第76話:掻き乱す者たち
師忠の宿所に届いた一通の文。
文を受け取った少年は内容を見るや否や、すぐさま顔色を変えて主人の部屋へと断りもなしに飛び込んだ。
「宰相殿ッ!! なんか都でとんでもねェことになッてンぞ!!」
「まったく、犬麻呂はそそっかしい子ですね。そう慌てずとも」
「あ、慌てるに決まッてンだろ!! 姉貴と神子さん捕まッたンだぞ!!」
「ああ、そうなんですね」
「な……」
大慌ての犬麻呂とは対照的に、師忠はいつも通りの落ち着き払った態度で文書の整理を行っている。そんな彼を薄気味悪く思いながら、犬麻呂は口を開いた。
「なんで……宰相殿はそんなに冷静でいられンだよ!!」
「だって、神子様ですし」
「はァ……!?」
唖然とした表情を浮かべる犬麻呂。
そんな彼に師忠は教え諭すような口調で、
「あの方はああ見えてすごい人なんですよ」
「そ、そうは見えねえけどなァ……」
「まあ、そう思うのも無理はない。ぱっと見ではただの少年ですからね」
そう言うと、師忠はふっ、と軽い笑みを浮かべる。
「でも、付き合いが長ければ自ずと分かるものですよ」
「俺と宰相殿とであんま変わらんだろ」
「ふふ、そうでしたね。では、人を見る目の差ということで」
「ンだよそれ……」
犬麻呂は呆れたような目を浮かべる。だが、落ち着き払った師忠の態度にいくらか安堵を覚えた様子だ。
「まあ、心配には及びませんよ。あの方に任せておけば万事上手くいきますから」
▼△▼
平安京、内裏、蔵人所。
相変わらず仕事に忙殺される師氏の隣で、師尹は不機嫌そうな表情を浮かべたまま黙々と文書を作成していた。
「どうした師尹、なにかあったのか」
「何もありませんが」
「いや、絶対なにかあっただろう。私で良ければ相談に……」
「何もないと言っているでしょう! 余計な詮索はやめて頂きたい!!」
「す、すまない……」
声を荒げる師尹に気おされ、師氏は閉口する。また一つ頭痛の種が増えた彼は、再び仕事の続きを始めた。
「そういえば、義姉上の件に関してはどうするつもりだ?」
「そんなものこちらで握りつぶしてしまえばよろしいでしょう」
「いや、そういう訳にもだな……」
苦し気な表情を浮かべる師氏を睨みつけ、師尹は頬杖をつきながら口を開いた。
「あの、いいですか? これが明らかになっても誰も得はしない。むしろ、我ら藤原にとっての厄介ごととなりうるのです。そんなもの押しとどめておくに限るでしょう。どうせ漏れやしませんよ」
「しかし、兄上たちくらいには言っておいた方が……」
そんな師氏の言葉に、師尹は小難しい表情を浮かべて一度天を仰ぐ。彼は目を閉じると一つため息をつき、頷いた。
「私としたことが……確かに、それはその通りです」
「なら、私が」
「いえ、私が行きましょう。師氏兄はただでさえ仕事が多いのです。これ以上余計手間をお掛けするわけにはいきませんよ」
「じゃ、じゃあよろしく頼む」
えらく前のめりでそう告げる師尹に、師氏は思わず頷く。
彼の承認を見届け、師尹は蔵人所を立ち去った。
「再臨の神子……私に楯突いたことを後悔するが良い」
▼△▼
「へっくし!!」
洛南、左京獄の一角にある独房。
最近は人だかりが絶えないその場所の真ん中で、海人は大きなくしゃみをした。
「大丈夫ですか神子さま。もう霜月ですし、もっと暖かい恰好した方が」
「いや、別に大丈夫……って、あなた誰でしたっけ」
「嫌だなぁ、
「ごめん覚えてないわ」
いま海人は、平安京でちょっとした有名人となっていた。ありがたいお告げをくれる流行り神のような扱いらしい。連日代わる代わる見知らぬ顔が訪れては、皆ありがたそうな表情を浮かべて帰っていく。
当然のように尋問は滞っているが、海人としては暇をせずに済むうえに、適当なことを言っておくだけでチヤホヤされるので悪い気はしなかった。とはいえ、高明からしたら困ったものである。
「あの、神子様。そろそろ……」
「あっはい、了解です。ほら、みんな帰った帰った!!」
「ありがとうございます、お蔭で肩こりが治りました!」
「私は子供の病が!」
「それ絶対俺関係ないだろ!!」
ありがたいありがたい、と拝みながら帰っていく貴族たちの背中を見送って、海人はため息をついた。
「で、今日は何の質問でしょう?」
「あ、いえ、今日は質問というより、いくつかお耳に入れたいことが」
もはや尋問すらしなくなったな、などと内心で思いつつ、海人は首を傾げた。
「耳に入れたいこと?」
「ええ、今回の騒動についての話です」
神妙な面持ちで高明はそう告げる。
なにやら大事そうな話に、海人も思わず姿勢を正した。
「正直ここまでお話をお聞きしてきて、やはり神子様には何の咎もないように思われます。いや、これは実頼卿たちも初めから分かり切っていたことでした」
「それは良かっ……いや、ちょっと待って。それってつまり、俺たちは政治的なアレコレに巻き込まれてたってことですか!?」
高明の言葉から、海人は己の置かれていた状況を察して驚愕する。そんな彼の言葉を高明は首肯した。
「ええ。これは恐らく公卿たち……いや、藤原の仕組んだ高階排斥の謀略です」
「はい!? ていうか高階排斥って……そんなに師忠さん嫌われてたの!?」
「いや、単純に扱いが難しいんですよ」
まあ嫌われてはいますけどね、と補足しつつ、高明は続ける。
「あの一族は今でこそ我々と行動を共にしていますが、十年前までは南都と我ら両方に関わりがあった。いえ、むしろ南都側でした」
「えっ!?」
高階がかつては親陽成院派だった――衝撃の事実に海人は声を上げる。
高明は一度頷くと、さらに話を続けた。
「帝から官位を与えられて大人しくしているうちは良いんですが、もしかしたらまた朝廷に牙をむくかもしれない。純粋に懸念材料なんです。こんなこと神子様に言うのはあれかもしれない、とこれまで黙っていましたが」
「そ、そうなんですね……」
想定外にややこしい高階の立ち位置と貴族たちの警戒感に、海人はしばらく絶句する。
自分の居候先がそんなところだったとは思いも寄らなかった彼は、自分をこんなところに飛ばした例の自称国つ神を呪った。
しかし、高明の言葉を幾度か反芻した後一つの疑問に行き当たる。
「でも、普通に追放したらまた南都側に付きそうじゃないですか?」
「ええ、その通りです。ですから恐らく、実頼卿たちは神子様、そして佐伯の若君をダシにして交渉を行うおつもりなんでしょうね」
「師忠さん応じるかなぁ……」
海人は、彼の短い人生の中で師忠ほどひねくれた底の知れない人物を見たことがなかった。単純な理屈や論理で動かせるような男ではない――そう考えていたが、
「必ず応じるでしょう」
「えっ……」
師忠の曲者度合をよく知るはずの高明が即答したことに海人は驚愕する。いくらでも理屈屁理屈をこじつけて言い逃れしそうな彼が、必ず交渉に応じる――そう高明が断言できる理由が海人には全く思い浮かばない。
しかし、高明の口から発せられたのは極めて簡潔かつ明快な根拠、そして、この上なく残酷な事実だった。
「摂政殿下、そして『神裔』たる今上陛下は佐伯の秘儀が行使されたことをご存じです」
「――!!」
佐伯の秘儀――それは、皇位および『神裔』の権限を、帝の許可なく他人に移行させる術式。仁王丸があの夜、陽成院の皇子に対して使わされた秘術中の秘術だ。そして、海人や悠天たちが隠し通そうとしていた彼女の致命的な失敗でもある。
海人は、朝廷側にその一件が知られているとは全く考えていなかった。だが、それが知られたときに彼女が問われる罪状くらいはすぐに考え付く。
「これは、帝に対する反逆に等しい。最も重い罰が下されてしかるべき行為です」
「最も……重い罪」
「死罪は免れません」
死罪。シンプルかつ強烈なその言葉に、海人の頭は真っ白になった。
呆然とする彼に痛ましい表情を向けながら、なおも高明は続ける。
「神子様の神器破損についても同じく大罪ですが、あれは弁護の余地が大いにあります。しかし、佐伯の若君の件はどうしようもない。どう交渉が運ぼうと、上の判断は覆らないでしょう」
「……っ」
「もし、交渉の余地があるとすれば責任の範囲。普通なら高階の氏人まで罰が及びますが、佐伯だけで留まるか、はたまた若君だけで済むか……ここは師忠卿の力量次第です」
何も言えない海人。苦し気な表情を浮かべる高明。重苦しい空気が空間を支配した。
そんな中、海人は躊躇いがちにおずおずと口を開く。
「……高明さん」
「……はい?」
「あなたは、俺の味方ですか?」
ぽつりと、静かに問いかける海人。
従者の処刑が確定しており、また、自分も成り行き次第では同じ道を辿る――そんな状況に不安を覚えたと解釈した高明は、海人を安心させようと柔らかな表情を作った。
「勿論。私は最大限貴方の力になるつもりです。沙汰の場でも、あなたの潔白を訴えてみせます」
そう答える高明に、海人は少しだけ表情を和らげる。そして彼は、少し姿勢を正した。
「……なら、もう一つ聞いてもいいですか」
「ええ、どうぞ」
「あなたは、仁王丸が助かって困りますか」
「――!!」
高明は予想だにしなかった質問に目を見開く。海人は自分の命を心配していたのではない。大罪人の命を気に掛けているのだ。
「い、いや、しかし……! それはどう考えても無理な」
「困るか困らないかを聞いているんです!!」
「はいっ!!」
海人の勢いに高明は思わすたじろぐ。しかし、海人は彼の目から視線を外さない。高明は冷や汗を流しながら口を開いた。
「そ、それは……困りませんが……」
「なら、良かった」
そう言うと、海人は笑みを浮かべる。
「俺は、必ずアイツを助けます。そのために手段を選ぶつもりはありません。帝に対する反逆? 先に佐伯を裏切ったのは向こうです。それに、彼女は高階の家人、反逆も何も、そもそも帝の家人じゃない。今回の処分はどう考えたって不当だ」
「……それは……そうかもしれませんが……」
海人の理論に、高明は歯切れの悪い返答しか出来なかった。仕方あるまい。彼は帝側の人間。立場を弁えれば仁王丸に対する処分に異を唱えることは出来ない。
しかし、海人はもう一歩前に進み出た。
「高明さん、どうか力を貸してください」
「えっ」
「さっきあなたは言いましたよね? 最大限俺の力になってくれるって」
「――!? 確かに言いましたがあれは!」
「男に二言は無しですよ」
有無を言わさぬ海人の言葉。高明は冷や汗を流しながらただでさえ白い顔を青くして、口をパクパクさせる。しかしNoということも出来ず、結局首を縦に振った。
「ありがとうございます。なるべくご迷惑を掛けないようにしますから」
「そ、そのようにして頂けると助かります……」
高明は憔悴しきって力なくそう答える。なんだかんだ海人に言いくるめられてしまった以上、彼は力を貸すほかなくなってしまった。こうなっては仕方がない。高明はためらいがちに手を挙げる。
「……で、神子様……。あなたはどうやって若君を助けるおつもりなのでしょう?」
「それは……」
「それは?」
「今から考えますっ!!」
「はぁっ!?」
高明の悲痛な叫び声が監獄中に響き渡る。
たった今この瞬間、朝廷権威を相手取った海人の大立ち回りの幕が上がった。
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