけだ。


 澄空のような小さな子どもですら「好き」と伝えられるのに、どうしてこう、ダメな大人なのだろう。


「野田」


 海の小石のように水面下に沈めて隠したこの感情を、無かったことにしたくなかった。


「野田が俺なんかのことを好きだって言ってくれて、嬉しかった。……違う出会い方をしていればよかったのにって、俺がもっと大人ならよかったのにって思ってる」


 ちゃんと誕生日を祝いたい。

 彼女が欲しいものをあげたい。

 最後まで花火を観たい。

 涙を拭ってあげたい。

 笑っている顔をもっと見たかった。

「いいお姉ちゃん」でいる姿も、「ただの野田海頼」でいる姿も、隣で見ていたかった。


 でも、この街を去った彼女はこれから色々な人に出会い、支えられながら大人になる。

 そのうちに、あの実習生は案外頼りなかったな、魅力が無かったんだなと気付く。月日が経って、そんな人間がいたことすら忘れていく。

 そうに決まっている。

 大人になっていく彼女の邪魔をするわけにはいかない。


「非力でごめん。話を聞いてやるくらいしかできなかった」

「……千葉先生。先生が私の話を聞いてくれて、本当に嬉しかったんです。誰かが私の話に耳を傾けてくれるなんて思ってなかった。誰かが私に手を差し伸べてくれるなんて思ってなかった。大人になっちゃう前に、先生に甘えられてよかった。先生に会えてよかったです」

 彼女の吐く息が震えたのが聞こえた。


「ちゃんと『助けてほしい』って言いさえすれば、たくさんの人に助けてもらえるんだよ」

「……私が大人になってからも?」

「そうだ。でも言わないとなかなか気付いてもらえないよ。皆、自分のことで精一杯だから」


 星を探す余裕すら大人はきっと失くすのだ。

 真昼の空にだって星が出るのに、忙殺されているうちに忘れてしまう。


「俺も、野田に会えてよかった」


 焦燥するように蝉が鳴いている。

 夏の終わりともに命が尽きることを知っているかのようだった。




「生徒一人一人に寄り添った指導がしたいです」


 下敷きで作る風に吹き飛ばされそうな、薄っぺらな言葉を口にした。

 でも、本心だった。


「何か困っていることがあったら、見守るのではなくて、積極的に話を聞きにいけるような教師になりたいです。生徒が胸の内に抱えているものを、ちゃんと見てあげたいです」


 最終面接で、そんなことを言った。


 最終面接にも、宍倉ししくらはばっちり姿を現した。

 生徒を待つ宍倉の姿勢だって、一種の優しさだと今では思う。

 けれど俺は、「お節介」と言われてしまうような教師になりたかった。


 例えば、生徒が真っ白なスケッチブックを提出してきたとする。でも、それを頭ごなしに咎めたくない。

 紙の上に線一本すら引けなかった理由を知りたい。


 真昼の星を結ぶように。

 深海の小石を集めるように。


 生徒の抱えている想いをくみ取ってあげたい。


 そんな大人になりたい。




 線香花火のような曼珠沙華ひがんばなが咲き、仲間をとむらうイワシのような雲が空にかかるような寂しい季節になって、藤ヶ峰ふじがみね女学園から正式な採用通知が届いた。



第3章「星の世界」 了

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