第一章:蒼天の霹靂
第10話:前途多難な二日目の朝
「――ま」
「――子様」
「神子様っ!」
幾度となく響いてきた、透き通るような声。海人の意識はようやく夢の世界から引き戻される――が、活動を再開する気にはなれず、彼は再び布団にもぐった。
「あと五分……」
「もう昼ですよ。いつまで寝てるんですか……」
「うう……」
海人は呆れ気味の少女の言葉に観念して、気だるい身体に鞭を打ち、ぼんやりとした思考を再起動させようと試みる。
だが二度寝の甘い誘いはことのほか強く、なかなか布団は海人を解放してはくれない。
「うーん」
そんな時、何気なく伸ばした手の先に感じた柔らかい感触。
「ん?」
「――ぃっ!?」
直後聞こえた小さな悲鳴。怪訝に思った少年が目を開けると、吐息が掛かりそうなほど近くに黒髪の美少女の顔があった。お香か何か、花のような良い香りもしてくる。
だが、彼女はまるでゴミでも見るかのような目で海人を見下していた。
――……?
海人はおもむろに視線を下げ、自分の手が伸びるその先を見やる。そして、気付いた。
「あっ……」
そんな声をもらす海人を、仁王丸は凍死しそうなほど冷たい目で一瞥する。そして、自分の胸に伸びた彼の手を力強く払いのけた。
ひりひりと痛む感覚に、事の重大さを理解して海人の意識は一気に覚醒する。だが、時すでに遅し。
「汚らわしい……」
「ままま待って! ごっ、誤解だ! これは事故だっ!! ごめんってェ!!!!」
冷や汗を流しながら飛び起きるが、彼女は彼を置いてそそくさと部屋を去ってしまった。血の気が引くような感覚とともに海人の思考はフリーズする。
平安京生活二日目にして社会的に死んでしまうなんてあんまりだ。
「……っ」
そんな彼の後ろで、肩を震わせて必死に笑いをこらえている少年が一人。彼の気配に気づいた海人はばっと振り返るが、少年の感情の堰はその瞬間に決壊した。
「ぷっ、あはははッ! 神子さんいきなり嫌われたな!」
「笑うなよ! てか昨日からもう既に嫌われてんだよっ!」
「はッ、あははははッ!!」
必死な表情で叫ぶ海人を見て、少年はますます大きな笑い声を立てる。少年は過呼吸気味になるほど一通り笑い通したのち、ふう、と一息ついて海人の顔を見た。
「悪ィ悪ィ。あー、可笑し」
「こっちは笑い事じゃねえんだよ……」
海人はため息をついて少年を睨む。そういえばどこかで見た顔だ。
「……えっと、犬麻呂だっけ?」
「いきなり馴れ馴れしいな。犬麻呂様と呼べ」
「さ、様?」
きょとんとする海人を嘲るように鼻で笑い、犬麻呂は口を開く。
「冗談に決まってンだろ。アンタは神子なんだぜ? もっと偉そうにしとけよ」
――なんだコイツ……
犬麻呂は小難しい表情を浮かべる海人の肩を叩くと、呆れたような表情を見せた。
「なにボケっとしてんだ。宰相殿が待ってんぞ」
▼△▼
犬麻呂に連れられてやって来た部屋には、師忠と仁王丸が座っていた。師忠は海人たちに気付くと穏やかな表情で一礼する。
「おはようございます、神子様。昨夜はよく眠れましたか?」
「は、はい……おかげ、さまで…………」
「?」
師忠は、どこか気まずそうな海人の様子に違和感を覚える。何気なくふと横を見ると、殊更に仁王丸が不機嫌だ。
「仁王丸、何かありました?」
「何もありませんが?」
小首を傾げる師忠の疑問を一蹴すると、仁王丸はそっぽを向いた。師忠は困り顔で犬麻呂を見る。
「どうしたんでしょうか?」
「英傑色を好む、っていうだろ」
「ああ、大体察しました」
「察しないでください。誤解です」
ノータイムで割って入る海人。二人の視線が彼に向いた。まあ、実際誤解である。だが、このまま誤解が通ってしまっては、師忠から、ひいては都の貴族連中から変質者の烙印を押されかねない。こんな形のゲームオーバーは海人としてもご免だ。
ちなみに犬麻呂は分かってやっている。海人は眉間にしわを寄せて犬麻呂を睨みつけるが、師忠は呆れた表情でため息をついた。
「ちょっかいを掛けるのは構いませんが、程ほどにしておいてくださいね」
「い、いや、だから」
「そうだぞ神子様」
「犬麻呂に言っているのです」
「げっ!」
「まあ、こういう子たちです。どうか仲良くしてやってください」
「さ、先行き不安だな……」
海人は、少し青ざめたような顔でそう力なくこぼした。
多分年下だが、完全に自分を舐め切っている犬麻呂。まったく何を考えているか分からない師忠。そして、おそらく初対面から自分を嫌ってる上に、今現在好感度が地の底にありそうな仁王丸。
癖強めの三人に囲まれて、海人の憂鬱ゲージはもう既に限界スレスレである。むしろこの状況でまだ少しキャパが残っていることが驚きだが、存外に彼の精神力は強いのかもしれない。
そんな意外と図太い海人を一瞥すると、師忠はおもむろに口を開いた。
「さて。朝餉というには遅く、昼餉というには早い。その上、どこかへ出かけるには時が足らぬ……なんとも微妙な時間ですね」
「すんませんめっちゃ寝坊しました……」
「いえ、責めているわけではないのですよ?」
そう言いつつ師忠は顎に手を当て天を仰ぐ。そして何かを思いついたのか、パチリと指を鳴らした。
「仁王丸……はダメそうですね。犬麻呂、神子様に屋敷を案内して差し上げなさい。『表』の方もです」
「ええーメンドく……」
「いいですね?」
犬麻呂の言葉を遮って、師忠は念を押す。その圧に耐えかねて、犬麻呂は露骨に嫌そうな表情のまま渋々首を縦に振った。
「では、そういうことで。昼餉までには戻って来てくださいね」
「へいへーい」
全く気乗りし無さそうな声色で返す犬麻呂に促され、海人は席を立った。
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