第8話 助かった

「スカイ、トイレいきたいんだったあ……」

 川のせせらぎのような心地よい音がかすかに聞こえてくる。

 スカイの足元を見下ろすと、いつのまにか床に小さな水たまりが生まれていた。

「えっ⁉ ちょっ、待てっ!」


 しかし「待て」と言って止められるはずもなく、スカイの足を中心にして水たまりはどんどん広がり、奇跡の泉が湧いたかのようになっていた。

 全て出し切ったスカイは「どうしよお」と眉を八の字にして立ち尽くしている。


「きもちわうい……」

「当たり前だ! あー、もう、他人の家でなにやってんだよ」


 つい語気を強めると、うるうると目に涙を浮かべ始めた。

「泣かなくていいから、とりあえずズボンとパンツ脱ぎな」

 姪たちのお下がりの服が和室の押し入れにしまってあった気がする。

 とりあえずそれに着替えさせればいい。それより先に風呂に入れるべきか。


 予想外の出来事にパニックになっていると、玄関からガチャガチャと錠をいじる音が聞こえた。


「大地! 鍵、掛かってなかったよ?」

 濡れて重くなったズボンをずるっと脱がせてやったその瞬間、仕事帰りの母がリビングに入ってきた。

 母は元保育士だ。助かった。

 買い物をしてきたらしく、両手に荷物を提げている。

「オートロックでも用心しなさいってあれほど……」


 母と目が合った。買い物袋や、よく購入する十二ロール入りのトイレットペーパーが母の手から滑り落ちる。


「大地、あんた」


 母は息子であるこの俺とパンツ丸出しのスカイを引きつった顔で見比べる。落としたトイレットペーパーをもう一度拾い上げ、頭上に掲げた。


「な、なにす」

「二度とうちの敷居を跨ぐなああああっ‼」


 母がぶん投げたトイレットペーパーが顔面に直撃した。

「うがあっ」

 衝撃で体勢を崩し床にしりもちをつく。


「ほらっ、きみ! 早くこっちに来なさいっ!」

 鬼に出くわしたかのように母は叫ぶ。


「もう大丈夫だからね!」

「母さん、俺のことを何だと……」


 母は最悪な勘違いをしていないだろうか。

 立ち上がろうとして、足を滑らせ思いきり転ぶ。靴下が濡れてひんやりとしていた。薄黄色の奇跡の泉をうっかり踏んだらしい。


「うわ、最悪!」

「最悪なのはあんたよ!」


「……きゃははっ!」

 俺と、怒り狂う母を見比べて、スカイが無邪気に笑った。




 誤解が解け、母がスカイを我が家の風呂に入れることになった。保育士やベビーシッターをしていたこともあって「腕が鳴るわ」とすっかり上機嫌だ。


 野田家の鍵を持って、一人エレベーターに乗り込む。行先は十三階だ。

 通路に出ると既に日は暮れかけ、数時間前にお祈りを捧げた教会の十字架が薄暗闇の中にぴかっと光っていた。


 野田はまだ寝ているのだろか。電話番号を残してきたが、スマホには何の通知も来ていない。一三○一号室の前に着き、インターフォンを鳴らそうかドアを開けてみようか迷っていたその時だった。


「スカイーっ‼」


 叫び声が聞こえたと同時にドアが全開になった。

 ドアの淵が顔にクリティカルヒットして本日二度目のしりもちをつく。


「先生⁉」


 顔にドアがぶつかったせいで、目の前がしばらく白く光っていた。数秒してやっと視覚が回復し、血相を変えた野田を見上げる。

 気にしないで、大丈夫だからと涼しげに返す言葉を遮るように、野田が「スカイ、見ませんでした?」と問い詰める。


「テレビを観ていたはずなのに、気付いたら家にいなくて」

 野田は取り乱していた。危うく他人に怪我を負わせる状況だったことに気付かないほど。


「テレビを観せている間にちょっとだけ寝ちゃおうって思って……。まさか勝手に外に出て行くなんて……」

 彼女は靴すら履いていなかった。白い靴下に通路の砂埃がついてしまっている。

 この様子だと、電話番号を書いた書置きも見ていないのだろう。


「落ち着いて。スカイならうちにいるから」

「ゆ、誘拐……?」

 野田の顔がさらに青くなった。

「ちげーわ!」

 つい野郎仲間にするような突っ込みをしてしまう。


「スカイ、俺の家に一人で遊びに来て、で、トイレが間に合わなくてさ。俺の母親が風呂に入れてるところ。迎えに来てくれると助かる。具合が悪いのに申し訳ないけど」

「トイレが?」

 野田はさっきまでは青かった顔を、今度は赤く染めた。


「お漏らししたうえに、お風呂まで……。体調はもう大丈夫です。寝たらすっきりしました。先生にも先生のお母さんにもご迷惑かけてすみません。おうちの床、掃除させてください」

「もう片付け終わったよ。親は元保育士だから慣れてるし、そんなに気にすることないって」

「……本当にすみません」


 野田は「ちょっと待っていてください」と言って家に入り、マスクをつけ靴を履き、すぐに戻ってきた。

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