第135話:式部卿宮

 転移から明け、開ける視界。しかし、足が大地につかない。刹那、足元に小さく見える武蔵国府の街並み。吹き上げる猛烈な風。

 つまり、ここは空の上だ。


「なッ!?」


「平安京の転移阻害……それも座標計算の妨害型!?」


 仁王丸は即座に状況を解釈し、海人の腕をより強く掴んだ。猛スピードで落下を始める中で、彼女は叫ぶ。


「神子様、少し荒っぽくしますが我慢してください!!」


「えっ、何を」


「契神「天忍日命アメノオシヒノミコト」:神器『頭槌太刀くぶつちのたち』!!」


 詠唱、そして抜刀。生じた衝撃波が落下速度を減衰させる。だが、まだ高い。このままでは二人とも墜落死だ。


「そうはさせない。霊術『諏訪神風すわじんぷう』!!」


「うっ!」


 二連続の術式行使。眩い光と暴風が二人を押し上げる。凄まじいGに海人の意識は一瞬飛びそうになるが、仁王丸は構わず彼を放り投げた。


「は?」


 理解が追い付かないまま、彼は宙を舞う。二転三転する視界。気付いた時には、海人は干し草の山の中にいた。身体中が痛むが、特段大きな外傷はない。軽い打ち身と擦り傷だけで済んだようだ。

 彼はよろよろと立ち上がり、


「し、死んだかと思った……仁王丸は?」


「私は大丈夫です。神子様こそお怪我は?」


 そう問いかける彼女は、涼しい顔をして政庁の屋根の上に立っている。海人は何か文句を言いたげな顔を一瞬浮かべたが、ため息とともに手を広げた。


「おかげさまで無事さ。それより……」


「ええ」


 海人と仁王丸は険しい表情を浮かべる。


「おかしいな」


「はい。流石に静かすぎます」


 国府政庁には人の気配がない。いくら敵軍に包囲されているといっても、これは異常だ。国府の中核たる政庁には、本来武官だけでなく文官、そして、下働きの庶民などが多く出仕しているはずである。にもかかわらず、見る限り人っ子一人いない。


「何が……」


 尋常ではない事態が起きている――そんな予感が海人に訪れる。しかし、ここまで来たら進むしかない。彼は冷や汗を拭い、ぐっと拳を握りしめる。


「……行こう仁王丸。式部卿宮は政庁の執務室にいるはずだ。外の戦況も、この違和感の理由も、今は一旦保留だ」


 ▼△▼


 海人たちは政庁の中に入った。だが、やはり人がいない。ただ、人がいた痕跡はあるのだ。散乱する文書、擦られた墨に濡れた筆。まだ暖かい茶が入った椀。政庁内に散らばる様々な情報が、人間の存在を主張している。にもかかわらず、文官はおろか衛兵の一人すらいない。外と同じく、奇妙な静寂が空間を支配している。


「神子様、本当に殿下はここにいらっしゃるのでしょうか?」


「きっといるさ」


「何か根拠がおありで?」


「無いよ。ただの勘」


「勘ですか……」


「でも当たる勘さ。それはお前も知ってるだろ?」


 ニコリと笑う海人。仁王丸はきょとんとした表情を浮かべ、ため息をついた。


「相変わらずですね。流石です」


「それ皮肉?」


「いえ、素直な感嘆です」


 彼女は淡々とした口調でそう告げ、ふっと笑みをこぼした。海人は苦笑して、目を細める。その視線の先に映る違和感、その中に紛れた更なる違和感を、彼は見逃さなかった。


「……朗報。今、勘から確信に変わった」


「えっ」


「『解けろ』!」


 仁王丸の理解を置き去りにする、突然の権限行使。言霊の種火が気脈の渦に亀裂を生み、世界に掛けられた魔法は無へと帰す。音を立てて崩れる空間。それを見て、仁王丸はようやく海人の言葉の意味を解した。


「これは……空間術式!?」


『そうだ』


「「!!」」


 突如、二人の脳内に声が響く。男の声。低く、しかしてよく通る荘厳な声色。誰だ――そんな疑問が彼らの思考を過るが、この状況では答えなど考えるまでもない。


「まさか……」


 直後、歪曲する空間。ガラスを引き裂くような異音の収まりとともに、ぼやけていた世界の輪郭がはっきりしていく。


 その先に、彼はいた。


 深い紫の衣。艶やかな黒髪、そして、顔を隠す垂れ布。青白い肌をした彼は、椅子に腰掛けたままニイと笑みを浮かべる。


「私が仁和帝にんなてい第八皇子、一品いっぽん式部卿宮敦実あつざね親王である。お初にお目にかかるな。佐伯の姫君、そして、『再臨の神子』殿」


「「……っ!」」


 即座に仁王丸は平伏し、海人は跪いた。当然である。目の前にいるのは、坂東における平安京勢力の総督。そして、神子に比肩する最高戦力の一角にして先帝の同母弟だ。

 まさに、神裔の代理人。そう呼ばれるに相応しい地位と血筋、そして実力を兼ね備えている。不敬を働けば、いかなる結末を招くか知れたものではない。

 だが、式部卿宮は穏かに微笑む。


「そんなに気を張らなくてもいい。それより、このような招待の仕方となったことを詫びよう。あれは言わば罠。南都の侵入に対する防御機構だ。すまなかったな」


「……滅相もございません」


「其方らの飛文は受け取っている。よくぞ下総から遥々参った。大義である。して、話というものを聞かせてもらおうか」


 頬杖をついて、式部卿宮は告げる。優しい口調。だが、そこには得も言われぬ圧がある。それは彼の高貴さと圧倒的な実力が生む迫力だろう。仁王丸は固まって動けない。しかし、海人は立ち上がる。


「神子様……!?」


 引きつった顔をする仁王丸。彼女の制止も聞かず、海人は一歩前に出た。


「……何かな」


「いや、話をする前に、いくつか貴方に聞きたいことがありましてね」


「ほう?」


 仁王丸の冷や汗は止まらない。海人の行動は、間違いなく綱渡りだ。不敬ととられても仕方ないギリギリのラインを攻めている。

 今、海人の動きが式部卿宮の逆鱗に触れれば、仁王丸では守りきれないだろう。どうか余計なことはしないで――そう彼女は祈るが、海人は止まらない。


「一つ。貴方は何故、国府周辺の敵兵を倒さなかったのですか?」


「単純な理由だ。好機を待っていたのだよ。最小の被害で最大の戦果を生み出す――それが、戦時の将に求められる能力だ」


「成る程。言いたいことは分かります。しかし、普通に考えると腑には落ちませんね」


「……どこがだ?」


「だって、これまでの行動に不合理が多すぎるじゃないですか」


 静かに、しかしはっきりと告げられた海人の言葉。それは、あるいは式部卿宮への批判ともとれる発言。式部卿宮は「へぇ」と呟き、仁王丸は目を見開く。しかし、海人は続けた。


「別に、ここまで完璧に通信を遮断する必要はない。征東大将軍の忠文さんにすら知らせずに動いて、その後も無言を貫くなんて、隠密行動にしてもやり過ぎです」


「そうかな? 敵を欺くにはまず味方から、と言うだろう?」


「それは仰る通りです。でも殿下。そもそもですが、貴方は敵を欺く必要があったのですか?」


「どういう意味かな」


「貴方、やろうと思えばこんなことしなくても武蔵を落とせましたよね?」


 仁王丸は「えっ」と小さく声を上げる。式部卿宮は興味深そうに首をもたげて、


「何故そう思う」


「単純な戦力の足し引きです。下野国府の直轄軍と平安京の正規軍、あわせて二千はいるのでしょう? それに、殿下は強い。俺の目と勘がそう告げている。なら、本来はこんな回りくどい方法を取らずとも勝てたはずだ」


「……成る程。悪くない分析だ。一つのあり得た可能性としては肯定しよう。しかし、私はこの策を選んだ。そこに何か不満でも?」


「いいえ、別に。ですが、殿下は正面突破で勝てる戦を、わざわざ回り道して膠着状態にしてるんだ。もし坂東の制圧が目的なら、こんな馬鹿なことはない。最小の被害で最大の戦果を生み出す――まさにその真逆の行動。これは貴方が抱えた矛盾です」


 式部卿宮を見据えて、海人は言い放つ。ぴくりと動いた式部卿宮の肩。これ以上はまずい――そう考えた仁王丸は海人を止めようとしたが、彼は彼女の目を見て牽制する。


「っ!」


 何かを察した仁王丸。海人は一つ頷き、さらに一歩前へと踏み出す。

 そして、彼はニコリと笑みを浮かべた。


「……って、一瞬は思ったんですけど、間違ってるのは俺のほうでした。殿下が『普通の戦果』を求めてるって思い込んでたせいで、俺は貴方の行動の意味を理解できなかった。あまりに不合理で腑に落ちなかった。それで、俺は考えなおしたんです。殿下の本当の狙いは何だ、って」


「……」


「試したんでしょう? 俺たちのことを」


 海人の問いに、式部卿宮は答えない。ただ、頬杖をついたまま僅かに笑みを浮かべている。海人はその無言を肯定と捉え、どこか納得したような顔で天を仰いだ。

 しかし、仁王丸の理解は追いつかない。


「み、神子様……い、一体、それはどういう意味ですか!?」


「そのままの意味さ」


 答えにもならない答えを返し、海人は目を伏せる。彼の心の中にあった違和感。その答え合わせはたった今済んだ。だから、残る疑問はあと一つだけである。

 なぜ式部卿宮は自分たちを試したのか――それだけが分からない。面識もない自分を、この無茶苦茶な情勢で身を危険に晒しながら試す妥当性について、確信のある答えがどうしても出せなかった。


 しかし、仮説はある。それも、あと二択にまで彼は可能性を絞っている。だから、それを確かめるために海人は問うた。


「……では、最後にお聞きします」


「何かな」


「貴方は誰ですか?」


 決定的、しかし、あまりに唐突な問い。仁王丸は目を見開き、驚きを露にした。


「い、一体何を……?」


 彼女は式部卿宮という男を平安京で見たことがある。彼は、紛れもなく目の前にいる男だった。顔を布で隠していても、纏っているオーラが彼女にそう確信させる。

 にもかかわらず、海人は違うと言った。面識もない相手を、別人だと暗に言い張ったのである。訳が分からない状況に、彼女の思考は空転した。


「み、神子様……!?」


 そんな彼女を嘲笑うように、式部卿宮は肩を小刻みに震わす。そして――


『ふふ、あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!』


 高らかに響いた、少年とも少女ともつかぬ笑い声。それは、先ほどまでの声ではない。明らかに別人の声が、目の前の男から放たれている。動揺を隠しきれない仁王丸。逆に、どこか安堵した様子の海人。そんな彼らの視線の先。不明の男の輪郭線は、まるでノイズが入ったかのようにブレ始めた。


『流石だね。君なら気付いてくれると思っていたよ。カイトくん』


 式部卿宮を騙る何者かは、心底嬉しそうに告げる。そして彼/彼女は、指をパチリと鳴らした。

 直後、微かに揺れる空気。放たれる眩い閃光。思わず仁王丸は目を閉じる。だが――


「っ……!?」


 再び目を開いた時、そこには誰もいなかった。場所はそのまま。海人も、式部卿宮も忽然と消えてしまった。


「え、え……!?」


 動揺と困惑の中、ばっと振り返る仁王丸。その瞬間、途端に聞こえだした慌ただしい声。視界に映る文官たち。ここはだと、彼女は即座に理解する。そこでようやく気付いた。海人たちが消えたのではない。自分があの空間から追い出されたのだと。


「……神子様」


 仁王丸は両手をぎゅっと握りしめ、心細そうに呟いた。

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