第3話 チョコレート
野田は
しかし噂話のせいと言えばいいのか、おかげと言えばいいのか、彼女の名前はぱっと出てきた。
「野田
おざなりに引かれた鉛筆の線、今朝の空のような意図を感じさせない色使い……。
商店街の片隅で、野田はスマホの画面をじっと睨んでいた。
現代の若者はああやって毒にも薬にもならない情報を集めている。別に特異な光景ではない。
彼女が、足元で泣きじゃくる男の子を無視しているのでなければ。
「ねえってばあ!」
幼稚園児くらいの男の子が号泣しながら野田のスカートの裾を引っ張っている。皺がついてしまいそうだが彼女は全く意に介さず、スマホに夢中になっていた。
全く、今どきの若者は。子どもが泣いているのによく無視できるものだ。
どうにか相手にされようと、その子は徐々に声量を上げる。
「おねえぢやあああああああん! うわああああああああん!」
――野田
そう話していた生徒たちの品位に欠けた表情を思い出し、うんざりとした気分になる。
なるほど、今まさに目の前で繰り広げられているような光景を誰かが目にして「隠し子」だなんて冗談を言ったのだろう。どう考えたって年の離れた弟か、もしくは親戚の子だ。
「あ、そろそろだ!」
野田はようやくスマホから顔を上げ男の子の腕をつかむ。
こちらに向かって。
「スカイ!」
野田に「スカイ」と呼ばれた男の子は前方を確認せず走り出し、勢いよく俺の足にぶつかってきた。
「大丈夫か⁉」
反動で後ろにひっくり返りそうになった少年を慌てて抱える。スーパーの買い物袋から玉ねぎが落ちそうになった。
「……」
男の子は目を真ん丸にして立ち尽くしている。柔らかそうな赤いほっぺたは涙で濡れ、口の周りが茶色く汚れていた。
「す、すみません!」
野田が慌てて駆け寄ってくる。
目が合って、彼女は「あっ」と声を上げた。
「奇遇だな」
野田は答えず、慌てた様子で革のスクールバッグを開け、中からハンカチとウェットティッシュを取り出し、手に押し付けてきた。彼女の指先の皮は痛々しくめくれている。
「失礼します」
それだけ言うとひょいと男の子を抱きかかえ、走り去ってしまった。
何故、ハンカチとウェットティッシュを渡されたのだろう。
違和感を覚え、自分の膝を見下ろした。ズボンに茶色い、小さな手の跡が二つついている。
渡されたウェットティッシュを一枚出して汚れを擦るとカカオの香りがほのかに立った。
「チョコレート 服 落とし方」で検索。
安物のズボンなので汚れが落ちなかったとしてもクリーニング代なんて請求しないが、走って逃げるとは少し常識が無いのではと思ってしまう。
ズボンを洗濯機に入れ、家にあったカップうどんで昼食を済ませた。洗濯や食事に時間を掛けている暇は無い。
姉と姪三人がこの家に戻ってくるまでに進めたい作業があった。
受け持つ生徒たちは、美術の授業で自画像デッサンに取り組んでいる。
仕上げたデッサンを基にデザイン画を制作する予定だそうだ。
担当教諭から、「美大生としてデザイン画の手本を見せてほしい」と言われている。初めて受け持つ月曜日の授業までに、最低でも一点は作品を作らなくてはならなかった。
美術の専任教師であり、担当教諭でもある
この人の突破口は何処だろう。
そんなことを考えながら美術準備室で対面し、実習の打ち合わせをした。
履歴書を眺める宍倉の重そうな瞼は、眠そうにもつまらなそうにも見えた。声はくぐもっているし、愛想笑いもしない。軽口を叩くことも無いだろう。
こういうタイプの人間は酒を飲み交わしたところで心を開いてくれなさそうだ。そもそも先生を飲みに誘ってもいいものなのだろうか。
学年主任からは「生徒から連絡先を聞き出すな。こっちからも教えるな」と口酸っぱく言われているが、先生とどう関わるべきかはレクチャーされていなかった。
「授業のスケジュール崩せないから、千葉先生は今やってるデッサンの続きを教えてやって」
宍倉に言われ「よっしゃー」と心の中でガッツポーズした。
イチから授業を考えるのはハードルが高いのだが、既に生徒たちが取り掛かっている課題を引き継ぐなら気が楽だ。
顔に出したつもりはないのに、宍倉は光沢のある頭に手を乗せせせら笑った。
「どうせ、教員免許だけ取って一般企業入るんだろ?」
宍倉は事務机の上のスケッチブックの山に手を伸ばし一番上の一冊を手に取った。
表紙には「野田海頼」と書いてある。小さな文字で「のだみらい」とふりがなが振ってあった。
宍倉から「見てみな」と渡され、野田海頼のスケッチブックをぱらぱらとめくった。
白い。
新品なのかと思ったが、よく見ればラクガキ程度に薄い線がぴーっと引かれていた。後半には着色されているページもあったが、絵の具を水で溶いて塗っただけ。
「俺、やる気無いやつは放っておくから。生徒もそう。舐めてんだよな。美術のせいで推薦貰えなかったって泣きついてきても知らないけどな」
「いやー、僕はやる気だけなら人一倍ありますよお」とかなんとか言ってへらへら笑い、その場を乗り切った。お嬢様学校に似合わない中年男性を睨むのをぐっと堪えながら。
しかし、悔しいことに宍倉の推察は図星なのだ。どうしても美術教師になりたいと思っているわけではなかった。
まだ内定は手に入れていないが、就活だって続けている。教員免許を取ることが親から提示された、美大に進学する条件の一つだったというだけ。
教職課程の授業は思いのほか面白かったけれど、気が変わって教員を目指すほどの衝撃は与えてくれなかった。
教師になりたいという力強い意志を持たぬまま、ふらふらと教育実習に来てしまったというわけだ。
「やる気が無い」と言われても誤魔化すしかない。
このままじゃダメだとは思うものの、どうすればいいのかわからなくなっていた。
自分はもっと要領よくやれるものだと思っていた。
人間関係で苦労したことはあまり無いし、講師が言うことに素直に取り組んでいたら現役で美大に合格できた。
だから、最後の最後はどうにか
夕方になって、ようやくデザイン画の下絵ができた。休憩がてらにキッチンに立ち、大きな鍋で具材を煮込んでいた時、姉から着信が入った。
「急に旦那の両親が泊まりにくることになってさあ」
「じゃあ、今日はうちには泊まらないのかよ」
「夕飯、もう作っちゃったんだけど」と愚痴りたかったが、ニコルが泣いているのが聞こえたのでやめた。姉は「ごめん」とだけ言って通話を切る。
俺に対して言ったのかニコルに対して言ったのか、判別できなかった。
大鍋の中では大量の野菜と肉が煮えている。
両親は食が細い。姉たちが食べることを見込んで作ったこのカレーを食べきるのに三日は費やしそうだ。
そんな計算をしながらお
別の鍋で茹でていたニンジンを思い出し、大鍋に移す。
姪たちが喜んでくれると思い、せっせと型で抜いた星形の野菜たちが静かに底に沈んでいく。
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