第2章 可視光線

第12話 熱血教師

 二年一組の後方の席に船渡川梓紗ふなとがわあずさが座っていた。

 彼女は放課後の教室に一人残って、読書しながら気持ちよさそうに鼻歌を奏でている。


 小学生の時に音楽の授業で習った歌だが、題名も歌詞も思い出せない。「夜空の星がどうのこうの」という内容だったということだけ記憶にある。

 船渡川のようなギャルがこの童謡を選曲するのが意外だった。


 鼻歌と呼ぶにはあまりに音量が大きくノリノリだったので、用事があるのに教室の中に入ることができない。しかし躊躇していてはいつまでも用事を片付けられないので、開け放たれている教室のドアをノックした。


「あれ、千葉先生じゃん。なんで一組に来たの」

 船渡川が鼻歌をやめて振り返る。恥ずかしそうな素振りは少しも見せない。もっと早く入室すればよかった。

 彼女が開いている本の表紙には「世界史 一問一答」と書かれていた。

 読書ではなく勉強をしていたらしい船渡川に、丸めた模造紙と脚立きゃたつを見せた。


「これを貼りに来ただけ」

 高等部の全ての教室に掲示物を貼るよう、学年主任から頼まれていた。


「勉強中だった? 悪いな、邪魔して」

 船渡川は「別に」と言ってカリカリとシャーペンの音を立てた。もう鼻歌は歌わなかった。


 「注視します」と言った三組の担任の菅原すがわらは、あれから何かアクションを起こしたのだろうか。

 気にはなるが、少なくとも告げ口したのが自分だとはバレれていないようだ。


 勉強する船渡川の後ろで脚立に乗る。

 黒板の上に貼られた掲示物は横に長く、一組の生徒の名前があいうえお順にずらりと印字され、その上にはランダムに番号が振ってあった。


 左から右へと画鋲を外していくと、真ん中あたりに船渡川梓紗の名前を見つけた。彼女の名前の上に書いてある数字は「一」だ。


 やっと端までたどり着いたが、右下の画鋲は無く、掲示物に小さな穴が開いているだけだった。剥がし終えた模造紙を巻物のように丸めながら真下の棚の上を探してみたものの画鋲は見当たらない。


「これ探してる?」

振り向くと脚立の傍に船渡川が立っていた。手に画鋲が一つ乗せられている。彼女の爪は長くはないが、薄いピンク色に塗られていた。勿論、校則違反だ。


「お、気が利くな」

「さっき、たまたま落ちてたの見つけただけ」


 彼女から画鋲を受け取り、今度は新しい模造紙をとめていく。やはり名前が印字され、番号が振られている。


 船渡川は席に戻らず作業を見守っていた。睨まれているわけではないが、黙って見られているのも気まずいので、涼真の話を持ち出した。


「えっ! 千葉先生、涼真のこと知ってるんだ?」

「小学校と高校が同じだったんだよ」

「私のこと、なんて言ってた?」

「ギャルって言ってた。あと、地毛って言ってるけど、髪染めてるって」

「水泳やりすぎて塩素で茶色くなっちゃったって、ごり押ししてるんだ」


 船渡川は毛先をいじって笑う。

「世間は狭いね」


 模造紙の中央に再び船渡川の名前が見つかった。同じように「一」と番号が振られている。

 彼女は「よかった」と呟き、校内では使用禁止となっているはずのスマホで自分の名前を撮影した。


「表が貼られたら写真撮って送れって親に言われてるんだ」

「これって何の表なんだ?」

「知らなかったの? 中間テストの成績だよ。名前の上に順位が書いてあるでしょ?」 

「えっ、じゃあ船渡川ってクラスで一位ってこと⁉」

 思わず掲示物と船渡川を交互に見比べた。


「クラスじゃなくて学年」

「が、学年……⁉」

「私のこと、バカっぽいって思ってたでしょ?」

 船渡川はにやりと笑う。その笑い方が涼真とどことなく似ていて、薄いながらも血の繋がりを感じた。


「いやいや、俺はヒトを見た目で判断しない男なんだ。しかし一位なんてすごいなあ。俺なんて下から数えた方が早かったよ」

「勉強できないから美大に進学したの?」

 脚立の上でコケそうになった。船渡川の発言は全美大生に対する偏見だ。


「そういうわけじゃないよ。美大の入試にも学力試験はあるし」

 実習初日に馬鹿にされたこともあって、つい言い返した。

「学力試験もあるの? 絵を描くだけじゃないんだ?」

「絵を描くだけでも大変なのに、テストも受けなくちゃいけないんすよ」


 在学している大学を受験するにあたり、デッサンの試験に一日、油絵を描く試験に一日、学力試験に一日費やした。

 私立か国公立か、どの学科か、どこの地方かによっても試験内容に違いはあるのだが、いずれの大学を受ようとも、かなりの体力を消耗することになる。

 学力試験の難易度はそこまで高くないものの、あまりに低い点をとれば、たとえ実技が高得点だったとしても不合格にされてしまう。


「じゃあ美大生ってすごいんだね。絵も描いて勉強もして。両立するなんて尊敬する。私の周りに美大目指してる子いないから知らなかった」

 アイラインで縁取られた船渡川の目を見返してしまった。


「船渡川って、成績いいのに他のやつと違って馬鹿にしないんだな」

 船渡川がきょとんと首を傾げる。

「千葉先生、誰かに馬鹿にされたの?」

「そうなの。ボクがしがない美大生だからって……。うっうっ」

 手で顔を覆い、しくしくと泣きまねをすると船渡川に「そういうのいいから」と冷静に突っ込まれた。


「まあ、世の中そういう人もいるよね。自分が一番頭いいと思って馬鹿にしてくる人。でも絶対に同調しないよ、私。かっこ悪いのが嫌いなんだ。よく知りもしない他人のことを馬鹿にするとか、かっこ悪すぎ」

「自分なりの美学があるわけか」

「そうそう、美学。頭いいのに他人のことを馬鹿にするのは自分の美学に反するの。あと、おしゃれなのに勉強してないのも、自分的にはめちゃくちゃかっこ悪いと思うかな」

 なるほど、と返す。良い心掛けだと素直に思う。


 しかし、胸を張って「美学」を語る船渡川につい訊いてしまった。


「同級生を睨みつけることは美学に反しないのか?」

「……睨みつけるって?」

 全く心当たりが無いという表情だった。もっと掘り下げないといけないのか。気が重いが、意を決して口を開いた。


「野田海頼みらいと何があったのかは知らないけど、嫌がらせはやめておけよ」

 そこまで言って、やっと船渡川は頷き、「へえ」と呟く。

 彫刻刀の先のような鋭さを持つ「へえ」だった。


「菅原先生に嘘言ったのって、千葉先生だったんだ」

「嘘? だって、本当に睨んでただろ。野田と喧嘩でもしたのか? まさか、いじめなんてやってないよな? 変な噂流すとか」

「そんなことするわけないじゃん! おかげで菅原先生に呼び出されたんだけど。……たかが実習生のくせに熱血教師気取りかよ。うざ。最悪」

 船渡川は荷物を片付け教室を出て行ってしまった。


 「たかが実習生のくせに」って。他人を馬鹿にしないんじゃなかったのかよ。

 みぞおちの辺りがぐっと重くなった。何よりも効いたのは「熱血教師気取り」という言葉だった。


 職員や、本気で教師を目指して実習に来ている学生から見れば、自分の姿は不真面目で目障りだろう。生徒だって見抜いているかもしれない。こんな人間が教師気取りで生徒同士の関係に口を出すなんて、うざいと思われても仕方がない。


 作業を再開し、画鋲を親指でぐりぐりと押し込みながらため息を吐き出した。

 



 次の日の放課後、今度は宍倉ししくらに頼まれて美術室へ向かった。

 自画像デッサンが仕上がっていない生徒たちが居残ることになっていて、その監督を任されていた。宍倉自身も美術室に来るのだが美術部の部員たちの指導をしなくてはいけないらしい。


 階段で美術室のある四階まで上がる。廊下の窓が全て開け放たれ、ぬるく湿っぽい風が入り込んでいた。


 童謡を歌う子どもたちの声が聞こえてくる。

 窓の外を見下ろすと藤ヶ峰ふじがみね幼稚園の園舎があった。合唱はその園舎から聞こえていた。

 不明瞭な歌声だが、この歌のタイトルはすぐに思い出せた。

 「たなばたさま」だ。

 来月の七夕に向けて、園児たちは歌を練習し、笹の葉を飾ったり短冊にお願い事を書いたりするのだろう。


 通っていた保育園や小学校でも七夕祭りをした。好きな色の短冊を選び、お願い事を書くのが毎年の楽しみだった。


 廊下に視線を戻すと、ずっと向こうに女生徒の後ろ姿を見つけた。

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