第49話:猿田彦
私は一目散に駆け出していた。
このままでは私の中で何かが壊れてしまう――そんな気がして、頭が真っ白になって、気付くと夜の闇に飛び出していた。
怖かった。
怖かったのだ
悠天の言葉は、在り方は、いや、存在そのものが、私が私であることを否定する。私がそうあろうと決めて、そうあろうとし続けてきたものを、彼女は易々と壊してしまう。
それが、ひたすらに恐ろしかった。
再臨もそうだ。
彼は、今の私が私でなくなることを肯定してしまう。あの日以来私が必死になって積み立ててきたものを認めたうえで、それ以外の在り方を示してしまう。
私は、今の私のままでなくてはいけない。変わることは許されない。変わってしまえば、これまで大事にしてきたものが、全て無駄になってしまう。そんな私に向かって「もっと自由に」などと言ってしまえる彼は、彼女以上に恐ろしかった。
でも、彼らの方が正しいのかもしれない。
今の私が、歪んでいるのかもしれない。
いや、そんなことは分かっていた。
分かってしまっていた。
今の自分が、何者かになろうとして、何かを演じて、演じて、演じ続けて、結局本当の自分からは離れた空虚な張りぼてになってしまっていることくらい、自分が痛いほど分かっていた。
そして、それに固執して変わることを恐れ、手段と目的が入れ替わってしまっていることも。
分かってはいたけど、本当の自分が何なのか、そんなもの、もはや自分にも分からなかった。でも、分かってしまえば、私は今の私でなくなってしまう。私が今の私であることが出来なくなれば、私はきっと、生きる理由を失ってしまう。
根拠はない。けど、確信はあった。だから私は、私でない誰かを演じ続けたかった。
そんな私にとって、再臨の言葉は最も危険なものだった。だから、逃げだしたのだ。
▼△▼
少女は、賑やかな雑踏を駆け抜けていく。夜の町を照らす喧しい灯りが、彼女の頬を伝う涙に反射してきらきらと輝く。
上機嫌な人混みは、そんな彼女に目をやった。温厚な伊勢の人々は、尋常ならざる様子の彼女を放っておいてはくれなかった。
だが、彼女は気に掛けない。
視界にすら入らない。
彼女はただ湧き出す感情に任せて駆けていく。そして、心地よい闇に引き寄せられるようにして喧噪を後にした。
「……ぁ……はぁ……」
それから、一体どれだけ走ったのだろうか。ただ、海人たちのいる場所から離れ、灯りを厭い、呑み込まれそうな闇を避け、ひたすらに走り続けた彼女は、気付けば違う町の入り口に立っていた。
――宇治……伊勢内宮の門前町……
鮮やかに彩られ、煌々とした光が闇を照らす宇治の町。外宮の門前町である山田と比べても、さらに賑やかな町。皇大神宮の祭神の霊威がそのまま移ったのかのような、清浄な気配の漂う町だ。
雑踏の中で彼女は立ち尽くす。
そして、ふと我に返った。
――なぜ、私が逃げ出さなくてはいけないんだ……?
よく考えれば、今回彼女は何も間違ったことはしていない。ただ悠天に反論し、再臨の怠惰を咎めただけだ。
――なのに、何故こんな思いをしなければならない? 何故、私だけがこんなに思い悩み、苦しまなくてはならない?
疑問、疑念、懐疑、不平、不満、そして怒り。そんな感情がふいに湧き出してきた。
――そうだ。どう考えても悪いのは私じゃない。あの人たちじゃないか!! 何が「勘」だ、何が「落ち着け」だ、何が「可哀そう」だ!! ふざけているのか!! 旅行のつもり? 馬鹿を言え! やる気がないならそもそも受けるな!! そういう人間が一番癪に障る……こんなに真面目にやってきた私が馬鹿みたいじゃないか!! あんな奴らの為に、何故私の方が逃げ出して、走って、こんな所にいる? おかしいじゃないか!!
「――ッ!!」
声にならない叫びを上げる。ここにきて、抑えてきた彼らへの不満が爆発した。従者だとか、家人だとか、そして、「佐伯の若君」だとか、そうした立場とは関係ない。彼女自身の純粋な感情の発露。
彼女は子供のように地団太を踏み、木を殴りつけた。拳から血が滲む。透き通るように白い肌が、月明かりと宇治の町の灯りを受けて紅く染まっていく。
「……はぁ、はぁ……」
息も絶え絶えに、彼女は手を胸に当てて平常心を取り戻そうとする。だが、右手の痛みとともに、海人たちに対する怒りがなおも燻り続けていた。
「くっ……」
そんな時、ふと月が雲に隠れる。辺りは町の灯りの他に光を失って、彼女を夜の闇が包み込んでいって――
「……あれ?」
ふと、背後から彼女を照らした微かな灯り。ばっと振り返る仁王丸。
「――っ!?」
そこにあったのは神社の鳥居だ。その向こうには、飾り気こそないが綺麗に整えられた境内と、灯篭の淡い灯に照らされる本殿が見える。どれもさっきまでは無かったはずだ。
――一体、何が……?
理解不能の状況。
仁王丸は身体を強張らせる。
その時だった。
「お久しぶりやね、お嬢さん」
ふいに後ろから飛んできた聞き覚えのある声。それも、出来れば再会したくなかった人物の声。
今となっては忌々しい、自分たちを謀ろうとしたその人物の声だ。
「――っ!!」
「そんなに怖がらんといてぇな。別にとって食おうって訳と
彼はへらへらとした笑みを浮かべてそこに立っている。仁王丸は敵意を露にして彼を睨みつけた。そう、彼は――
「舟で出会ったご老体……いや」
陽成院派の手先――そう言おうとした彼女を彼は手で制する。
「先にゆうとくけど、ぼくは別に上皇さんの手下とかでは無いから」
「!?」
思ってもみなかった答え。仁王丸は驚きとともに怪訝な表情を浮かべ、
「……なら、貴方は何者なんですか」
「ぼくか? えぇ……そうやなぁ……」
いつぞやの老人は腕を組んで天を仰いだ。その視界にふと、鳥居に掲げられた額が映る。彼はポンと手を叩いた。
「あぁ、そうそう!
彼は怪しげな笑みを浮かべて、
「でな、何しにここに来たかっちゅうたら、お嬢さんを連れに来たんよ」
「……私を?」
「そうよ。お嬢さんをある人に会わせるよう頼まれてん。そのお遣いがぼくや」
天孫を地上へ導いた神の名を名乗る怪老。彼は灯篭の灯に頬を照らされながら、けたけたと不気味に笑っていた。
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