第41話 目が慣れるまで

「え、エレベーターが止まってる!」

 姉である満里奈まりなの住むマンションのホールで母が叫んだ。

 張り紙によると、漏水ろうすいのために明後日までエレベーターが使用できないという。


「階段で十階まで運ぶなんて無理よねえ」

 我が家から運んできた台車を見下ろし、母はおろおろし始めた。


 台車の上にはダンボールが二つ。

 それぞれの中には一般家庭用の蓄電池と、二リットルの水が入ったペットボトルが六本詰められている。

 狼狽する母にあきれてため息をついた。


「止まってるのは偶数階のエレベーターだけだよ」

「あら、本当」

 母は恥ずかしそうに笑い、すぐ隣の奇数階用のエレベーターのボタンを押した。

 

 姉のマンションにはエレベーターが二台あり、一台は奇数階、もう一台は偶数階と一階にとまるようになっている。

 だから、奇数階用のエレベーターで十一階まで行って、一つ下りてくればことは済む。


「視野が狭いな。本当に保育士なんて務まったのかよ」

「失礼ねえ」


 十一階の非常階段の前に荷台を止め、俺は水の入ったダンボール、母は蓄電池を抱えて階段を下りることにした。

 この高さなのに、階段の脇の排水溝に枯れ葉と泥が溜まっている。台風は既に去り大きな被害を残さなかったが、一度だけ停電があった。


 昨晩、ちょうど姉がミルクに使うお湯を沸かそうとした時だった。

 電気はすぐに復旧したが、腹を空かせた赤ん坊のニコルが阿鼻叫喚、という具合だったらしい。

 姉の話を聞いた母が我が家の蓄電池と飲み水を提供することにしたそうだ。


「日頃からちゃんと備えておけよな」

「そんなこと、満里奈に言わないでよね。……あ」

 母は非常階段から少し身を乗り出し、真っ暗な空を見上げた。


「ちゃんと足元見なよ」

「星が出てると思って。でも一個だけ。夏の大三角かしら」

「星?」


 飲み水の入ったダンボールを抱えたまま、母を真似て空を仰ぐ。非常階段の屋根と隣に建つビルの間に一つ、小さな光が浮かんでいた。

「この街でも見えるんだ」

「一等星と惑星くらいは見えるわよ。今の時期はベガとデネブとアルタイル。明け方にはオリオン座も見えるんじゃないかな。冬限定じゃないのよ、オリオン座は」

「なんで詳しいの」

 ダンボールを下におろし自分の腕を休めながら訊く。

「昔、プラネタリウムへよく連れていったじゃない。大地が澄空すかいくんくらいの頃」


 全く記憶に無い。

 人生初のプラネタリウムは、校外学習で科学館に足を運んだ時だと思っていた。


「暗闇に目が慣れるまでじっと待つといいって言われたわよね。そうするとたくさんの星が見えるようになるって」

「もう忘れちゃったよ」

「そんなもんよねえ、子どもなんて」


 澄空だって、「せんせー」と呼んでいたご近所さんのことなんてすぐに忘れてしまうのだろう。

 そして、野田も。


 姉の家のインターフォンを押すと、ニコルを抱いた姉がドアを開けた。

「ありがとう。重かったでしょ。あがって休んでいって。旦那の出張のお土産も出すからさ」

「俺は先に帰ってる。忙しいんだ」

「今度、最終面接なんですって。練習してるのよね」

 脱いだ靴を揃えながら母は嬉しそうに言う。

 リビングからシエルとノエルが出てきて「おばあちゃん、こっち来て!」と母の腕を引っ張った。


「面接、頑張ってね」

 ニコルのむちむちの腕を揺らし「バイバイ」させる姉の目元はクマができている。


 その顔をまじまじと見ていると「何?」と睨まれた。

「姉ちゃん、俺の面倒よく見てくれたよな。ありがとう」

「え、なに急に。気持ち悪いな」

 姉は眉間に皺をよせ顔をしかめさせたが、緩んだ口元は隠しきれていなかった。

 



 母を残し、一人で通路に出る。折りたたんだ荷台を提げた。

 エレベーターが使用できないことを思い出し、非常階段へ引き返す。


 無駄に明るい夜景の上に星が一つだけ輝いていた。

 あれが夏の大三角のうちの一つだとすると、他の二つはどこへ行ってしまったのだろう。


 足を止めて身を乗り出してみたが、見当たらなかった。

 想定しているよりもずっと大きな三角形で、この位置からだと建物で隠れて見えないのかもしれない。それとも星明かりが弱すぎて、他の二つはこの街では見つけられないのかも。


 ベガにアルタイルにデネブ。

 三つのうち、一番明るい星は何だったか。


 スマホを取り出した。

 「のだ」とのトークルームを開きメッセージを打とうとしてやめた。


 引っ越して間もない。

 小さい子どもを連れての引っ越しだ。まだ荷物もろくに片付いていないだろう。

 バタついている時に、振られた相手から星の話なんかされても迷惑でしかない。

 迷惑どころか、世話焼きの男と公園で星の話したことなんて、もう忘れているかもしれない。


 しかし、本当にしたいのは星の話なのだろうか。

 大事なことを伝えないままでいいのだろうか。


 スマホの画面が光った。

 「のだ」が画像を送信したようだ。


 彼女とのトークルームを開いていたがために、すぐに「既読」になった。

 つまり相手にトークルームを開いていたのがバレてしまったということだ。「恥ずかしい」と赤面する間もなく、着信が入った。


 「のだ」からだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る