第9話 澄空

 我が家のリビングからスカイの笑い声と走り回る足音が聞こえてきた。

「こらあ、待ちなさーい」

 楽しそうな母の声もまじる。

 ただいまと声を掛けると、イチゴ柄の古びたパジャマを着せられたスカイが廊下に飛び出してきた。髪がまだ少し濡れている。


「あっ、おねえちゃんだ!」

「スカイっ! もう……」

 野田は床に膝をつき、のんきに笑うスカイの小さな体を抱え込んだ。

「一人で出て行っちゃダメでしょ! 誘拐でもされたらどうするの……」

 スカイをきつく抱きしめる彼女の腕が少し震えていた。


 野田もこうして弟のことを心配するのかと、少し意外な気持ちでその姿を眺めていた。スマホをいじってスカイの相手をしなかった時の印象が強く、もっとドライな対応をしているものだと思っていた。

 熱心にスマホをのぞきこんでいたのは、診察の順番を確認していただけらしいのに。


「スカイくん、お姉ちゃん来てくれてよかったねえ。お姉ちゃんも心配だったでしょう」

 バスタオルを手に母が登場し、野田がはっと顔をあげた。目元を拭い慌てて立ち上がる。


「一三○一号室の野田です。千葉先生にはいつもお世話になっております。その、お家を汚しちゃったみたいで、すみません。お風呂まで入れていただいて」

 ご丁寧にどうもと母が笑う。

「うちのシャンプーと同じだってスカイくんが言ってたから、ついでに頭も洗わせてもらいましたけど、勝手なことしてごめんなさいねえ」

「とんでもないです! 助かります。スカイも、『ありがとうございました』でしょ」


「スカイ、いえないの」

 スカイは野田の背後に周り、彼女の太ももで顔を隠している。

「おなかすいたから、いえないの」

「ちゃんとお礼しなさい!」

「おなかすいたのっ!」


 スカイが怒鳴るのと同時にキッチンから間抜けなメロディが鳴った。炊飯器の中でごはんが炊き上がったことを知らせるための電子音だ。


「ついでに夕ご飯も食べていったら。お姉ちゃんは具合悪いんだっけ。雑炊にしましょうか。レトルトだけど」

「いえ、これ以上ご迷惑をおかけするわけには」

「スカイもぞーすい、たべる!」

「迷惑じゃないわよお。スカイくんにはカレー出してあげるね。甘口だから。そういえば、アレルギーってある?」

「二人とも無いです。でも、本当に大丈夫なので」

「アレルギー、なーい!」


 ぐうっと誰かのお腹が鳴る。野田が再び顔を赤くし胃の辺りをおさえた。


「食べていきなよ。せっかくだし」

「でも」

 まだ遠慮している野田をよそに、スカイが「カレーみせて」とリビングに駆け戻っていく。


「スカイ!」

「ほら、野田もリビング入りな」


 こんなやり取りをしているのが少々面倒になり野田を促す。彼女は渋々、我が家のリビングに足を踏み入れた。


「手伝います」

 キッチンの母に野田が言う。

「お姉ちゃんはソファで横になっていて。大地はスカイくんと遊んであげなさい」

 野田はソファの端にちょこんと座ったが、横にはならなかった。ちゃんと膝と膝を閉じ背筋を伸ばしている。


「せんせー、てんつなぎやろ」

 スカイはダイニングチェアの下に放ってあった恐竜柄のリュックを引っ張り出し、中からコピー用紙とカラーペンを取り出す。


「いつの間に持ってきたの」

野田が呆れたように眉をひそめた。テレビの前のローテーブルの上にコピー用紙を広げ、スカイはさっそく点つなぎを開始した。

 ヒントなんて出さなくても、一、二、三……とスムーズに点を結んでいく。


「数字がわかるんだ。すごいじゃん」

 だから一人で「二○一」を目指して来ることができたのか。


「そうなんです。スカイは点つなぎが大好きで、数字もいつの間にか覚えたんです」

 野田が目を細めた。スカイを見守る彼女の表情は、姉というよりは母といった様子だった。


 スカイは順調に点を繋いでいると思ったが、十個目の点を結び終えたあたりで雲行きが怪しくなってきた。

 十一のあと、順番をすっ飛ばして二十、二十一、二十二と見当違いの方向へペンを走らせている。


「スカイ、十一のあとは十二だよ」


 教えてやると、「ああそうか」という顔を見せる。十一からやり直すのかと思いきや、二十二の点から十二の点へぐるんと迂回してしまった。


「それだと変になるって。十一に戻りな」

「あー、もう、わかんないよお。せんせーがやって!」

「俺がやったら意味無いだろ」

「スカイ、私がやるから貸しなさい」

 野田が身を乗り出す。


「野田はいいって。うちはテキトーな家なんだから、ごろごろしてなよ」

 スカイのペンを借り、カラーペンで十一からやり直す。


「ほら、完成」

「できたー。うさぎだったんだあ」


 いびつだし余計な線が入ってしまったが、全ての点を結ぶと確かに一羽のウサギに見えなくもない。もっとやってほしいと言うので、二枚目、三枚目と点つなぎに取り組んだ。スカイは小さなスケッチブックにぐちゃぐちゃと線を描き殴っている。


「これ、せんせー」


 このモズクのようなぐちゃぐちゃが俺だそうだ。このくらいの年齢の子に人間を描かせると顔から直接手足が伸びたカービイのような絵になると習ったのだが、あれは机上の空論か。


 野田は何も反応を示さなくなった。背もたれに寄り掛かり、静かに目を閉じている。


「お待たせ。こっちにおいで」

 母が呼びかけると野田が目を開けぱっと立ち上がった。テーブルの上には小ねぎを散らした玉子雑炊、そして大人一人分、子ども一人分のカレーライスが並んでいる。


「母さんは食べないの?」

「この前言ったじゃない。酔っぱらって聞いてなかったんでしょ。今日はこれからパートさんたちと『カシミール・カシミール』で激辛女子会するの」

「家にカレーがあるのにカレー屋に行くのかよ。あと母さんたちは女子じゃないから」

「商店街にあるカレー屋さんですよね? 激辛のカレーしか出さない……。私もあそこ大好きです」

「あらあ、辛口派なの? 気が合うわね」

 若者と気が合うことがわかったからか、母は嬉しそうだ。


「じゃあ大地、冷凍庫に残ってるタッパーと今茹でてるジャガイモ、持たせてあげなさい」

「いつの間にジャガイモ茹でたの? 手際が良いな」

「辛口派なんだから『あれ』もちゃんと渡してあげなさいよ」

「了解」


 バッグを肩に掛ける母に大きく頷く。子どもも食べられる甘口カレーだから、「あれ」が無くてはお話にならない。


「おばちゃん、いっちゃうの?」

 母に懐いた様子のスカイが眉を八の字にさせた。

「そうなのよお。また今度遊びましょうね。じゃあね。おばちゃん、楽しかったよ」


 三人で母を玄関まで見送る。

「本当にありがとうございました」

 野田が丁寧に頭を下げる。


「困ったことがあったら、またいつでも来なさいね」

 母に真っ直ぐに見つめられた野田がこくんと頷いた。頷いたことを確かめて、母が微笑む。


「そういえば、スカイくんの名前ってどんな字を書くの?」

 パンプスを履きながら母が訊く。


「スカイは、『空気が澄む』の『澄』に『空』で、『澄空すかい』です」

 野田が答えた。

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