第5話 住み慣れた我が家

 「チェックをお願いいたします。千葉」と書いて張り付けた付箋を日誌から剥がし、リクルートスーツのポケットに突っ込む。


「千葉先生、遅刻してきた生徒には理由も訊いて。あと生徒が黙々と作業している時には余計なことを言わない。集中力切れるから。この教科の特異な点だけど、教師側から働きかける時間より、生徒をただ見守る時間の方が圧倒的に長いわけよ。道具の後片付けをさせるのも、もう少し早くね」


 宍倉ししくらは書類仕事をしながら一気に喋った。

 まさかご指導いただけるとは。メモを取る準備すらできなかった。

 美術室の後ろでふんぞり返っているだけのように思えたが、よく見ていらっしゃる。


「じゃ、お疲れ様でした」

 宍倉が片手を上げた。


 「実習生は夜遅くまで残るべし」なんて言われたわけではないが、担当教諭より先に学校を出るのは気が引けた。しかし肩にバッグをかけ日誌を手にしている手前「まだ帰りません」とは言えず。


 潔く「ご指導ありがとうございました」と頭を下げようとして思いとどまる。美術室で目撃した出来事を相談させてもらうことにした。


「ふーん、船渡川ふなとがわと野田が」

 宍倉は手を止め、「菅原すがわら先生」と前に声を掛けた。


「船渡川と野田って、何かトラブルがあるって聞いてます?」

 宍倉の向かいに座る女性教員が宍倉から話を聞き、「うーん」と考え込む。

 彼女は野田のクラスの担任だ。若く、まだ女子大生のように見える。


「今のところ何も。でも、私が明日から注視するようにします」

 菅原がにこりと微笑む。


「じゃ、その日誌預かるわ。お疲れ」

 宍倉は素っ気なく言って日誌を受け取った。先に帰るのはやはり気まずかった。

学園の敷地内を歩き正門へ向かう。


 近くで子どもの泣き声が上がった。

 藤ヶ峰ふじがみね女学園付属の幼稚園の園庭からだ。

 通りすがりに柵の間から中を見る。体操服姿の女の子と、しゃがんで慰める幼稚園の先生の後ろ姿が見えた。


 商店街にいた男の子はあれからどうしただろうと考えながらバス停へ歩く。

 野田海頼みらいと一緒にいるところを見かけたのに、思い浮かべるのは彼が誰からも相手にされず、一人ぼっちで泣いている姿だった。

 



 「名店街入口」という名前のバス停で降りると、顔に雨粒が落ちた。

 いつの間にか小雨が降っている。バスを降りた乗客の半数は駅の方へ、自分を含むもう半数は商店街へ吸い込まれていく。

 雨は降っているがアーケードのおかげで傘を差さずとも誰一人濡れなくて済む。


 スーパーの前を通り過ぎ足を止めた。

 すぐ後ろを歩いていた女性とぶつかりそうになり端に避難する。


 早退したはずの野田海頼がこの前と全く同じポイントにいた。

 つい足を止めたのは彼女が重そうなトートバッグを抱えながらしゃがみ込んでいたからだった。


 ポロシャツの襟にはネックストラップが掛かっている。教員や実習生も身分証を下げるために同じものを使うが、生徒は必要無いはずだ。


 野田の隣ではあの男の子がわんわん泣き、大声でわめきながら足をばたつかせていた。


「おなかすいた! マックいく!」

 野田が少し顔を上げ何か言った。

 彼女が何を言ったかは聞こえなかったが、男の子は野田の言葉を聞いて「やだーっ!」と声を張り上げた。


「おうどん、やだの! マックがいいの!」

 野田はまた顔を伏せてしまった。


 しかしあれは無視ではない。

 相手にする気力が枯渇してしまっただけだ。


 子どもは周囲の大人のエネルギーを平気で奪う。

 野田が、慣れない子育てに奮闘中の姉の姿と重なる。双子の世話に追われて、姉の満里奈まりなも常にくたびれていた。



 今は平日の夕方。先日と違って人通りも多い。

 仕事や学校帰りの疲れ切った通行人が怪訝な顔で野田と男の子を避けていく。


「うるっせえなあ」

 ぶかぶかのタンクトップを着た高齢の男性が俺のすぐ隣で舌打ちした。くわえていたタバコの吸い殻を通路の隅に投げ捨て、野田たちにずんずんと近づいていく。


 「あ、やばいな」と思ったが、項垂うなだれている野田と「マック」を連呼している男の子は気付いていない。


「野田!」

 わざと必要以上に大きな声を出し、老人を追い越すように駆ける。


「大丈夫か?」

 横目で振り返ると、老人はふんっとつまらなそうに鼻を鳴らし去っていった。「女子ども以外には怯むのか、腰抜けの老害め」と心の中で思いきり罵倒した。


「野田だよな?」

 野田は顔を上げ、「先生」とか弱く声にした。隣の少年は面識のない人間の登場に驚いて泣き止み、しゃっくりしている。


「寺田先生から早退したって聞いたけど、そんなに具合が悪いのか?」

 彼女はゆっくり立ち上がり、頷く。

「スカイ……、弟がこの前、幼稚園でRSウイルスっていう風邪をもらってきて、弟はもう治ったんですけど、今度は私がしんどくて、早退して」


 先日、野田が商店街にいたのは弟であるスカイをスーパーの隣の小児科に連れていくためだったらしい。

 スマホのアプリで診察の進み具合を確認していて、自分たちの番が来てしまったために慌てて立ち去ったそうだ。今日は野田が駅前の内科にかかって、その帰りだという。


「検査してもらって、一応陰性だったんですけど、まだ微熱があって」

「大変だな。家は近い? 送ってくよ」

「そんな。もし本当はやっぱり風邪で、千葉先生にうつったら大変じゃないですか」

「陰性だったんだろ? ぼーっとしていて弟に何かあったらそっちのほうが大変じゃん」


 熱が出ていればただでさえ辛いのに、子どもにちょろちょろされたらたまったものではない。


「……じゃあ、お言葉に甘えて。せめてこれどうぞ」

 野田はぱんぱんに膨れたトートバッグから、ビニールで個包装されたマスクを取り出した。


「マスクといいこの前のウェットティッシュといい、準備がいいな」

「子どもを連れていると準備がよくなるんですよ。どうしても」

 彼女は女子高生に似つかわしくない台詞を、重たいため息と一緒に吐き出す。


「スカイはマスクしなーい!」

 スカイは高らかに宣言し、元気いっぱいスキップし始めた。にこにこすると、垂れ目であることがよくわかった。


「ほら、その家出する時みたいな大荷物、持ってやるから貸して」

 野田は遠慮がちにトートバッグを差しだす。

 細い指に刻まれた傷が痛々しい。触れないように細心の注意を払い、荷物を受け取った。

 



「もんだいだすね!」

 俺と素直に手を繋いでくれたスカイがそんなことを言い出す。


「すみません。クイズとかなぞなぞとか大好きみたいで」

「いいよ。かかってきなさい」


「パンはパンでも食べられないパンは?」、「手の中に何が入っているでしょう」。姪っ子たちの出すクイズやなぞなぞに長時間付き合った経験がある。相手をするのは慣れっこだ。


「じゃあ、せかいでいちばん、おおきいどーぶつは?」

 想定していたよりも本格的なクイズだった。しかし、子どもだからやはり難易度は低い。大人を舐めないでいただきたい。


「ゾウ!」

「ぶーっ! せーかいは、シロナガスクジラでした!」

「えっ……⁉」

 自信満々に答えて間違えたし、いたいけな幼児の口から「シロナガスクジラ」などという単語が出てきて動揺する。


「すかいのかち! じゃあー、せかいでいちばんおおきいくるまは?」

「……クレーン車?」

 はしご車と迷いながら答える。


「ぶっぶー! バケットホイールエクスカベータ―でーす!」

「聞いたことすら無いんだけど⁉ 幼児だからってあなどってたな……」

「この子、結構賢いんですよ」


 野田は控えめに言うが、どこか誇らしげだった。


 商店街の出口で、彼女は折り畳み傘を広げ差し出した。

「先生、よかったら使ってください。私の家、すぐそこのマンションなのでもう大丈夫です」


 彼女が指したのは灰色の、十四階建てのマンションだった。

 目の前の短い横断歩道を渡ればすぐマンションのエントランスに入ることができる。


 二階には住み慣れた我が家があった。

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