期待しない男と、期待したくない女

もりあん

第1話 何も言えない女

「……そっか、分かった」  

 言われたことにそう同意を示すと、向かいに座った男は大きく溜息を吐いた。賛同したのに何故溜息を吐かれたんだろう。何も言わずに待っていると、初めて聞くような震えた声で、彼はこう言った。

「……それだけ?」 

 無音の部屋にその言葉がぽつりと浮く。それだけと言われても、それ以外に何を言えと言うのだろうか。

「それだけって……、だって別れたいんでしょ?」

「そうじゃなくてっ! 俺が言いたいのはっ……!」

「言いたいのは?」 

 彼が感情を露にするのは珍しい。付き合って二年になるけど、これが二回目だ。あの時も何で怒ってるのか分からないままで、とにかく私は冷静でいようとしていた。暫くして落ち着いたから、今回もその選択で大丈夫だろう。そうして、感情的にならないように聞き返すと、彼はより一層深く息を吐いた。そのまま黙り込んで、下を向く。

「……樹?」 

 反応がないままなのは流石に怖くて、声を掛ける。それでも動かない彼にどうしようかと迷っていたら、帰るわ、と小さく吐いて立ち上がった。 


 彼は後ろに置いてあった自分の荷物を取ると、玄関へと歩いていく。その後ろ姿を見て、漸く私は彼に別れを告げられたことを自覚した。 


 見慣れた彼の私服は、私が好きだと言ったシャツ。そういえば、よく着てくれていた。袖を捲ったスタイルが好きで、勝手に袖を捲っていたのを、何も言わずにそのままにしてくれて、そのうちに私がしなくてもするようになっていた。今年の夏は焼きたくないと、私の日焼け止めをよく塗っていた腕は白くて、今年は私の方が焼けたとついこの間笑って話したっけ。細身の割にしっかりとある肩幅が好きで、隣に居ればよく首を預けていた。普段あまり近付いてこないのにと、そういう時はいつも回した手で頭を撫でてくれていた。そんな彼との出来事が、走馬灯のように頭を巡る。 


 そうして彼が靴を履き終えたとき、彼は振り返ってこう言った。


「お前さ……、本当に俺のこと、好きだった?」


 それだけ言って、私の答えを待たずに玄関を開けて出て行った。

 がちゃりと重たい扉が閉じて、まるで外の空気から全て遮断されたかのように部屋の空気も重くなる。 



 あ、そうか。終わったんだ。


 待ってとも、嫌だとも、何も動かなかった私の唇に、生温くてしょっぱい滴が、すっと入り込んだ。










 あれから三か月。あっという間だった。仕事中なのにそんなことを思い出したのは、今月からの部署移動で私の向かいで仕事を黙々とこなす、この男のせいだ。

「南条さん、来週の〇×会社とのプレゼンで使う資料、確認して貰えますか?」

「……分かりました」

 机越しに渡せるものを、ちゃんと立って渡しに来た男から資料を受け取ると、彼は軽く会釈して自分の席へと戻った。軽い会釈をするときに口元を引き締めるのは相変わらずか。同期しかも、元カノ相手に礼節なんて気にしなくていいのに。社歴は同じだけど、この部署では私の方が先輩だからと言って、この男はことあるごとに後輩ぶっている。いや、仕事への姿勢としては間違ってないんだけど。正直言って、元カレと同じ部署はやり辛い。だけどそんな居心地の悪さを感じているのは、私だけのようだ。彼の態度はいつもと同じ。そもそも、別れてからも会社での態度は全く変わらなかった。もともと周りに付き合っていることは言ってなかったし、会社ではお互い節度を持って接していたから、傍目から見れば別れたようには見えなかっただろう。そんな関係性を知らない同僚や上司は、私と彼が同期だからお互いやりやすいだろうという理由で、彼の指導係を私に任命した。正直断りたかったけど、彼が何も気にしてないようによろしくって笑うものだから、私は何も言えなかった。まぁ、ここは職場だ。彼の態度が正しい。そう思って、割り切って毎日出社してはいるものの、正直居づらい。仕事は嫌いではないから、職場で胃痛とか感じたことなかったけど、今月に入ってからは定期的に胃痛薬を飲む為体。デスクの引き出しにしまい、常備薬となってしまった。


 このプレゼン資料確認したら、小休憩がてら飲んでおこう。そうして、彼が作った資料に目を通す。営業部エースだっただけあって、この企画開発部でもそのスキルは活かされ、今回の資料もほぼ問題ない。

「鷹西さん、ちょっといいですか?」

 今度は私が彼、鷹西樹の席へと出向く。鷹西さんは手を止めて立ち上がると、私が手にした資料を覗き込んだ。ヒールを履いた私より10cmも背が高い彼の視線に合うように、資料を私の鼻下辺りの位置に持っていく。すると鷹西さんは、資料の片側を持って、そのまま私の胸元まで下げた。思わず見上げると、視線がバチっと合う。気まずいと思ったのは一瞬。鷹西さんは首を少しだけ傾けて、ちらりと資料を見る。どうやら、続けろと仰せのようだ。


(…………。)


 最初に気を遣ったのはこっちなのに、気にしなくていいからとやんわりと返してくる。こういうところだよな、とか思うのは止めておこう。私は鷹西さんから視線を逸らして、気になった頁の資料を見せた。

「ここなんですけど、〇×社の場合、実例が複数あった方が話が通りやすいんです。これだけでも十分伝わるとは思うんですけど、確実に攻めるならもう二つは差し込んだ方が、固いと思います」

「分かりました。アドバイス、ありがとうございます。流石、南条さん」

「い、いえ。企画に来たばかりなのに、これくらいしか言うことがないなんて、鷹西さんこそ流石ですよ。それじゃ」

 必要以上の会話はいらない。私はすっと資料を返して、その場を離れた。話すくらい何ともない、何ともない。そう思おうとすればするほど、胃が痛んだのだ。 








 そんな気はないが、まるで逃げ込む様に休憩室へと辿り着く。定時まで後一時間。今日は残業なさそうだし、明日は休みだし。ここを乗り切ればゆっくり休める。そうして、ウォーターサーバーの前まで着いて思い出した。

「……薬忘れた」

 席から立ち上がる時、薬も持ったつもりだったが。どうやら私の頭は、鷹西さんに資料を渡すことで頭がいっぱいだったらしい。本当に情けない。自分で思ったより引き摺っている事実が、重くのしかかる。これは本格的に気合を入れないとまずそうだ。

 仕方ない、もう薬は諦めてあと一時間耐えよう。よしっと息を吐いて、デスクに戻ろうとしたときだった。


「飲むか?」

「…………!?」


 突如目の前に現れた、私の常備薬と同じ外箱。驚いて視線を流すと、箱をぶら下げているのは私の上司だった。

「北原、さん」

「飲みたかったんだろ?」

 そうして、目の前でぷらんぷらんと箱を揺らす。二重の意味で驚きだ。

「ど、どうして分かったんですか? というかそれ、もしかして――」

「俺の、だ。お前のじゃねぇよ」

 疑いの言葉を言い終える前に、北原さんは遮った。そして、はいと私の手に薬を乗せると、紙コップを取りウォーターサーバーで水を注いだ。そして、近くの机にそれを置くとよっこらせと親父臭く腰掛けた。

「それ」

「……はい?」

「それ、俺も飲んでるの。中間管理職だから、手放せねぇんだ」

 北原さんは既に自分の薬を出していたようで、一錠を口に含むとガッと飲み干した。

「飲まねぇの?」

 ぼうっとしたままの私に北原さんは不満そうにに問い掛ける。折角上司がくれてやったのに、とでも言いたげだ。今日は飲むのを諦めようと思っていたから、有難いお申し出ではあるのだが。何故この上司は私が薬を欲していると分かったのだ。そのことが気になって、どうにもその場から動けない。眉間に皺を寄せて北原さんをじっと見る。

「……すごい目。俺、上司だよ、一応」

「……最近の上司は、部下の薬まで把握してるんですか」

 別に北原さんという上司が嫌いなわけではないが、話題にしたこともないのに常備薬を把握されているのは、ちょっと嫌だ。そんな気持ちから、更に眉間に皺を寄せると、北原さんは立ち上がってこっちに向かって歩き出した。

「普段元気な部下が、今月に入って顔を顰めては席を立つことがまぁ多い多い。それに、あることが起きると、決まって引き出しから薬を取り出してどっかに行ってるのを何度も見てりゃ、隣に座ってる上司としては心配でしょうよ」

「………あ」

「変な誤解は解けたかなー、南条くん」

 北原さんの言うことは真っ当だった。確かに北原さんは位置的には隣の席で、部下の動きをよく見ていることでも慕われている人だ。そんな人が私の行動から今言われたことを見抜くのは、なんてことないだろう。変な誤解をしそうになって、私は思わず頭を下げた。

「す、すみません」

 返答内容によっては、気持ち悪いと言い出しかねなかっただけに、余計に自分の誤解が恥ずかしかった。ただ北原さんは、上司として心配してくれただけだというのに。

「いいよ、別に。俺も薬飲みたかったし。ついでだ、ついで」

 そう言って北原さんは笑うと、私の横を抜けて休憩室から出て行く。とりあえず、折角いただいた薬を飲もうかと、私も水を取りに行った。そのとき、ふと気づいた。


 待て、待て待て。


 今月の私の様子から、薬を定期的に飲んでいることを推察できたまでは納得した。だが、何故今、薬を飲みたくてここに来たと、北原さんは分かったのだろうか。そう疑問に思い、思わず北原さんを呼び止めた。

「北原さん!」

 既に休憩室から出ていた北原さんは、ん、と顔だけ出した。

「私、席を外しただけです。なのに、なんで薬を飲みたかったって分かったんですか?」

 別に変に疑うわけではないが、単純に疑問なのだ。席を立つたびに薬を飲んでいたわけではない。なのに、何故今飲みたいと分かったのか。すると北原さんは、あぁと言って、また休憩室に入って来た。そこで答えてくれるのかと思いきや、すたすたと近付いてくる。と、思ったより近い距離まで詰められた。思わず後退るが、北原さんの動きの方が早かった。

「言ったでしょ。”あることが起きると、決まって引き出しから薬を取り出してる”ってさ」 

 いつもより抑えた声色に、思わずびくっと肩が揺れる。でもそれはきっと、声だけのせいじゃない。意味ありげに言われた言葉のせいだ。何となく嫌な予感がするが、私の口は勝手に開いた。

「……あることっ、て」

 北原さんは上からじっと私を見る。


「鷹西と、話した後」

「………!」


 気付かれていた。何も悪いことをしていたわけではないが、誰にも指摘されたことがなかった鷹西さんとの関係を知られ、思わず顔が引き攣り、さっと北原さんから目を逸らした。

「……悪い、別に詮索するつもりはねぇよ。ただ、さっきも言ったが、いつもは元気なお前が今月に入ってこの調子なんでな。上司として、心配なのは本当だ」

 頭上に感じていた北原さんの影が離れるのを感じる。それでも私は、顔を向けられないままだった。北原さんに知られたことが嫌というより、鷹西さんとのことを思い出すと、体が勝手に拒否反応を示す。頭がかぁっとなり、目頭が勝手に熱くなるのだ。

「………話して楽になるなら、俺でよけりゃ聞くけどよ」

 その優しさにも私は何も反応できないまま、顔を背け続けた。心配してくれている人に対して、取る態度じゃないことは分かっている。だけど、心のざわめきが落ち着かなくて、どうにも動けない。誰かに縋ると、何かが溢れ出しそうで。それだけは嫌だった。

「南条」

 その声に、体が震え一歩後退る。北原さんの声は、いつもよりずっと優しいのに。

「落ち着いたら戻ってこい。……急がなくていいから」

 そうして、北原さんの気配が完全に消えるまで時間はかからなかった。



 すみませんも、ありがとうございますも、何も言えず。

 私はただ立っていることしか出来なかった。







 十分後、さすがに仕事中だからと、北原さんから貰った薬をごくりと飲み干し、早足でデスクへと戻る。いくら何でも心を乱され過ぎだ。どこにでもある男女関係の別れについて、こんなに引き摺ってるなどとは、思いもしなかった。いや、そもそも引き摺っているということ自体認めたくない。さっきのは鷹西さんと話した後で、気が荒ぶっていたところに、北原さんからの不意打ちだった。だから、取り乱したんだ。そうだ、そうに違いない。

 違いない!


「北原さん、お返しします」

 その後、四十分ほど残っていた就業時間を物凄い集中力で乗り切った私は、定時になった途端に帰り支度を始め、つい返しそびれた北原さんの胃痛薬を北原さんにお返しした。箱の上に、私の分の一錠を乗せて。

 それを見た北原さんは、くすりと笑った。

「別にいいのに」

 箱と一錠を受け取った北原さんは、それを鞄にしまう。どうやら本当の意味で常備しているようだ。この人も大変なんだなぁ、普段そんな素振り見せないのに。そんなことを思いながら、私は深く頭を下げた。

「さっきはすみませんでした。あと、……ありがとうございます」

 数秒ほど頭を下げた後、私は北原さんの反応を待たずにその場を去る。


 謝罪はした。御礼も言った。今日の一件は、これでチャラだ。

 今日は飲む。ひたすら飲む!








「北原さん、南条さんと何かあったんですか?」

 今日は北原も定時帰りだと、さっさと言うことだけ言って帰った部下に見習い帰り支度をしていると、左前に座っていた鷹西に声を掛けられた。

「何かって?」

「南条さんがああいうことするの、珍しいなと思って」

 ああいうこと、鷹西が言うそれは、南条が北原に頭を下げたことだろう。

「あぁ、確かに。あいつミスしねぇから、頭下げるとこなんて珍しいな」

「はい。だから、何かあったのかと」


 鷹西は愛想がいい。人当たりもいい。物腰だって柔らかい方だ。

 そんな鷹西が、だ。


 ほう、こういう顔をするのかと、北原は鷹西の表情をまじまじと見る。

 部下同士の付き合いに口出すつもりもなければ、仕事に支障をきたさないなら興味もない。変に警戒されても面倒だ。


「顔色が悪かったから、“上司”として、心配しただけだ。“何も”ねぇよ」


 北原がそう強調して返しても、鷹西は表情を変えない。参ったなと思いつつ、つい、ついだ。それはきっと、年下の可愛い部下をからかいたかっただけ。


「お前も、心配か。“同期”として」



 何も言わずにさらりと済まそうと思ったのに。

 思わず余計なことを口走った自分に、男は自宅に帰ってから頭を抱えた。 


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期待しない男と、期待したくない女 もりあん @moriannotaki

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