第8話 妖言
その者たちに出会ったのは、次の日だった。
ひとりでの行動は不用心だとわかっていても、ひとりにならずにいられない。
三条大橋に立ち、新右衛門は呆然と視線を落とす。飢えた流民のひしめく鴨河原へ向けて。一文で買った立ち飲みの茶は、飲まれぬまま手の中で冷めていく。
押し切られるようにして、こがねと契った。
そのうえ笑顔を、見てしまった。
甘やかなあの笑みに嫌悪は感じなかった――いまのところは。
――こがねのそばにいることが、我慢できぬようになるのだろうか。すぐにでなくとも、じわじわと。ずっとそうだった、女の笑顔を一度見たら……
茶の碗を、かれは知らず強くにぎりしめている。
眉を寄せて物思いに沈んでいたかれに、とつぜん横からかけられた声があった。
「薬屋……いや、小坂部どの」
はっと目を向ける。
「探しておったのですよ。丁度よかった」
歯を見せて薄く笑みかけてくるのは、
――播磨びと。
昨日会った男だ。薬問屋に『播磨の人で、あんたの家のことを知っとる者がいましてな』と引き合わされた。新右衛門の父とは、広いくくりでは同じ十日家に仕えていた仲間となる。長く話したわけではないが、その男から新右衛門は元いいなずけのことなどを聞かされたのだった。
その若侍はあごをしゃくり、新右衛門についてくるよう促した。
「是非にも話がしたいと御年寄(重臣)の井口さまがこなたを召しておりまする。疾く参り
言葉こそ丁寧ではあるが面には傲慢さがにじみ出た、有無を言わせぬ態度であった。
案内された寺院の
うち三人までが武家である。新右衛門を呼びに来た若侍以外は、折り目正しい
「ほう。それが小坂部のせがれか」
上座に座っていた壮年の男が、あごひげを掻き、新右衛門をじろじろ見つめながらつぶやいた。おそらくその男が年寄の井口に違いなかった。
他の者たちの顔もぐるりとめぐってかれにひた当てられる。
――なんだ? いまさら、親父の播磨での上役どもがわしになんの用がある。
かつての主家の要人に対して平伏しながら、新右衛門は疑問を抱く。
井口が空咳をいくつかした。
「おおよその事情はここに来るまでに中村から聞いておると思うが」
中村というのは若侍の名だろう。聞いておらんぞ、と新右衛門は思った。中村が慌てて「いえ、ここに連れてくるのを急ぎましたため……」と言い訳を始める。
井口はいらだちあらわに目を細め、
「では順序立てて話そう。
父親が家中から放逐された経緯は知っておるな」
困惑しつつ新右衛門は答える。
「は。狐狩りの御先手を申し付けられたにも関わらず、それを拒んだと……」
「貴様の父親が正しかった」
井口の嘆息は、深いものだった。
「狐どもに手をだすのではなかった。
狩りを強行しようとした大殿を諌めるべきであったのだ。
いま、十日家の血筋は絶えんとしておる。はじまりはご嫡孫の夏王丸さま及び百王丸さまの姿が御館から消えたことだ。見つかったのは翌朝のこと。おいたわしくも、太刀で口から尻まで貫かれた無残な姿で発見された。場所は、かつて先の殿が仔狐どもを串刺しにして立てた丘だった」
「…………」
「
大殿が狐狩りを強行したとき、手柄の狐は殺し尽くされたかに見えた。だが死骸のなかにそれらしき大狐の姿はなかった。
しょせん迷信よと大殿は笑いすてたが――夏王丸さま百王丸さまのご遺骸の近くには、巨大な狐の足跡が見せつけるように残されていた。
……つぎの犠牲はふた月後であった。お世継ぎの若殿は可愛い盛りのお子を失って悲憤やるかたなく、『長壁なる化け物狐を捕らえて八つ裂きにしてやる』とあらためて手勢を寄せ集め、妖怪狩りの支度をしておったが、その途中でこつぜんと姿が消えた。その夜、ばらばらに食い散らかされた若殿のご遺骸が
だれもが顔色を失った。
子供が拉致されたのではない。大人、それも配下に囲まれておった堂々たる武人が、かくもたやすく館の内側で殺害されたのじゃ。
そしてさらに三月後、大殿が乱心された。若殿が死んでからめっきり様子がおかしくなっておられたが、突如刀を抜き、奥方と一の姫さま、二の姫さまを次々お手にかけ、のみならず制止しようとする近習たちを片端から御手打ちになさった。狐め狐めと喚きながらな。
大殿はまだご存命よ……座敷牢に閉じこめておくしかなくなったが。もはや人の言葉を話しておらぬのじゃ」
――同士討ちをさせるのは、こがねが親の仇を討ったときと同じやり方じゃ。
新右衛門は慄然とする。ただ、直接の仇でない者まで殺させているあたり、はるかに悪質であった。そしておそらく、はるかに力が強い。
「それで終わりではなかった。祟りは終息しておらぬ」
このとき、井口の声が強い恐怖を孕んだ。
「十日の家の跡目を襲ったものことごとく殺された。いま十日家には当主がおらぬ、当主となれば二、三年以内には必ずや殺されるからじゃ。
のみならず大殿に従ってかの狐狩りに参加した者たちも、たびたび惨烈な目に合わされておる。一例をあげれば中田家の者は下人にいたるまでことごとく、刃を口から突っ込まれて死んだ。
その所行をもってかの妖狐、いまでは『串刺し狐』と呼ばれておる。
情けないことと思うなよ、小坂部のせがれ。言っておくがもちろん手をこまねいて見ていたわけではないぞ。
こちらの者を呼ぶなどして、妖狐の調伏には全力を尽くしてきたのだ」
来い、と井口が振り向くと、座敷の奥で不吉な影がうごめいた。
新右衛門はぎょっとする。いまのいままで、その男の存在が意識に入らなかったのに、いざ気づいてみればその者の禍々しさはあまりに印象的であった。
若く白い面は整っていて、うっすら化粧をしているように見えた。
――陰陽師。
「くふふふ――当方、土御門家の狐祓い術を専門としておりまする」
笑みを漏らし、陰陽師は膝行して新右衛門にいざり寄ってきた。
しかし途中でぴたりと止まり、おおげさに袖で顔をおおった。
「おう、やはり――数日前、中村どのが貴方と話したあと、狐の気がまつわりついてきたことが気になっておったのですが。
貴方、雌狐を側においてございますな」
一発で見ぬかれ、新右衛門は目を見開いた。
「狐の専門家と申したでしょう。我の
陰陽師の紅をさした口元に、淫らな笑いがひらめいた。
「ほほほ、なんと貴方、狐と交わったことがおありじゃな」
かっと新右衛門の頬が燃える。かれが口を開いて釈明しようとしたとたん、陰陽師は先手をとった。
「くふ。おおかた、化けた狐に誘われて、奥方として迎えてしまった。そのようなところではありますまいか。古来ままあることでございます」
その通りではある。が、なんとも答えにくい。不機嫌にだまりこくるかれに、陰陽師の声が続けて投げられる。
「貴方は狐と縁の深い家の出とのこと。そのようなあやまちも起きてもおかしくはありませぬ。――あやまち、ではございますが。
さらにひとつたしかめさせていただきます。
あなたのそばにいるその雌狐は、“宝珠”を持っておりませんか。尻尾が分かれるほど齢経た狐が、己の尻尾の一本を使って生み出す珠です」
新右衛門は「そんなものはない」ととぼけるつもりだった。
だが、陰陽師は笑いを消し、瞳の奥をじっと不気味にのぞきこんできた。たじろぎを覚えて新右衛門が口を閉ざすと、
「ある。あるのですね。もうわかりました」
狂喜の色が陰陽師の面にさっと現れた。
とぼけ通すのも難しそうである。新右衛門はついに意を決して、見返した。
「そろそろ教えてもらいたい。わしはなんのために呼ばれたのか聞いておらぬ。
神狐が妖狐に堕ちようと、まことに気の毒じゃが、わしにはどうすることもできませぬぞ」
「いいえ――いいえ」
できるのですよ、とささやき声。
「……貴方をここに呼んだのは、串刺し狐なる妖狐を滅ぼす相談のためでございます。
われら播磨の陰陽師の座が、十日家の御家来衆のみなさまに招請を受けてより一年になります。
われらはあの妖狐を滅ぼさんと術のかぎりを尽くしてまいりました。先だってはついに傷を追わせ、力の一部を封じることが叶いました。
しかし、どうにも決め手に欠ける。
あの妖狐を滅ぼすためにはもっと強い力を借りねばなりません。呪具、宝具、そのような武器が要るのです」
「われらはもともとそのようなものを借り受けられないかと京に来ていたのだ」
横から口を出した井口にうなずき、陰陽師は新右衛門に向けた目を底光りさせた。
「しかし、持ち出せるものはどれもこれも偽物ばかり。虚仮威し以上のものではない。
ところが――見つけましたよ」
陰陽師の唇が歪み、開き、女陰の色をした赤い舌が淫らに言葉をつむぐ。
「狐珠。力の塊です。あなたのそばにいる雌狐が持っているそれを取ってきてください」
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