第136話:陽の神は囁く

「正直、貴方で安心しましたよ」


「叔父上に我儘を言ってみたんだ。また君と少し、お話したいなぁと思ってね」


 仁王丸が消えた空間。荘厳な雰囲気の漂う謁見の間。式部卿宮を騙る存在が座っていた場所には、一人の少年が座っている。白い衣、白い髪。そして、顔を隠す垂れ布。その隙間から僅かに見える口許を緩めて、かの存在はあざとく小首を傾げる。


「ふふ、会いたかったよ。カイトくん」


 朱雀帝。北都平安京を統べる絶対者。主宰神、天照大神アマテラスオオミカミの表象たる『神裔の神子』。そして、海人を坂東に飛ばした張本人。そんな人物が、どういうわけか目の前にいる。


 ――いや違う、本人がいる訳じゃない。多分、式部卿宮の身体に精神だけを憑依させてるんだ。恐らくこの姿も幻術……でも。


「なんでそこまで。そう思ったかい?」


「!?」


「そう驚かなくても。何せ、僕は神様みたいなものなんだ。人間の考えくらい、手に取るように分かるんだよ」


 朱雀帝は静かに告げる。だが、彼は何がおかしいのかくすくすと笑い、


「ふふ、ごめん嘘だよ。今の僕にそんな力はない。でも、君が考えそうなことくらいは今でも分かるんだ。これは本当だよ」


 よく通る澄んだ声。少年のようでもあり、少女のようでもある、荘厳でいて柔和な落ち着く声色。海人はしばらく言葉を失っていたが、強い瞳をして前に出る。


「なら、俺の話も既にお分かりなのですか」


「勿論。将門のことだろう?」


「全てお見通しですか……」


 ニコリと微笑む朱雀帝。海人の頬を冷や汗が伝う。自分の思考は軒並み先読みされ、相手の狙いは全く分からない。これでは、交渉など成立しようがない。今の彼には、目の前の少年がまるで怪物のように思えた。


「ふふ。まあでも、全て分かる訳じゃない。だから、僕はこうしてここにいる。それに、分かっているだけじゃ仕方ないからね」


「つまり、俺の願いを聞いてくださると?」


「それは内容次第かなぁ。僕にも計画はあるし、変えられない未来だってある。例えば、今からの事とかね」


 さらりと、こともなさげに告げる朱雀帝。しかし、海人は聞き流せない。


「十……六日後?」


「そう。戦乱が終わるんだ」


 あっさり朱雀帝は言い放つ。だが、海人は本能的に感じ取った。胸騒ぎ。この先を聞きたくはない。きっとそう、避けようのない最悪な何かが、十八日後に起こる――嫌な予感が、これ以上ない程に海人へ警鐘を鳴らす。

 しかし無慈悲にも、朱雀帝は笑顔のまま告げた。


「東国大乱の鎮圧。南都と北都による坂東分割統治。そして、謀反人の処刑。この三つは、現状変えようがない確定未来なんだよ」

 

「確っ……!?」


「そう。確定未来」


 落ち着いた表情のまま、朱雀帝は淡々と告げる。海人にとっては、決定的で絶望的ともいえる内容。だが、朱雀帝の表情に変化はない。様々な思考と感情が巡り、海人の思考はショートする。そんな中でも、朱雀帝は口を止めない。


「無数に分岐した運命線は、最後にそこへと収束する……ううん、収束するように操作されたんだ。恐らく、運命線を分岐させた者の手によってね。こんなことが出来るのは、神かそれに準ずる存在だけだ」


「まさか……!」


「へーぇ、知ってるんだ。なら話は早いね」


 ニヤリと、笑みを浮かべる朱雀帝。絶対者たる少年は華奢な脚を組み、わざとらしく横柄な様子で放言する。


「今の僕には、南都や将門の反乱なんて正直どうでもいい。後ろで手を引く神様を、どう出し抜くかだけが懸念事項だ」


「ど、どうでも……いい?」


「そうだよ? だって、彼に勝てさえすれば、他はどうとでもなるからね。そこで、僕はあえて利用することにしたんだ。かの神の敷いた運命線が、望んだ未来へ繋がるように計画を組んだんだよ。確実に起こると分かっている未来なんて、これほど都合の良いものもない。不確定要素の絡む戦いは嫌いなんだ。前に一度痛い目を見ているからね。だから、単純な読み合いに持ち込みたいんだよ」


「い、言ってる意味が、よく分からないのですが……」


「え、そんなにややこしいこと言ったかなぁ……まあ良いや。端的に言うね」


 その瞬間、海人のあらゆる神経は、朱雀帝の次の言葉に意識を持っていかれる。あるいは、希望。または絶望。下総国府を出発してから求めた未来が、次の瞬間に絶対者の口から紡がれる。


「僕は、将門を見殺しにするつもりだよ」


 染み入るような、穏やかな声。それに反して、非情で冷酷な宣言。海人が持っていた唯一の希望は、いともあっさりと打ち砕かれた。言葉を失う彼に、朱雀帝は一切の悪意を込めずに畳みかける。


「なんなら僕は、坂東広域の気脈障害も、足立郡衙の襲撃も、将門反乱も鹿島社謀叛も、起こる前から全部知っていたんだ。でも、あえて無視した。そうすれば、本来より数ヶ月早く事が進むからね。その分だけ、僕は早く次の段階へと移れる。でも、こんなにも思い通りに進むなんて思わなかったなぁ」


「い、一体、何を言って……」


「将門やその郎党、子女まで全てが処刑され、坂東一帯が西の手に落ちる――

そんな歴史通りの未来に向かって、僕は望んで駒を動かしたのさ」


 海人の脳は理解を拒んだ。突きつけられた現実を受け入れず、何度も朱雀帝の言葉をリフレインし、誤解や聞き間違いを疑った。だが、どうあがいても答えは同じである。朱雀帝に、将門を救う気は全くないのだ。


「そう。ここであえて運命線に抗う意味はないんだよ。むしろ、その未来こそ最善。僕の望む未来に辿り着く、最善最短の道筋だ。多少の犠牲は出てしまうけれど、それは仕方ない。僕はこれを許容しよう」


 朱雀帝は将門に対して、憎悪も、恐怖も、憐憫も、ありとあらゆる一切の感情を抱いていない。ただ、海人には理解できないロジックに従い、純粋に理性的な判断によって粛々と動いている。


「それが……貴方の選択なのですか」


「うん、そうだよ。これは僕の意思であり、平安京の意思だ。僕が帝である限り、この方針が変わることはない。彼には悪いけど、将門には歴史の渦に消えてもらおう」


 朱雀帝は屈託のない笑みを見せる。到底海人には理解できない感情と価値観。そこで海人はようやく理解した。


「貴方も、古都主と同じか」


「うん?」


「貴方は人でなしだ。人の皮を被った悪魔だ!!」


「なら、僕を殺すかい?」


「貴方が意思を覆さないなら、俺は……!」


 海人は朱雀帝の首に手を伸ばす。朱雀帝は避けない。微笑を浮かべたまま、海人の顔を見つめている。


「やってごらん?」


「くっ……!」


 きめ細やかで白い肌に指が食い込んだ。力を込めれば簡単に折れてしまいそうな細い首。少年の脈拍がどくどくと伝わってくる。


「くふっ……」


「これは脅しじゃない。俺は決めたんだ。何としてでも、坂東の皆を救うって。その為になら、俺は貴方の命だって天秤に掛けてみせる……!」


 呼吸を荒げて海人は告げた。朱雀帝は何も言わない。海人はさらに力を込める。血が止まり、次第に赤く染まっていく顔。朱雀帝は、苦しげな声を漏らした。しかし、その表情は恍惚としている。海人は形容しがたい不気味さを覚えた。そんな彼の目を布越しに見つめたまま、朱雀帝はいやに艶っぽい声をして言った。


「ふふ、僕は幸せ者だなあ。、君に殺して貰えるなんて」


「ッ!?」


 その声に、海人は反射的に手を離してしまった。彼はそのままバランスを崩し、床に尻餅をつく。震える手。血の気が引いていく顔。それは、根源的な恐怖。いや、違う。これは罪悪感に近い感情だ。理由は分からない。海人の記憶の中に、その答えはない。


「……ぁは、残念。殺してくれないんだ。でも、知ってたよ。カイトくんはそうだった。やっぱり、君は甘いんだよ。でも、それでいい。僕は、君のそんなところに惹かれたのだから」


「――ぃッ!」


 だが、これだけは分かる。魂が、確かに覚えているのだ。目の前で微笑む存在は、かつて彼の日常の一部を構成していた。失われた記憶の断片の中に、きっとこの少年は存在している。この感情は、それ故に引き起こされたのだ。しかし、分からない。


「貴方は……一体俺の何なんですか!」


「ただの初恋さ。あっさり散った、君の青春の一ページだよ」


 朱雀帝はいたずらっぽく笑みを浮かべると、おもむろに垂れ布へと手を掛けた。布に掛かっていた認識阻害の術式が解け、少年の素顔が次第に明らかになっていく。


「な、ぁッ…………!?」


 白い髪に白い肌。太陽のように紅い瞳。それは、まるで絵画のワンシーンを切り抜いたような美しさと神々しさ。しかし、海人が動揺した理由はそこにはない。


「そ、そんな……馬鹿な……!」


 彼はこの顔を知っている。髪の色も瞳の色も、表情すらも違うのに、はっきりそうだと思えてしまう。それ程までに、少年……いや、の顔は瓜二つなのだ。海人を救い、導いてきた運命の女神。かの女神と全く同じ顔をした制服姿の少女が、今目の前に座っている。


「月……詠?」


「それは多分、僕の妹だ」


「え……は……?」


「でも、そうかぁ。やっぱりあの子もいるんだね。ふふ、これは頑張らなくちゃ」


 朱雀帝はにこりと笑う。そよ風が撫ぜる白い髪に陽の光が反射し、きらきらと光った。何気ない所作だが、それだけで絵になる。きっとこんな状況で無ければ、海人は彼女に心を奪われていたことであろう。しかし、彼の心にあるのは処理しきれない感情の濁流だ。

 動揺を隠しきれない海人の顔を愛おしそうに見つめて、朱雀帝は穏やかに告げる。


「でも、勘違いはしないで欲しい。僕という個は君のために存在しているんだよ。だから、僕は君の選択を拒絶しない。僕の行動を君が拒絶することはあっても、君の行動を僕が否定することはないんだ」


「それは……一体どういう」


 直後、空間が軋む。硝子にヒビが入るような嫌な音とともに、目の前の少女の輪郭がぼやけ始める。彼女はため息をつくと、気落ちしたような顔をして、


「残念だけど、時間みたいだ。じゃあね、カイトくん。そして、さん。運命線の交わるその先で、いつの日かまた会おう」


「ま、待ってく――」


 海人は手を伸ばすが、その手は朱雀帝の身体をすり抜ける。放たれる淡い光。その後に、彼女の姿はない。少女は、海人の希望を打ち砕き、一方通行な愛を囁き、彼の心をぐちゃぐちゃに乱して去っていった。


「……」


 誰もいなくなった部屋。海人は膝をついて崩れる。その時、彼の袂からぱさりと二枚の紙が落ちた。一つは、征東将軍忠文から預かった親書。そして、もう一つは、海人が式部卿宮に宛てた嘆願書だ。


「……ぁ、はは、何だよ」


 乾いた笑みが口をつく。もはや、意味の無くなった紙切れに、ぽたぽたと涙の雫が染みていく。何もかも無駄だった。自分には変えられなかった。邪神の紡いだ歴史の暴風は、彼の力ではどうにもならなかった。

 海人は無言で、繰り返し床を殴りつける。皮膚が裂け、血が滲んでいく。そして彼は天を仰ぎ、声にならない叫び声を上げた。

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