第5話:高宰相
差し込む日の光に促され、少年は目を覚ます。だが、直後に猛烈な倦怠感、そして頭痛が彼を襲った。
「うっ……体調ヤバいし夢見も悪いし、最悪の目覚めだぜ……」
昨夜の惨状がまだ脳裡に張りついて離れない。いやにリアルな夢だった――そんな感慨を抱いて目を開く。
だが、視界に飛び込んできたのは知らない天井だった。
「は――?」
少年は飛び起きて周りを見渡す。木造建築の一見質素な部屋だ。しかし、少年の部屋ではない。彼は部屋を飛び出し、戸のようなものを開けて外を見た。
「……冗談だろ?」
目の前にあったのは、白い砂、綺麗に整えられた松の木、そして池。
綺麗な庭園だ。無論彼の家ではない、また、彼の知る日本にも、今どきそうはない豪壮な屋敷だった。
未だに信じられない現実。少年は何気なく頬をつまんでみる。
「うん、
「お目覚めですか、神子様」
「うおぁっ!?」
「私の屋敷、高階邸へようこそ」
突然音もなく後ろに立っていた男。昨夜の戦い、その最終盤に現れて満仲を撃退した例の美丈夫だ。彼はニコリと笑みを浮かべて軽く一礼する。そんな彼に向けて、少年は躊躇いがちに口を開いた。
「あ、貴方は一体……」
「私は
「正三位、参議……それに、神祇伯っ!?」
――メチャクチャ高官じゃないか!!
思わず声を上げる少年。平安京最高権力の一角に座するであろう男を前に、少年は大いに畏まった。だが、師忠は何がおかしいのか、ふっと息をこぼす。
「そんなに緊張しなくとも。肩の力を抜いてください」
「……いや、緊張しますよ」
「ふふ。まあ、仕方ありませんか」
師忠は、口元を扇で隠したままニコニコしている。物腰柔らかで余裕のある立ち振る舞いは、育ちの良さを感じさせた。
「それはさておき、昨夜は私の従者がお世話になったようで」
「従者?」
「ええ。仁王丸と犬麻呂です」
――あの子たちか……
「――って!?」
突如少年は顔色を変えた。
二人ともかなりの重傷……いや、それどころではない。少年の知る前近代の医療技術では、どう考えても助かりようのない怪我だったはず。
――まさか、死んで……?
不安と恐怖と罪悪感が混ざったような感情が彼の心を支配し、血の気が引くような感覚がもたらされる。
彼は、縋るように口を開いた。
「あ、あの子たちは……!?」
恐る恐る尋ねる少年。しかし、師忠は穏やかな表情のまま口を開いた。
「ご心配なく。命に別状はありませんよ」
「え……は、はは……よ、よかったぁ…………!」
師忠の言葉に少年は胸を撫でおろし、へなへなと座り込む。ただ、彼の理解は追いつかない。
「でも、一体何を……?」
一体あれほどの傷、西洋医学なしでどうやって対処したというのだ。
師忠は怪訝に目を細める少年を見やると、人差し指を立てて口を開く。
「
「ケイシンジュツ……?」
「ええ。今回は妙薬の神と名高い
――なんだそれは……?
少年の脳内を疑問符が埋め尽くす。
西洋医学でも、単なる迷信的な呪術でもない。少年の知らない謎の技術が、確かに瀕死の彼女たちを救ったというのか。
理解不能の状況に、唖然とした表情を浮かべる少年。その様子を見て、師忠は少し考え込むと、再び口を開いた。
「そうですね……今からおよそ二百五十年前、
「浄御原帝……朝廷祭祀の、真髄……?」
「はい。今の皇国は契神術によって造られたと言っても過言ではないでしょう」
そこまで聞いて、少年は昨日の戦闘を思い出した。満仲や仁王丸たちが使った謎の力も「契神術」とかいうやつなのだろう。そして契神術とやらが彼の説明通りなら、それはつまり――
――まるで魔法か何かじゃないか!
「そんな便利で都合の良いものがあってたまるか……」
こぼすように呟く少年。彼はうーん、と一つ唸ると、天井を見上げて腕を組んだ。少年が思考を練るときの、いつもの癖だ。
――ここまで実用的で、大きな影響を及ぼす非科学的な技術体系……そんなもの、あったら俺が知らないはずがない。
あまりに常識と異なる現象との遭遇に、少年は認識を改める。
「……もしかしてこれ、タイムスリップじゃないのか?」
少年の知らない歴史、少年の知らない謎の技術。そして少年は、これらを矛盾なく説明する一つの仮説に至った。
――もしかして、ここは平安時代にそっくりなだけの異世界……?
「いや、待てよ」
結論を下しそうになった少年の頭に、ふと浮かんだ忌々しい顔。
「満仲はいたな……」
――そもそもここ平安京だし。
部分的には少年の知識通り。つまり、この世界は完全な異世界ではなく、現実世界の
「平行世界……か?」
少年は状況を分析し、一つの結論を導き出した。ただ、納得よりも困惑が大きい。「なぜ?」を考え出すと無限に疑問が湧き出てくる。
しかし、いまだに止まない頭痛と倦怠感が彼の思考を阻んだ。
「まあ、あの子たちが無事なら今はそれでいっか……」
少年は適当なところで思考を打ち切ると、頭を手で押さえて、気だるそうに壁にもたれ掛かる。
本当は今すぐにでも部屋に戻って二度寝を決め込みたい気分だったが、目の前に大物が立っている中でそんなことは言い出せなかった。
その師忠はというと、ぼんやり庭を眺めている。
しばしの沈黙。少年が少しばかり気まずさを感じ始めたその時、師忠はふいに少年へと視線を向けた。
「そういえば神子様」
「はい?」
「まだ、貴方のお名前をお聞きしていませんでしたね」
「え……ああ、確かに」
そこで初めて、少年はまだ自分が名乗っていないことに気付いた。特に隠す理由もないし、何より師忠は自分の恩人。彼はいつものように堂々と名乗ろうとする。
「俺の名前は…………」
だが、そこまで言って、少年は言葉に詰まった。疲れで頭が回っていないのか、その次が出てこない。彼は首を傾げると一つ息を吸う。そして再び言葉を繋ごうとしたが――
――あれ……?
彼は、突如猛烈な違和感を抱く。疲れや頭痛などではない。頭は思いのほか冴えている。でも、出てこない。出てくるはずのものが出てこない。まるで鍵でもかけられたみたいに、記憶の引き出しは開きそうにないのだ。その事実が、少年の混乱を加速させる。
――え? は? そんなことって……
満仲との対峙、その中で感じた命の危機も、彼が感じた恐怖の中では一、二を争うものであった。
だが、それとは根本的に質が異なる。胸の奥がぞわっとするような不快感、嫌悪感、忌避感といったものの複合体。そんな未体験の根源的な恐怖に、少年は唖然とした。
――名前が、思い出せない……?
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