第4話 へのへのもへじ
週明けの月曜日。
六月に入り、今日から衣替えとなる。高等部の生徒は全員、校章入りの紺色のポロシャツを着ていた。
二年二組の教壇に立ち、カンペを見ながら朝のお祈りを済ませる。
それから美術室に向かい、教卓の上にデザイン画を飾った。
ジャージを羽織ってやってきた三組と四組の生徒たちは思った以上に興味を示し、わらわらと作品の前に集まってくれた。油絵科なのでデザインは全くの専門外なのだが、土日返上で頑張った甲斐がある。
「千葉先生、絵が上手なんですね」
実習二週目だが、生徒たちから「先生」と呼ばれると未だに体がこそばゆくなる。
「そりゃあ、わりと有名な美大に通っていますから」
「でもこの自画像、美化されてません?」
「そう?」
製作にかかった時間や使用画材なんかを訊かれて答えているうちに始業のチャイムが鳴る。席に着かせ日直に号令を掛けてもらう。
これからとうとう、人生初めての授業を行う。デッサンの続きをさせるだけなのだが、手に汗をかいた。
プリントを配り今日の段取りを説明し、「さあ実際にやってみましょう」となった時、美術室のドアが開いた。
野田
「デッサンの締め切り、今週いっぱいだからどんどん進めてね」
かくいう自分も遅刻常習犯だったのだが、実習で先生ごっこをしている今、初めて教員たちの気持ちがわかった。
教員はたった一つ授業をするために、何時間もかけて準備をしてくるのだ。
そうだというのに、堂々と遅刻されると白ける。
野田はぺこっと頭を下げ、備品の手鏡を取って席に向かおうとする。
遅刻したことなんて、気にも留めてないのだろう。他人のズボンを汚しておいて平気で逃げるし、顔を合わせた今も素知らぬ顔で席に戻ろうとしている。
教室の後方に座りノートパソコンをいじっていた
今日の遅刻は野田海頼ただ一人。欠席は一人もいない。出歩かず、お喋りもせず、皆黙々と手を動かしデッサンを進めていく。
卒業した高校とは大違いだ。
出身校では、教室に来ていない生徒を教師が探して引っ張り出すところから授業をスタートさせるのが常だった。
野田のように遅刻してくる生徒もほとんど無いようだ。
先生に容赦ないドッキリを仕掛けたり校庭に落とし穴を作ったりなんて、想像すらしないのだろう。
暇なので机と机の間を練り歩きスケッチブックをのぞき込む。
恥ずかしがって隠そうとする生徒に「別にとって食うわけじゃないんだから、見せてよ」と言うとくすくすと笑われた。相手が生徒ではなく友人や姪なら「なに隠してるんじゃー‼」とスケッチブックを強奪して走り去ってやるのだが、ここは実習先なので自粛した。
机の間を徘徊し、野田の席までたどり着く。遅刻してきた彼女も例に漏れずスケッチブックと手鏡を真剣に睨んでいた。
気配を消して手元をのぞく。
描きかけの自画像を目にし、「へのへのもへじの上位互換」というタイトルを思いついた。
画面いっぱいの大きな楕円の中に、はんぺんのような半月型の口、鼻は「く」の字。
へのへのもへじは鼻の部分が「も」で、三画だから、「く」よりも画数が多い。上位互換ではなく下位互換かもしれない。
今週中には一度デッサンを提出し、来週の授業では教室の前に作品を並べて講評することになっている。しかし野田のデッサンにはまだ陰影もつけられていない。この調子ではとても間に合いそうにない。
宍倉の、「やる気ないやつは放っておくの」という台詞が頭の中で再生される。
放っておかれた結果、野田は今頃になって焦っているのだろう。
「陰をもっと描いたらいいよ。首のとこって、暗いでしょ」
自分の首を指しながら声を掛ける。野田ははっとしたようにこちらを見上げ、また少し頭を下げた。
授業が終わり、片付けを済ませた生徒から教室へ帰っていく。入れ違いに一組と二組の生徒が烏合の衆となってやって来て美術室内がざわついた。
宍倉が準備室に行ったタイミングで教卓に鏡を返却しに来た野田を呼び止める。
「これ、お返しします。ありがとう」
洗濯したハンカチと新品のウェットティッシュを渡すと、野田は瞬きを繰り返した。
「うそ。千葉先生だったんですか……」
「なんだ、俺だって気付いてなかったのか?」
「全く。……本当にすみませんでした。私、急いでいて。先生の服は大丈夫でした? クリーニング代が必要なら言ってください。明日お持ちしますので」
「いや、きれいさっぱり落ちた。気にしないで」
そう言いながら、「おやおや?」と心の中で首を傾げた。
「常識が無い」という印象だったのだが、野田は目の前でとても礼儀正しく謝罪の言葉を並べている。
幼児を連れて何処へ行こうとしていたのか気になったが、あと数分でチャイムが鳴ってしまう。世間話をしている時間は無い。
ふと視線を感じ振り返った。
「ひっ」
「先生?」
美術室の端には賑やかなギャル集団があった。その中の一人が談笑に加わるふりをしながらこっちに鋭い視線を送っている。
涼真の再従妹であるらしいが、何故こうも睨まれなくちゃいけないのだ。野田も彼女の視線に気付いたのか、表情を曇らせ俯いてしまった。
「じ、授業始まっちゃうから早く行きな」
野田を美術室の外へ逃がした。かわいそうに、横顔が赤かった。
船渡川梓紗を恐る恐る確認すると彼女はまだガンを飛ばしていた。
俺を、ではなく、野田が出て行ったばかりの教室のドアを。
睨んでいたのは野田海頼だったか。
女同士、ごたつくこともあるのだろう。喧嘩しているのか嫌がらせか、もしくはいじめか。気にはなったが、一介の実習生が実習期間中に厄介ごとを解決できるわけがない。
野田が体調不良で早退したと知ったのはその日の放課後だった。
二年三組、野田のクラスの実習生の寺田が教えてくれた。
寺田が行う体育の授業中にしゃがみ込んでしまい、保健室へ行ってそのまま帰ったそうだ。顔が赤かったのは船渡川が怖かったからではなく、具合が悪かったからだと合点する。
看過するつもりだったが、船渡川が原因のストレスで体調やメンタルを悪くさせたのだとしたらと考える。
「隠し子」の噂を流したのも、船渡川だったら……。
「私も早退したい」
実習生用に設けられた控室で木内が嘆く。顔色が悪い。
彼女は理科の教員免許を取得する予定で、日夜実験の準備に追われ、平均睡眠時間は三時間らしい。
ソウタイシタイ、ソウタイシタイと妖怪のように呟きながら控室を出て行く。これからまた実験室に戻らなくてはならないそうだ。
そもそも既に放課後なので、今帰ったところで早退扱いにはならないのだが、誰も突っ込まない。
木内以外の実習生全員が集う放課後の控室は、煮詰めて気化させたような疲労感、倦怠感で充満していた。窓を開けているのに息が詰まりそうだ。
ノートパソコンのキーボードをカタカタ鳴らし、主要科目の授業を行う実習生たちが目を虚ろに光らせる。
学習指導案、すなわち授業の計画書を作っていて、今日中にそれぞれの担当教員に提出してオッケーを貰わなければ明日の授業ができなくなる。とても軽口を叩けるような雰囲気ではない。
そんな彼らを横目に、一足も二足も早く控室を出た。一週目こそ忙しかったが、既に山場を越えた気になってしまっていた。
明日と明後日も美術の授業はあるものの、今日と同じ授業を行えばいい。金曜日は授業が無いため美術室の教壇に立たない。
空いた時間はまたデザイン画を描き、非常勤講師にアポを取って中等部の授業を見学させてもらうだけ。
放課後になると宍倉は光の速さで帰ってしまうから、来週の授業の指導案は家でゆっくり書けばいい。宍倉はプライベートを重視するため、極力残業しない主義らしい。そこは見習いたい。
バッグを肩にかけ、実習日誌を手に職員室に入って身をすくめた。
既に帰ったと思っていた宍倉はまだ事務机の前に座っていた。
放課後に姿を見たのはこれが初めてだった。
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