第6話 脱走

「野田、あそこに住んでんの?」


 小雨に濡れながら思わずはしゃいだ声を出すと、野田の目に警戒の色が滲む。

 慌ててあのマンションの二階に家族と住んでいることを教えると、今度は目を丸くさせた。


「偶然ですね」

「せんせーのいえ、にかい?」


 スカイは両手それぞれの人差し指と中指を立てた。合計で四になってしまうが「そうだよ」と頷いてみせる。

 いつの間にかスカイからも「せんせー」と呼ばれていた。


「そう。先生の家は二階。二○一に住んでんの。遊びに来ていいよ」

「スカイのいえ、じゅうさんかい!」

「十三階? さすが藤ヶ峰の生徒。セレブだなあ」

「賃貸ですよ。うちは庶民です」


 三人でホールに入りエレベーターに乗り込む。

 普段は非常階段を使うから、エレベーターに乗るのは小学生の時以来だ。マンション内で涼真と鬼ごっこをしている時に乗って、管理人に見つかりきつく怒られた。


 野田の家があるという十三階に到着し、通路に出る。

 視界を遮るものが何も無く、街中が小雨に濡れる様子が見渡せた。

 二三階建ての一軒家が模型のように小さく感じる。遠景には灰色の山々が繋がっていた。快晴ならば青く澄んで見えただろう。


 同じマンションなのに二階からの風景とはあまりにも違っている。

 二階の通路からは向かいの住宅のベランダがのぞけるだけだ。

 姉の家もマンションの十階だが、目の前をビルや高層マンションに囲まれているので通路からは景色を拝むことができない。


 スカイが「だっこ」と言って腕を伸ばす。野田が「無理だよ」と眉間みけんに皺を寄せたが、抱っこしてやった。

 小さいのにずっしりと重い。

 シエルやノエルが幼稚園児だった頃は、二人いっぺんにふわっと抱きかかえることができた。性別が異なると筋肉の量に差ができるのか、スカイには重量感がある。


 抱っこされて、スカイは嬉しそうに遠くを指さす。

「あっちがスカイのよーちえん!」

 そう言われても、どの建物を指しているのかわからない。方角が合っているかどうかも怪しい。


「せんせーのよーちえん、どっち?」

「先生は幼稚園行ってないんだよ。大学ってとこに通ってんの」

「ダイガク、どっち?」

 テキトーな方向を指して「あっち」と答えると、満足したように通路に下りた。


 野田は一三〇一号室の前で立ち止まり、ポケットからキーホルダーの付いた鍵を散り出す。

「親御さんは帰ってないの?」

「はい、まだですね。仕事してます」

「オヤゴサンって、だれ~?」

「スカイくんのパパとママのこと」

「パパとママ、とーきょーにいってるよ」

「へえ、出張?」


 野田は鍵穴にうまく鍵をさせずに落としてしまった。ドアに手をつきながら拾うと、商店街でそうしていたように、またしゃがみ込んでしまう。


「大丈夫か?」

 見かけよりずっと具合が悪いのだろうという気がした。彼女はゆっくりと立ち上がり、「大丈夫です」と呟いてやっと錠を開けた。


「先生、ありがとうございました」

「ゆっくり休みなよ」

「ばいばーい!」


 スカイが手を振り部屋の中に消える。野田はトートバッグを受け取り、頭を下げてドアを閉めた。


「スカイ! 手ぇ洗いなさい!」

 ドアの向こうからスカイの足音と野田の声が聞こえてきた。ゆっくり休むなんて不可能に違いない。


 大変だとは思うが、これ以上してやれることも無い。

 エレベーターに戻りながらまた街並みを見下ろすと、ジオラマのような住宅街の中に十字架が見えた。

 近所に教会があるだなんて今まで知らなかった。

 十字架に向かって「高いところからではございますが、野田の熱が下がりますように」と心の中で唱え、藤ヶ峰ふじがみね女学園でするように手のひらを合わせた。




 スーツを脱ぎ捨て部屋着に着替える度、社会人にはなりたくないと強く思う。

 父もスーツを着て出勤するが、こんな窮屈きゅうくつな服をよくも毎日着られるものだ。肩が凝ってしょうがない。


 今晩のメニューは冷凍してあるカレー。ジャガイモだけ茹でればいい。そう思っていたのだが、そういえば冷凍ごはんのストックが無い。


 研いだ米を炊飯器にセットし、ジャガイモの皮をむいているとインターフォンが鳴った。

 配達業者が来たのだろうと思い、いつものように通話ボタンを押そうとして手を止めた。


 モニターに映されているのは二階の通路だった。つまりこの家の玄関の前だ。通路の様子だけが表示され、誰の姿も無い。訪れたのが業者だったとしてもここはオートロック付きのマンションだから、まず一階のエントランスの呼び出しボタンが鳴らされるはずだ。

 ピンポンダッシュだろうか。しばらくモニターを見つめていると、もう一度「ピンポン」と呼び出し音が鳴った。


「せんせー」

 ざらざらしたノイズと一緒に、スピーカーから妖精のような声がした。画面の端に誰かの黒い頭がちらつく。


「せんせー、せんせー」


 この声は。


「あそびにきたよー」


 慌てて玄関まで走りドアを開ける。インターフォンを楽しそうに連打するスカイが立っていた。


「な、なんで……⁉」

通路に顔を出したが姉である野田海頼みらいの姿はどこにも見当たらない。スカイはきょとんと首を傾げた。


「あそびにきてって、せんせーがいったんでしょお?」


――遊びに来ていいよ。


 そうだ。野田とスカイを家に送り届ける途中、確かにそう言った。

 半分は本心だが、もう半分は社交辞令のつもりだった。それに今日さっそく来ていいだなんて言っていない。

 言っていないが、年端のいかない子どもが理解できるわけがなかった。


「せんせーのおもちゃ、みせて!」

「うちにはおもちゃなんて無いよ。なあ、姉ちゃんは? まさか一人で来たのか?」

「おねえちゃん、ねてる! おもちゃ、ほんとはあるんでしょ? どこにかくしたの? おかえりーっ!」

「あっ! 待てっ!」


 スカイは靴をぽいぽいと三和土たたきに脱ぎ捨て、家の中に許可なく侵入してしまった。


「あれー? おもちゃがない」

 慌てて後を追い、きょろきょろとリビングを見回しているスカイの両肩をつかんだ。

「スカイ、姉ちゃんが寝てるって、具合が悪くてか?」

「シンドーイっていってた。おねえちゃん、シンドイときはテレビみせてくれるんだけど、つまんなくなっちゃったから、つまんないから、ひとりであそびにきたの!」


 スカイはつま先立ちしたり四つん這いになったりして、おもちゃを探そうとしている。

 このわんぱく小僧が外に飛び出していったことに気付かないほど、野田はしんどいらしい。まさか倒れて意識を失っているのではと不安になってきた。


「ほんとに、おもちゃないんだねえ」

「無いってわかっただろ。家に帰るぞ」


 ごねるかと思ったが、スカイは素直に「はーい」と返事して玄関に戻ってくれた。幼い子どもが楽しめる物なんて我が家には一つも無いから、見切りをつけたようだ。


 逃げられないようにスカイのぷにぷにした手を握り、エレベーターで再び十三階に向かう。

 野田の家のインターフォンを押した。返事を待つより早く、スカイが玄関に入り靴を脱いだ。


「おねえちゃん、ここでねてる」

 玄関を入ってすぐ右のドアが半分だけ開いている。電気はついていない。

 二○一号室も同じ位置に洋室があり、俺の寝室となっている。


 ごくりとつばを飲み込んだ。

 一応ではあるが、野田は教え子だ。教え子の家に勝手に上がり込むわけにはいかない。


 しかし、人命が最優先だ。野田が生きているかどうか確認しなければ。

 後ろめたい気持ちを打ち消すために自分に強く言い聞かせる。靴を履いたまま廊下に膝と手をつき、野田が寝ているという部屋のドアの内側をそっとのぞいた。


 自分の寝室よりやや狭い洋室の床に布団が敷かれ、その上に野田が横たわっている。頭には氷嚢ひょうのうが添えられていた。


 目を凝らす。

 薄い掛け布団を被った彼女の体が規則正しく上下しているのがわかった。玄関の照明の光が寝顔に当たっているが、眩しがる様子もない。


 よく寝ているだけのようだ。

 ほっと胸を撫で下ろす。

 救急車を呼ぶことになるかもしれないと思い、要請した際の段取りを何度も頭の中で組んでいたのだが、徒労に終わってくれた。


「寝かせておいてやろう。ドア、そーっと閉めて」

 スカイに耳打ちすると従ってくれたが、「こっちきて」と言って奥へ消えてしまう。


 自宅とはいえ、一人で放っておけるような年齢ではない。このくらいの子どもは数秒後に何をやらかすか予想できない。ついさっきも、自宅を脱走して他人の家に侵入したばかりだ。


 気が引けたが、やむを得ず野田家にお邪魔することにした。

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