第13話 アズ

 振り返った野田の顔色は、我が家に来た時よりも随分と良くなって見える。


 わざわざ廊下を引き返した彼女に、小さな紙袋を渡された。中には澄空すかいに貸したパジャマと箱入りのお菓子が入っていた。


「お気遣いどうもありがとう。野田もデッサンの続きか?」

「そうです。まだ全然できてないので」

 声も以前より明るい。すっかり元気になったようで心底から安心した。


 野田の腕や脚を盗み見してみるが、やはり傷は一つも見当たらない。手がかさかさと荒れているだけだ。


 二人で並んで歩く。廊下の一番奥にある、中等部と高等部兼用の美術室を部員たちが出入りしているのが見えた。


「明日までに仕上がるか不安です」

 デッサンのことを言っているのだと気付くまでに数秒要した。そうか、居残って仕上げていくつもりなのか、と頷きながら野田の話に耳を傾ける。

 彼女のスケッチブックの絵は、やる気の無さが反映されたわけではなく、ただ単に絵が苦手なのだろう。


「微熱が続いていたので、二日間も休んじゃって」

「澄空の世話もあったし、あんまり休めなかったんじゃないの」

「日中は幼稚園へ行かせてるのでちゃんと休めました。送り迎えも母がやってくれて」

「それはよかった」


 親なのだから、普段から送迎くらいすればいいのに。


 少し心がとげとげとしてくる。酔っぱらった自分の母から「虐待」なんて単語を聞いたせいだ。

 しかし野田の明るい表情を見ているとどうしても現実的な話には思えなかった。


「いただいたカレー、次の日にガラムマサラをかけて食べたんですけど、とっても美味しかったです! 母も『こんな便利なものが売ってるの』って感動してました」

「あ、お母さんに……」

「母には千葉先生のことは言ってないので安心してください。友達がお見舞いに来てくれたってことにしちゃいました」


 なんて気遣いのできる若者なんだ!


「めちゃくちゃ助かる。……その、他の先生とか友達とかにも黙っておいてくれる? お互いの家に行き来したことがバレるとまずいし」

 実習が取りやめになる可能性がある。

「勿論、言いませんよ」

「ありがとう。まあ、困ったことがあったら、またこっそりおいでよ。うちの母親も子どもの世話ができて嬉しかったみたいだから。カレーなんかでよければ作るし、風呂も入れるし」


「アズ?」

 野田が振り返り首を傾げた。


「あずって?」

 突然のネットスラングか?


 彼女の視線を追う。

 振り返った瞬間、回転しながらとんでくるスケッチブックを視界に捉えた。避ける間もなく角が額に突き刺さる。

 ぎゃっと情けない悲鳴を上げた。足元にスケッチブックが落ちる。表紙には「船渡川梓紗ふなとがわあずさ」と書かれていた。


「お、おまえっ、ミイに手ぇ出したのかよ! ほんっと最悪!」

 廊下の向こうから、鬼のような形相を浮かべるスケッチブックの持ち主がずかずかと近づいてくる。


 教育実習生を「おまえ」呼ばわりし顔面に物を投げつける。藤ヶ峰ふじがみねの教職員やシスターがこの場にいたら失神していただろう。


「は、はあ?」

 スケッチブックを投げられた理由がわからないし、「ミイ」ってなんだ。


「家に来いとか風呂入れとか……、実習生が生徒にそんなことしていいと思ってんの⁉」

「そんなこと言ってないから!」

「誤魔化すつもり⁉」

「アズ、違うんだって!」

 腕を振り上げる船渡川の前に野田が前に立ちはだかる。せっかく体調が戻ったのにまた少し顔色を悪くさせていた。「アズ」は船渡川梓紗の、「ミイ」は野田海頼みらいのあだ名だとやっと理解する。


「勘違いだよ。先生はやましいことを言ったわけじゃなくて……」

「じゃあ、なんなの? 教師が生徒とそんな会話する?」

 女子にしては背の高い船渡川が野田を見下ろしぎろりと睨みつけた。以前、美術室で見せた表情と全く同じだった。

 野田は口ごもってしまう。


「言えないんだ?」

「言えない。でも本当に違うから。このこと誰にも言わないで」

「私が言いふらすと思ってんの? そんなくだらないことするわけないじゃん。ミイのわけわかんない噂だって私が言ったんじゃないし」

 船渡川は鋭い視線を、今度はこちらに送る。


「生徒と付き合うなら、もっと上手くやりなよ」

「俺は生徒に手を出すような真似はしないよ。おまえらの神様に誓ってもいい。……ところで二人はあだ名で呼び合うような仲だったのか? 知らなかった」


 つまり、船渡川は友達を暴漢から守ろうとしてスケッチブックを投げつけたということだ。幼児を守ろうとしてトイレットペーパーを投げた我が母のように。


 現代社会において、「男はこうだ、女はああだ」と語るのはナンセンスなのだろうが、いざという時に「性根たくましい」と思わせてくれるのは女性のほうが多いのかもしれない。


 「友達なのかどうか」という質問に二人は一向に答えない。お互いに目も合わさない。

船渡川は床に落ちていた元凶器であるスケッチブックを拾い上げ押し付けてくる。「これ提出しに来ただけだから」と言い残すと彼女は廊下を引き返していった。

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