第14話 真っ黒
溶き油やクリーナーの独特なにおいが充満した美術室では、
キャンバスの貼られる木枠は部員の身長ほどの高さがある。秋の文化祭の展示に向けて今から準備するそうだ。
デッサンを仕上げに来た生徒は、野田の他にも二人いた。教室の隅の席に三人を肩身狭く座らせ、各々作業を始めさせる。
野田以外の二人は黙々と手を動かしていた。デッサンも細かい描き込みの段階にまで達していて、放っておいても問題は無さそうだ。
野田はというと、デッサンを始める前にまず鉛筆を削る必要があった。
彼女の持っている鉛筆は全て芯が丸くなっている。ただでさえ「へのへのもへじ」状態なのに、準備に時間をかけていてはいつまでたっても終わらない。
備品のカッターを借り、鉛筆削りを手伝ってやることにした。
「別に、喧嘩したわけじゃないんです。アズとは初等部から仲がよくて、中等部も二人で一緒にハイレベコースに進級して、ダンス部に入部して……」
「野田もハイレベだったのか」
「はい。でも、うちに弟が生まれてから部活は続けられなくなって、高等部に進級する時も普通コースに変えたんです。普通コースの方が早く帰宅できるので。でも、アズと話す機会が無くなって、自然とあんな感じになっちゃって」
野田の隣に座る生徒はイヤフォンで耳を塞ぎながらデッサンをしているし、もう一人は勝手にモデル用のソファへ移動していた。部屋には部員が木枠に釘を打ち付ける音が絶えず響いている。
その環境のおかげもあって、野田は船渡川との関係を打ち明けてくれた。
「なんだ、てっきり嫌がらせでもされてんのかと思った」
「嫌がらせ? そんなことアズはしません。変な噂を流したのもアズじゃないです。絶対に」
きっぱりと野田は言う。
「ただ気まずくなっちゃっただけです。私のせいで」
宍倉や
「うわー、めちゃくちゃうざいじゃん、俺」と心の中で絶叫し赤面してしまった。
気まずいだけなら野田と船渡川同士で解決すればいい。大人がしゃしゃり出るような問題ではない。
野田の話を聞いた今、船渡川との関係性よりも、部活をやめコースを変えてまで弟の世話をしていることのほうが深刻な問題に思えてくる。
「弟の世話、そんなに大変なのか?」
「親が忙しいから、仕方ないです」
またそれかと胸の中でため息をつく。
「親が忙しい」。
学生の本分は勉強や友人と遊ぶことで、育児をするのは親の役目なのに。
「月曜日に遅刻したのも、弟の世話のせい?」
「そうなんです。澄空の通う幼稚園は月曜日だけ給食が出ないんですけど、お弁当を持たせるのを忘れちゃって。澄空を幼稚園に送った後、一度家に戻ったんです。それで遅刻しました」
「船渡川も、弟の世話が忙しいんだから、もうちょっとわかってやればいいのにな」
「そもそも、アズには弟の世話をしていることを言っていないので」
「なんで?」
「心配されるのが嫌なんです。アズはめちゃくちゃ優しいんです。困っている人を見かけたら絶対助けようとするんです」
「助けてもらえばいいじゃん」
「アズの勉強の邪魔になるようなことはできません。アズには将来の夢があるし、勉強に関して、お母さんがかなり厳しいらしいから」
「女の子同士って複雑だなあ」
女子の人間関係はパズルゲームのようだ。何手先も考えながらバランスよくピースを積み上げなければいけない。
己を取り巻く人間関係は玉転がしのような単純さだったというのに。
しかし野田のゲームのやり方は「上手い」と言えるのだろうか。慎重すぎるあまり手持ちのピースを隠し、その結果、不戦敗になってはいないだろうか。
鉛筆を全て削り終わり、やっとデッサンをする準備が整った。野田は鉛筆の芯の粉を払い、荒れた指先にハンドクリームを塗りこんでいる。
「でもさ、困ってどうしようもない、もうお手上げだって時は、ちゃんと周りに助けを求めないとな。たとえば今、デッサンをやるうえで困ってることは無いの?」
野田のスケッチブックを指す。
「……困ってますよ。でも、先生に助けを求めても無駄じゃないですか」
野田はちらっと、美術部員の相手をしている宍倉を見やった。
「無駄って? 先生の存在意義は生徒の質問に答えることなのに」
野田は「だって」と口を少し曲げる。
「美術の先生は絵を描くのが得意でしょう?」
「まあ、そうだよな」
当り前だが、美大や芸大のほとんどの学部は絵が上手くなければ入れない。宍倉のように教育学部を経由して美術教師になる場合も実技を課される場合が多い。だからしっかりとデッサンの基礎を学ぶ必要がある。
「英語の先生は英語が得意、数学の先生は数学が得意。だから、その科目が苦手な生徒の気持ちなんて先生にはわからない。わからないから相談しても無駄ってことです」
「なるほどねえ」
宍倉が「野田はやる気が無い」と思っている原因の一つかもしれない。
野田は相談しに来ない。
つまり、能動的とは思えない。
やる気が無い。
「だから、授業でわからないことがあったら先生には訊かないで、友達に質問するか参考書を読んで調べるか、あとはネットで調べるかですね」
野田がスケッチブックを開く。
あの「へのへのもへじ」が登場した。絵の、首にあたる部分が真っ黒になっていた。
「どうしたんだ、これ」
やけになって、ぐりぐりと書き殴ったのだろうか。
「ストレスがたまってるのか……?」
哀れんで言うと、野田は「えっ⁉」と短く叫んで顔を赤くさせた。
「千葉先生が首の影を描けって言ったんでしょ!」
彼女は怒っていた。
そういえば、月曜日の授業中に影を描くようにと教えた。しかし首の影だけを描けという言い方はしなかったはずだ。
「影は全体をよく見てつけないと。これじゃ黒いタートルネックを着ている人だよ」
「やっぱり、絵が得意な人には私の気持ちはわからないんです」
「悪かったよ。でも俺だって先生になってまだ二週間経ってないんだから、どう教えたらいいかわかんないんだよ」
「……実習生じゃないですか」
野田の言うとおりだ。
便宜的に「先生」と呼ばれているだけだ。
熱血教師気取り。
船渡川の言葉がまたちくちくと胸を差してくる。
しかし、困った末にふてくされている生徒を目の前にしている今、「うざがられてもいいや」と思ってしまうのだった。
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