第11話 ご近所さん
保冷バッグの中にカレーとジャガイモとガラムマサラ、そしてついでに玉ねぎペーストとリンゴペーストも入れて野田に持たせた。
「親御さん、そろそろ帰って来るか?」
「おやごさん、かえってこないよ。ママだけかえってくる。パパはおとまりなんだ。びょういんでがんばってるの」
「へえー、病院で? 医者とか看護師とか?」
「まあ、そんなところですね」
「じゃ、また学校で」
今日はご近所さんのよしみで家に上がったり上げたりしたが、明日からはまた実習生と実習先の生徒という関係に戻る。
「ゆっくり休みなよ。無理かもしれないけど」
一生懸命になって靴を履いている澄空を見下ろした。
「ありがとうございました。先生のお母さんにもよろしくお伝えください」
最後まで礼儀正しく振舞って、野田は澄空を連れ十三階の自宅へ帰っていった。
夜、父が風呂に入っている間に母が女子会から帰ってきた。頬から耳にかけて赤く染まっている。この人は酒を飲むとすぐ顔に出る。
「あの後、大丈夫だったの?」
「野田も澄空も完食して帰っていった」
ノートパソコンで来週の授業の指導案を清書しながら答える。
「両親が忙しいからほとんど毎日弟の世話してんだって。偉いよな」
「十三階の野田さんかあ。全然面識が無いけど、どんな人たちなのかしらね。まったく!」
母を振り向くと目が据わっていた。酒のせいで語勢が荒々しいのか本当に腹を立てているのか、横顔だけでは判断しかねた。
「子どもに子どもの世話をさせるなんて戦前戦後じゃあるまいし。お風呂で澄空くんの体を見た感じ、身体的な虐待は無さそうだったけど」
物騒な単語が母の口から放たれ、ぎくりとして「まさかあ」とおどけてみせた。しかし母は「身体的な虐待」という言葉を口にした時のまま、表情を変えずにいる。
「するわけないだろ。虐待なんてされているように見えるか?」
「なんの変哲の無いように見える家庭の中でも、虐待ってのは行われてんのよ。ネグレクトって言葉、あんたも聞いたことあるでしょ」
「父親なんて医療従事してるらしいよ」
「職業は関係無いでしょ!」
怒りの矛先がこちらに向かいそうなので、それ以上反論するのはやめておいた。
「あの子たちに、またいつでも夕飯食べに来てって言っておいてよ」
「弟に言ったらまた真に受けるよ」
「真に受けていいのよ」
洗面所から出てきた父に「おかえり」と声を掛けられ母はやっと平常時の顔つきに戻った。
野田の家の玄関に置かれていたフォトスタンドを思い出す。
記憶の中の四人の顔は既にぼやけていたが、文句のつけようのない幸せそうな家族写真だったことだけははっきりと覚えている。
玄関に家族写真を飾るような家庭の中で、母の言ったような事件が起きているとはどうしても想像できない。
船渡川とのこともあるし、学校で野田に会ったらまた声を掛けてみようと思った。
しかし次の日の火曜日、野田は学校を休んだ。その次の日も来なかった。
第1章「内緒の子ども」 了
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