第22話 赤の他人
「え、明後日ぇ?」
二日後に
「どうしよう。その日は仕事があって休めないのよ」
「なんで母さんが来るんだよ」
母は卓上カレンダーを細目で睨んだままカレーライスにガラムマサラをかけている。
手元を全く見ていないから、赤く粉がダイニングテーブルにこぼれてしまった。
「じゃあ大地と澄空くんが二人だけで出かけるってこと?」
「そう。まあ数時間だけな」
「へえ、よく大地に預けようと思ったわねえ」
母がテーブルを拭く。言わんとしていることはなんとなくわかった。
「俺がシエルたちの世話をしてたことは野田も知ってるし、だから安心なんじゃない?」
「世話って」
母がぷっと噴き出した。
今度はスプーンですくったカレーのルーがぽたっと垂れた。
「きたねーな」
「ごめん。でもさあ、あんたは別に世話ってほどのことはしてないじゃないのよ」
「してただろ。公園で遊んだり習い事に連れてったり」
「夜泣きを
母はこっちをちらっと見て笑うのを止め、「でも確かに
息子が腹を立てているのを察したようだ。
「よっぽど野田さんに信頼されてんのねえ、大地」
「……されてんのかな」
野田が「お願いします」と言った時の表情は、信頼というよりは覚悟に見えた。
現代社会においてご近所さんというのはつまり赤の他人のことを指す。野田は、赤の他人にかわいい弟を預けるために腹を括ったのかもしれない。
「母さんだったら、近所の人に自分の子どもは預けられない?」
母は「ご近所さんでしょー?」と悩むふりをする。
「私なら抵抗あるかな。かなり」
苦笑いして母は食事を再開する。
「このカレー、いつもより煮込み時間長いでしょ? おいしいわあ」
リビングの隅でバラエティ番組を観ていた父が、「話題の替え方が親子でそっくりだ」と笑った。
マンションのホールは無駄に日当たりがよく、空調設備が無いため蒸し風呂のようになっていた。郵便ポストの隣のベンチに座っているだけで汗が噴き出てくる。
約束の時間ぴったりにエレベーターが到着した。ドアが開くのを待ちきれないという様子で澄空が飛び出して来る。
以前会った時よりより髪が短い。夏らしくさっぱりした髪型だった。
「危ないでしょ!」
叫びながら野田も続いてやってきた。白いシャツとジーンズを履き、美術館に行った時よりもカジュアルな服装だった。
「澄空、どこに行きたい? どこでも連れてくよ。遊園地以外なら」
電車一本で水族館へも博物館へもたどり着く。どんな希望も叶えてやりたいが、遊園地はチケット代が掛かるからさすがに無理だ。
「こーえん!」
「公園なんかでいいのか?」
遠くへ連れてってやろうと張り切っていたのだが、なんだか肩透かしを食らったような気分だった。
「じゃあ、自然公園に連れて行ってもらったら」
この街には一日中過ごせるような広い自然公園があり、バスで十五分ほどで着く。遊具もたくさんあって子どもは楽しいだろうが、遠出という感じはしない。
「いくー!」
「澄空がいいならいいけどさ」
野田はトートバッグから帽子を取り出し澄空に被せ、紐付きの水筒をたすき掛けにした。
「野田としたことが、装備が足りてないな」
顎に手を当てる。
「あ、あとタオルもありますよ」
「夏の公園だぞ。虫取り網とカゴと虫よけスプレーと……。じゃぶじゃぶ池もやってるだろうから、着替えも要るな」
「すみません、公園ってあまり連れてかなくて。着替えならすぐ持ってこられますけど、うちには網もカゴも無くて」
「普段、公園に行かないの?」
「夏以外ならたまに行きますけど、今の時期は日焼けするのでなるべく行きたくないんです」
「女子には死活問題だな。でも、自転車に乗る時に帽子と手袋してなかったっけ」
「指先や足は防ぎきれないからどうしても焼けちゃうし、帽子も手袋も暑いんですよ。何より恥ずかしいんです、あの格好」
「女子高生が好き好んでする装いじゃないよな」
澄空の着替えを取りに行くと言って野田はエレベーターに再び乗り、すぐに帰ってきた。着替えの入ったプールバッグだけではなく、澄空のヘルメット、それに黒いバッテリーも持っている。
「よかったら私の自転車を使ってください。公園の中も移動できて楽ですよ」
野田がマンションの駐輪場へ案内してくれた。
屋根の下に電動アシスト付きの自転車がとめてある。野田は車体にバッテリーをはめ、澄空をチャイルドシートに乗せた。
子どもを乗せて自転車に跨ったことは一度もない。マンションの前の公園に移動し、少し練習させてもらった。ペダルに足を乗せ少し体重をかけただけで車体がふわっと前に進む。スピードを出してみると自分たちの周りだけ湿度が下がったような気がした。
「ばくそうだー!」
チャイルドシートで澄空が体を揺らす。公園の中を一周したらすぐに慣れた。車体が倒れないよう、転回する時にだけ気を遣えばよさそうだ。
「じゃ、行ってくるよ」
公園で自転車を漕ぐ練習をしただけなのに、三人とも額に汗を浮かべていた。
「もしかしたら出かけるかもしれないんですけど、いいですか?」
「当たり前じゃん。思う存分、羽を伸ばしなよ」
「……」
野田は真夏の日差しの下、以前「お願いします」と言った時と全く同じ顔を浮かべている。
「不安?」
「あ、いえ……」
彼女ははっとして表情を戻そうとする。
「そうだ、連絡先教えて。もし何かあったらすぐ知らせるから」
他人の家の子を預かるのだから、連絡先を知らないのはまずい。
メッセージアプリの連絡先に「のだ」というアカウントが追加される。
「おねえちゃん、ばいばーいっ!」
少しはぐずるかと思っていたが、澄空はにこにこと自分の姉に手を振って別れを告げた。
「うん、ばいばい」
澄空を送り出す野田のほうが寂しそうだ。
「先生、よろしくお願いします」
「じゃ、行ってくるよ。危ないから離れな」
野田が木陰に移動する。
「しゅっぱあつ!」
自転車を走らせ公園を出た。振り返ると木陰の下に野田はまだ立っていた。
迷子になったことにやっと気付いた、幼児のような表情だった。
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