第11話:高階の書庫

――広いとは思っていたが、ここまでか……


 海人は思わず息を漏らす。上級貴族の邸宅、狭いわけがない。ただ、それでも所詮は平屋、広さなんてたかが知れているだろう――そう思っていた彼は度肝を抜かれた。

 

――一部屋一部屋がデケェ……かくれんぼし放題だな。


 小学生みたいな感想を浮かべて興奮気味の海人。そんな彼を一瞥し、犬麻呂はふん、とどこか誇らしげに鼻を鳴らす。そして、ふいに立ち止まった。


「ここが書斎、そこも書斎、あそこも書斎……てかこの辺は全部書斎だ」


 犬麻呂は視界に映る部屋を指さしつつ、ぶっきらぼうに言い放つ。海人は目を丸くしながら周りを見渡した。


「で、俺のサボり部屋でもある」


「ドヤ顔で言うな」


 悪びれる様子のない犬麻呂に呆れる海人。しかしなるほど、確かにサボるにはこの上ない環境だ。人気は無いし、隠れるところはあるし、暇つぶしもできる……と、一瞬犬麻呂に共感しそうになった海人は、邪念を振り払うように首を振った。


「にしても、書物ばっか……」


「ああ。なんせこっちの高階邸は元々書庫みたいなモンだからな」


「書庫?」


 一族の家伝や史料を置いておくためにはそういうのがいるのだろう、それは海人にも分かる。しかし、これはその域を超えているように思えた。


――ここまでいくと書庫というより図書館だな……


 整然と並べられた膨大な量の書物。このレベルとなると、書庫の持ち主は余程の収集家か、それとも……


「師忠さんって学者なの?」


 そんな海人の推論。しかし、犬麻呂は眉をピクリと動かし、不快感の少し混じったような呆れた表情を浮かべた。


「あ? 何寝ぼけたこと言ってンだよ」


「えっ?」


「神子さん高階がどういう一族か知らねェのか?」


「あんま知らん」


「力も弱けりゃ学もねェのかよ……まァいい。教えてやる」


 犬麻呂はそう言い放つと、部屋の奥に進み入り、一つの和本を手に取った。『高伯家系図』と書かれたその本片手に、犬麻呂は口を開く。


「まず、高階家のご先祖様、浄御原帝きよみはらていは知ってるよな」


「いや知らん。最近めっちゃ聞くけど何者?」


「先の世の奴らって皆そんなもんか? チッ、思ったより何も知らねェ……」


 海人の返答にイラつきながらも、犬麻呂は和本を開いた。彼は流麗な崩し字で書かれた前書き部分を指さして、


「浄御原帝は皇国第四十代の帝だ。甥を倒して大和国飛鳥やまとのくにあすかの浄御原に宮を築き、国を治めたから浄御原帝。今の皇国の全てを造ったと言っても過言じゃない、名君中の名君だ」


「へぇー……ん?」


――飛鳥の浄御原……甥? 四十代?


 高校では日本史選択だった海人にとって、聞き覚えのある単語がちらほら。その時、ふいに彼の頭の中で知識が繋がる。いるのだ。浄御原帝の説明と合致する歴史上の人物が。


「もしかしていみな大海人おおあまだったりしない?」


 大海人皇子、すなわち天武天皇。壬申じんしんの乱にて甥の大友皇子おおとものみこを撃破して即位、飛鳥浄御原宮を造営して国を治めた第40代の帝。

 そんな海人の答えを、犬麻呂は意外そうな表情で受け止めた。


「なんだ、知ってンのか」


「こっちの世界ではそう呼ぶんだよ。で、その浄御原帝がどうしたんだ」


「ああ、浄御原帝が契神術を作ったってのは聞いてるはずだが、その理論にはいくつか秘密があンだよ。で、それを神祇伯じんぎはくの役職と一緒に代々継承してンのが高階って訳だ」


「ほう」


「つまりだ。高階に生まれた以上、祭祀や契神術についてめちゃくちゃ詳しくなけりゃいけねェ。氏上なら尚更だ」


「はぇー」


 自信満々で語った犬麻呂に、海人は素直に感嘆の息を漏らした。さきほど手に取った和本も、結局犬麻呂は前書き以外開いていない。これはほとんど彼の知識ということになる。


「犬麻呂めちゃくちゃ詳しいな」


「主家の基礎知識くらい持ってて当然だろ」


「いや、なんかそんな不良みたいな雰囲気ですげぇ博識だからちょっとびっくりしたというか……」


「褒めてンのか貶してンのかよく分からん感想だな……」


 少年からの心外な評価に、犬麻呂は眉をひそめて困惑したような表情を浮かべる。彼は「ケッ」と一つ息を吐くと、海人から視線を外して和本を棚に戻した。


「……そういえば」


 ふと、海人は口を開く。犬麻呂は棚の本を番号順に並べていたが、「ん?」と意識だけを海人に向けた。そんな彼を見て、海人は言葉を続ける。


「犬麻呂はだいぶ姉の方と雰囲気違うな」


「そりゃそうだろ。姉弟ッつっても他人だし」


「いや、そうじゃなくて、その……」


「ンだよ」


 歯切れが悪く要領を得ない海人の言葉に、少しイラついたような返答を犬麻呂はよこした。海人は言葉を選びつつも、躊躇いがちに口を開く。


「彼女の……いや、佐伯の一族のことは師忠さんから聞いた」


「……」


 海人の言わんとすることを理解し、犬麻呂の手が止まる。海人からは彼の表情が見えない。だが、複雑な心境であることが見て取れるような、そんな背中。犬麻呂はしばらく黙り込んだのち、


「……姉貴は、生真面目過ぎンだよ」


 責めるような、呆れるような、そんな感情が感じられるトーンで彼は呟いた。そして、犬麻呂は手を広げて振り返ると、小難しい表情を浮かべる海人の顔を見る。


「それにだ、あの時俺まだ三歳だぜ? 親の顔なんざ覚えてねェよ」


「……」


「俺はその辺割り切って生きてンだ。姉貴と違ってな。だから別に、俺にとっては復讐も一族だってどうでもいい。アンタにもそんな期待なんてハナからしてねェ」


 そう言うと、犬麻呂は豪快な笑い声を上げた。暗い過去なんて忘れて今を見てるんだ、そう言わんばかりの態度。確かに、この前の夜に垣間見えた仁王丸のそれとは全く異なる在り方である。

 しかし、海人には犬麻呂の笑みはどこかぎこちなく思えて仕方なかった。そんな海人の表情を見て何かを察したのか察してないのか、犬麻呂はフッ、と息をこぼして親しみやすい笑みで海人を見る。


「ただ、宰相殿がアンタを養うッてンなら、俺はそれに従うまでだ。期待なんか無くても別に追い出したりしねェよ。まあ好きにやってくれや」


 そう言い放つと、犬麻呂はくるりと回って部屋を出ようとする。海人もそれに続くが、犬麻呂はふいに足を止めてポン、と手を叩いた。


「そうだ。このまま都見物に行かねェか?」


「えっ、でも昼ご飯が」


「そんなもんどうとでもなるだろ。表の方に一言声かけてから行きゃ宰相殿も怒りゃしねェよ」


「えぇ……」


 昼餉までに戻るように――というのが師忠の言いつけだったが、犬麻呂はそれをあっさり反故にしようとする。眉をひそめて呆れたような表情の海人に、犬麻呂はニカッと笑みを浮かべた。


「何も知らねェ神子さんに、平安京がどんな所か教えてやる。行こうぜ!」

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