第7話 トイレ?

 靴を脱いで廊下を進む。


 一三○一号室は我が家と同じ間取りで、廊下の先のドアを開けるとリビングがあった。左手に対面式キッチンがあり、右手に和室を仕切るふすまと洋室へ続くドアがある。


 寝室と同様、リビングも少し狭く感じた。実際に面積が小さいのか、床に散乱しているおもちゃや絵本、壁にべたべたと貼られた絵のせいで狭く見えているだけかはわからない。


 リビングの真ん中に置かれたちゃぶ台のすぐ隣には室内用のジャングルジムが鎮座し、ベランダへ出るための窓を半分塞いでいた。姪っ子たちが使っていたものと同じ、カラフルなジャングルジムだ。

 洗濯物を掛けて物干し竿代わりにしているのも、姪たちの家と同じ使用方法だった。


 通路の反対側であるベランダもやはり見晴らしがよかった。山々の代わりに、遠くには高層ビルが立ち並んでいる。


「せんせー、あそぼ」


 スカイがコピー用紙の束を運んできて、ちゃぶ台の上にどさっと乗せる。

 周りの絵本をどかしてから前に座り、コピー用紙を一枚とって見てみた。紙にはいくつもの点が打たれ、それぞれの点の横に数字が振られている。


「何だっけ、これ」

「てんつなぎ」

「ああ、あったな、そんなの。懐かしい」


 通っていた保育園でやった記憶がある。番号順に点と点を繋いでいくと、最後に絵の輪郭が完成するというものだ。

 野田が起きるまで、スカイと点つなぎで遊んでいればいい。


「描くものはどこにあるの?」

「ちょっとまっててね」


 スカイが張り切って立ち上がる。

 カラーボックスからペン立てを出そうとして失敗し、がちゃんと落としてしまった。中に入っていたカラーペンや鉛筆が床にばらばらと散らばる。

 スカイはその中から水色のペンを一本取ってこっちに戻り、点つなぎを始めようとする。


「ちゃんと片付けてからにしよう」

 ペン立てを片付けたところで足の踏み場がほとんど無いことには変わらないのだが、これはしつけの問題だ。

 しかしスカイは何も反応を示さず、黙ったまま点と点の間に水色のインクを滲ませていく。


「おーい、聞いてます? まずペン立てを片付けましょう」

「おねえちゃんにやってもらおっと!」


 そう言うとペンの蓋も閉めずに立ち上がりリビングを出て行こうとするので慌てて止めた。

「姉ちゃん、具合が悪いんだってば。先生と一緒に片付けようよ、な?」

 スカイは小さい口元をぎゅっと曲げた。


「おなか、へった。こっちきて」

 へそを曲げて点つなぎへの興味を失ったらしく、冷蔵庫の方へ行ってしまった。

 腰を上げてスカイを追う。忍者の使うまきびしのように散らばったブロックを踏みつけそうで、つま先立ちになって歩いた。


 スカイと並んで冷蔵庫の前に立つ。スカイが開けた冷凍室の中をのぞいた。三食入りの冷凍うどんとラップに包まれたごはんとバニラ味のアイスが二つ入っている。

 我が家のぱんぱんに詰まった冷凍室と比べると、随分すっきりしている。


「おうどん、ゆでてー。きょうはおうどんって、いってたよ」

 商店街で「うどんは嫌だ」と泣いていたくせに。子どもは良くも悪くも気が変わるのが早い。


 ガスコンロを見やると、汚れの無い鍋が一つ置かれていた。

 他人の家のキッチンだが、麺を茹でるくらいならいいか。そう思うものの、具はあるのだろうか。

 

 気になって冷蔵室を開けてみる。辛子明太子とキムチとみかんゼリーが庫内灯に寂しく照らされていた。ドアの棚には牛乳やジュースや調味料。一番下の野菜室にはしなびた胡瓜きゅうりが一本転がっているのみ。


 腕を組み、「うーん」と唸る。

 ここにお料理研究家を招待したとしても、そもそも材料が揃っていないので、どのみち用意できるのはかけうどんくらいだ。


「差し出がましいかもしれないけど……」

「サシデママシーってなに?」


 リビングを見回す。キャビネットにプリンターが置かれている。

 トレーを引き出し、新品のコピー用紙を一枚だけ失敬した。ちゃぶ台の上に放置されていたスカイのペンも借りる。


「せんせー、おえかきするの?」

「スカイの姉ちゃんにお手紙を書くの」


 『二○一に行って、すぐ戻る』とメモし、念のため自分の電話番号も書き添えた。


「スカイ、ちょっと冒険しよう。夕飯を探しに行くぞ」

「ぼーけん?」


 スカイは顔をぱあっと明るくさせた。

「おねえちゃんも、ぼーけんいく!」

「だから、姉ちゃんは寝かせておいてやろうって。静かに出発するんだよ」


 野田が寝ている部屋のドアの隙間にコピー用紙の書置きを差し込んだ。


「よし、行くぞ」

 声を潜めスカイに告げる。いつの間に用意したのか、恐竜柄のリュックを背負っていた。やる気満々だ。


「どこにぼーけんするの?」

「しーっ」


 靴を履こうとしてシューズボックスの上の小さなかぶと飾りとフォトスタンドが目にとまった。五月五日のこどもの日から約一か月経っているが、片付け忘れているようだ。

 その隣のガラス製のフォトスタンドは薄く埃を被っている。


 中の写真にはまだ顔に幼さを残した野田海頼みらいと、スカイと思われる赤ん坊が映っていた。赤ん坊は白いレースの服を着せられている。

 本当に「着せられている」といった感じで、似合っていないのがむしろ微笑ましかった。


 そして姉弟きょうだいの他に、三十代から四十代くらいの、両親であろう男女二人。

 姉である野田海頼は父親に、弟のスカイは母親に似ていた。

 ぽーっとこちらを見つめる赤ん坊を囲み、両親と姉の三人が笑っている。


 写真館の見本のような家族写真だった。


「それねえ、パパとママとおねえちゃんと、あかちゃんのスカイと、ママだよ」

「それだとママが二人になっちゃうよ」


 写真の中の四人から目を逸らし、左右逆になっているスカイの靴を直してやった。


 家を出ようとしてはたと気づく。玄関にマグネットで張り付いているフック。そこにこの家の鍵が引っかかっている。オートロックのマンションとはいえ、このご時世に鍵を掛けないで出て行くのは不用心だ。抵抗はあるが、少しの間だけ鍵を拝借することにした。


 カンガルーのようにジャンプするスカイと再び手をつなぎ、しっかりと鍵を掛けて「冒険」に出発した。




「えーっ、ぼーけんって、ここなの~⁉」

 冒険の目的地が二○一号室だと気付き、スカイは大げさに肩を落とす。


「おもちゃなかったから、やだ」

「すぐ帰るからさ」


 渋るスカイを家に上げ、冷凍室からカレーの入ったタッパーを取り出す。

 このタッパーを持って再び野田家に戻るつもりだった。育ち盛りの姉弟が具無しのうどんだけで済ませるなんて健康上よろしくない。

 うちの冷凍室にはレンジアップの食品が常備されているのでカレーが無くなったところでたいして問題は無い。


「冒険したおかげでカレーがゲットできただろ」

 反応が無いので振り返る。スカイは思いつめたような顔でこちらを見上げている。


「どうした?」

 ごにょごにょと何か言っているが聞き取れない。具合が悪くなったのだろうか。スカイの前にしゃがむ。「トイレ」という単語が聞き取れた。


「え」


 トイレ?

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