第46話:怜し国、伊勢
――神無月九日、伊勢国、
安濃津から松坂を経由し、歩くこと八時間弱。ついに海人たち一行は、伊勢神宮のお膝元、その目前まで到達した。豊宮川を渡れば、そこは神域都市
大和と伊勢の国境から伊勢湾に流れ込み、伊勢
「ぁ……」
思わず、息が漏れる。
風光明媚という在り来たりな言葉ではとても足りない。だが、適切な表現が海人には思い浮かばなかった。筆舌に尽くしがたい、とはこのことを言うのだろう。
川岸には薄が海風に靡き、左手には遠くに伊勢湾が見える。澄んだ空気に潮の匂いを乗せた風が一行の頬を撫でた。白鷺が海岸線に向かって飛んでいく。
そんな時、海人はふと思い出した。
――是れ神風の伊勢国は則ち
日本書紀の一節、
――なるほど、神風が吹き、幾たびも波の打ち寄せる美しい国……か。
神代から変わらぬ、至高の神が見惚れた景色。それが、目の前に広がっていた。
「こっから先が神宮領、正真正銘の神域だ」
どこか自慢げに、そして楽し気な様子を忍ばせながら、鈴鹿が手を広げる。
鈴鹿の子分たちもどこかそわそわした様子で橋の向こうを眺めていた。
「お前ら盗みなんか働くなよ?」
海人は彼らを軽く睨んでそう告げる。もう目論見が露見している可能性もあるが、一応まだ隠密作戦は実行中。余計な騒ぎを起こされたら面倒だ。
それに、仮にも伊勢はこの国の信仰の中心。彼らの狼藉を許すとなれば、連れてきた自分たちにもバチが当たりそうでいい気がしない。
それ故海人は彼女たちを牽制したのだが、
「馬鹿にすんじゃねえ」
「盗みなんかするわけねぇだろ」
「そうだそうだ!」
鈴鹿たちから想定外の反発の声が上がる。どういうことか分からず海人は困惑した。
「は? え、お前ら盗賊だよな……」
「自分で言っといて何抜かしてんだお前……盗賊ってんのは神さんの加護があって初めて上手くいくもんさ。神さんのお膝元で悪行やらかす馬鹿がどこにいんだよ」
「へえ……」
盗賊には盗賊独特の宗教観があるらしい。海人は腑に落ちたような落ちないような、しかし妙な感慨を浮かべつつ橋を渡る。
かくして一行は山田入りを果たした。
▼△▼
――伊勢国山田、伊勢外宮(
雨の宮風の宮、ということわざがある。出費が嵩むことや、出費が嵩む原因になる取り巻き連中のことを指す表現だ。
この雨の宮風の宮というのは伊勢の末社のことらしい。つまりは、お賽銭だけで懐が痛くなるほど神社が多いということでもある。
これだけ神社が多いと、当然その維持のために多くの人手がいる。すると、その人々を支えるために多くの商人が集まってくる。商人が集まってくると、各地とのネットワークが形成され、さらに人が集まってくる。
こうして形成されるのが門前町だ。
――まあ、このループで山田に門前町が出来るのは中世以降だった気もするけど……
それはともかく、
「結構賑わってるなぁ」
「まあやっぱり神宮の威光はすげぇってことよ。だが……」
鈴鹿は周りを見渡し、目を細める。悠天も、そんな彼女を見て頷いた。
「流石にちと多いな」
「ああ」
商人、旅人、地元の人、様々な人が行き交う山田の町。伊勢、いや畿内有数の町ではあるが、それにしても異常なほどの賑わいを見せていた。
――人口密度だけなら都並みじゃないか!
平安時代の日本の人口は推定六百万人前後、そして、平安京の人口は十二万人程度とされている。
だが、海人の見立てではもっと多い。この世界の平安京の、近代都市と比べても見劣りしない人混み――そこから考えて、少なく見積もっても三、四十万人はいくと彼は考えている。つまりは、史実の三倍ほどの人口を抱えているということだ。
これを踏まえて海人が導き出した、この世界の日本の推定人口は二千万人前後。また、平安京と変わらぬ人口密度を持つように思われるこのエリアの人口は、面積を考慮して六万人強と推定された。
これはつまり、日本の全人口の0.3%がこの神域都市に集中しているということを示す。この二キロ四方ほどしかない小さなエリアに、だ。
「ちょっと異常だな」
「……ええ」
仁王丸は、目を細めてしばらく思索にふけった。そんな彼女を見て、悠天はふう、と一つ息をつく。
「まあ、理由なぞ見ていけば分かることじゃろう」
彼女は暢気そうな声でそう答えた。海人は苦笑しつつ、ふと自分の左手首に目をやる。
――まだ4時前か……
彼は空を眺めた。まだ明るい。同じように空を眺めていた仁王丸は、悠天の顔を見て口を開いた。
「日没までちょっと時間がありそうですね。決行は明日として、今日はどうしましょうか?」
そんな仁王丸の問いかけに、悠天はふむ、と腕を組み、空を仰ぐ。彼女はそのまましばらく考えていたが、ふと顔を下げた。
「まずは宿をとる」
「その後は?」
海人が尋ねた。悠天はまたしばらく手を顎に当てて考える。
「……特にやることもないな。散策……もとい偵察でもするか?」
特に反対意見は出ない。それを見届けて、悠天は鈴鹿たち一行を見やると口を開いた。
「今日はここらで解散じゃ。好きにするが良い」
そんな言葉に、鈴鹿たちは不服そうな表情を浮かべる。
「なんだそれ、まるで俺たちがお前らに付き従ってたみたいじゃねぇか!」
「そうだそうだ!」
さすがにその解釈は卑屈ではないか? と海人は思ったが、よくよく考えてみるとあながち間違いでもない。これまでの彼女たちの働きは完全に道先案内人だ。実質従者みたいなものである。
「第一、ここで離れちゃ、お前らがどこに行くか分かんねぇ」
意外と冷静な指摘をする鈴鹿。折角取引を行ったのに、ここで逃げられるとご破算になりかねない。そんな懸念ゆえの発言である。
ただ、別に海人たちが取引を反故にする理由もない。完全に杞憂だ。悠天は一つ息を吐くと、人差し指を立てて、
「なら、明日は
「それなら、文句はねえ」
こうして海人一行と鈴鹿一党は別行動を取ることになった。
▼△▼
宿を無事確保したのち、海人たちは一通り山田の町を散策してみる。どこを見ても人、人、人。人だらけだ。商人だのなんだのでごった返している。
そして、人が
「怪しい動きはありませんね」
「ああ、普通じゃな。上皇の家人などどこにもおらん」
悠天は両手に団子を持ちながら、不思議そうな顔を浮かべている。仁王丸はそんな彼女の言葉に首を傾げた。
「そうなのですか? この一帯は神気が充満しすぎていてよく分かりません……」
「はむ……ムグムグ……まあ、探知の感度をかなり上げればある程度は分かる」
悠天は団子を頬張りながらそう答える。そして、付け加えるように、
「じゃが、この神気の発生源――皇大神宮の奥までは我でも分からぬがな」
そう告げると、南に見える森を見やった。
ただ、皇大神宮の奥などそう広くない。陽成院派の大軍勢をとどめ置くなど不可能だ。また仮に可能だったとしても、この人の数ではそう動かせまい。
彼らはどこか拍子抜けした様子で町の散策を続ける。だが結局、この町に海人たちの脅威となりえる存在は見当たらなかった。
いつもより人が多いだけの神域都市。
それ以外の異変は何もない。そのことが、海人の心に妙な違和感を刻み続けていた。
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