第7話 笑顔
さらに五年が過ぎた。
夕の京、三条の通り。
宿として金で借りた
――京はやはりろくなことのない土地じゃ。
酔眼を暗く据えたかれの装束は、すでに五年前の乞食山伏のものではない。小袖も袴も
五年前にはじめた薬商いが、異常なほどにうまくいっている。
あまりにも何もかもが変わりすぎて、商いに忙殺されていないときは新右衛門はずっと狐につままれたような気分である。
当初はあまりにもささやかな商いだった。薬草を基とした複数の原料をもとに薬を作り、それを近隣の村人や行商の者に売る程度のものだ。
それが三月もたたぬうちに、近江じゅうの病人・怪我人の出た家から、使いの者がわざわざ新右衛門のいる村まで来るようになった。遠方から来た理由を問いただすと大半は「こちらの薬でなければならぬと本人やその家族が突然言いだした。そう思ったわけはよく憶えていないそうだが」と答える。まれに「こちらの薬が効くと夢に狐が出て告げたらしい」と聞けることもあった。
そして実際、その症状ならこれ、と決まった薬が新右衛門の手元にあって、与えれば病人はたいてい快方に向かうのである。「薬で治る病人」が選別されて送りこまれていると新右衛門は感じることがあった。
薬に救われた者たちのなかには京の大商人の縁者や、金貸しもいとなむ
そのつてで近江の
現在はもっとも売れる薬に生産を絞っている。“狐の軟膏”と名付けて売りだした
問屋からはもっと作れと矢のように催促される。こがねとふたりきりではまるで生産が追いつかず、村のなかから人を雇った。村民が薬草を集め、加工作業をこなすのである。いまでは村ぐるみ新右衛門に雇われたに近い形となり、畑での薬草栽培の試みも始まっていた。
つまり順風満帆であった、手元の商いのことだけを言えば。
「なにを見ておる」
周りに毒づく。往来の注目が集まっていた。酔っ払った
酩酊しながらも新右衛門はふところに差した小刀をそっと撫でる。
――こがねの通力があればじゅうぶんと、護衛を雇わず京に来たのはまちがいであったな。新しく雇い入れた奉公人か、村の若人でも伴えばよかった。
――いや、村のやつらなどこれ以上雇ってたまるか。
富の分け前にあずかる村人の大半は、新右衛門に笑みを向けて下にもおかぬ扱いをする。
しかし、
狐を憑けて成り上がったよそ者、と陰でささやく村人もいる。
まったくその通りなのだが、業腹は業腹だった。妙なことに、人を使えるほどの身分になったとたん、人の目がひどく気になりだしている。
不具の足を、みっともないと笑われているような気がする。
下人として売られ逃げ出した過去も、そのあと乞食山伏として諸国を廻っていたことも、人には決して知られたくない恥部となっていた。
食べるにも事欠いたあのころに比べればはるかに幸せになったはずなのに、惨めさを当時より強く感じるときがあるのだ。
劣等感を忘れるために仕事に打ちこんだ。もっと上へ行き、のぼりつめたときこそ人に侮られておらぬと確信できるはずである。
だがこの日、かれはつまずいた。
先刻の話を思い出して罵る。
「くそったれめ、了見の狭い京商人が。なにが『あんたは本格的な商売に向いていない』だ。よそから入ってくる商人を締めだしたいだけのくせに、口上を並べ立ておって」
その話をすることが今回京に出てきた目的だった。
京の駕輿丁座なり近江
ところがその相手である薬問屋の主は、顔をしかめた。
『あんた、どうしてそこまで性急になさる』
『どうしてといって……商いの手を広げて上を目指すことは珍しくありますまい。わしの商いなど、座の大商人方が右から左に動かす銭に比べれば木っ端のような規模です』
いくら新右衛門が粘っても、薬問屋の主は冷ややかだった。
『商人のそれとはなにか違うのですよ、あんたのやりようは。それより播磨国の出だそうですな、あんたの家を知っているという人がいましてね――』そうして、すげなく話を変えられた。そのあと引き合わされた者との話も不愉快であった。
「……この先、どうしたものであろう……」
銭をいくら積んでも、座衆に加わることはできそうにない。ぎりと奥歯を鳴らす。
――我慢ならぬ。こちらは世の中を見返すために生きてきたのじゃ、ちょいと儲けた薬商人程度で終われるか。
酔った頭で考えごとをしながら辻を回ったとたん、叱声を浴びた。
「あんちゃ、遅いよ。……ちょっと、酔ってるの」
そこいらで買ったらしき風車を持ち、市女笠をかぶった女が待っていた。こがねである。
「酔っておるわ。それがなんだ。酒を飲んでおったら遅くなるし、酔うに決まっておる」
気が立った物言いにかまうことなく、こがねは新右衛門のかたわらに立つ。女の甘やかな香がかれの鼻をくすぐった。
「あんちゃはほんとにどうしようもない人。帰るよ」
呆れ声のこがねに肩を支えられ、新右衛門は口中でぶつぶつ言いながら歩む。彼女とこうも密着するのはあまりにも久々であり、ややばつが悪かった。
こがねは、今日までずっとかれの商いを支え続けていた。原料を集め、白辰狐から伝えられたという調薬法をかれに残らず教え、宣伝して売って廻り……少し商いが大きくなると読み書きや算術までいっしょうけんめいに覚え、帳簿からなにからを取り仕切った。新右衛門が
先ほどより周囲の視線が集まっている。
――はっ、見てくれはおそろしくいい女じゃからな。
しなやかな肢体を梅柄の小袖がつつみ、くびれた胴には紺の帯。胸元や腰部は張りつめて熟れた曲線を浮き上がらせている。かつてのこがねは美貌とはいえ少年のように身が薄く、肩や曲げたひじひざが尖って見えるほどに骨ばっていたが、いま歳月はその体に成熟した女の柔らかさを与えていた。
……彼女をつとめて女とは見ないようにしている新右衛門ですら、そばにいるとしばしば血迷いそうになることがある。実際、『おまえが狐でさえなければ手を出しておったかもな』とうっかりきわどい発言をしたこともある。それは愚かな一言で、かれが好意に応えてくれるのを待っている娘に言うべきではなかった。こがねは悲しそうに唇を震わせ、ひと月かれと商い以外で口を利かなかった。
もはやまったく表情に乏しい女ではない。笑顔こそいまだに見せないが喜ぶときは動作の端々まで軽やかになるのではっきりわかる。怒り、傷つき、照れ、拗ね、嫉妬し、恋心を率直にぶつけてくる。新右衛門がそれに気づかないふりをするほどに彼女は
「あんちゃ、歩きながら寝てないで起きなよ。宿着いたよ」
「ん、ああ、うん……」
「
「水だけでよい……」
何年も情
――……見てくれのみならず公平にみて中身もいい女じゃが、狐じゃ。これは狐。
が、かれは最近あきらめかけている。ゆるゆると押し流されるように、いつか自分の心も彼女の待つ甘やかなところに行き着いてしまう予感があった。
あるいは半ばすでにその気になっていたのかもしれない。
座敷にすわらされた直後、水を汲みにいこうとしたこがねの腕をつかんだのは、ある告白のためだった。
「こがね。わしは故郷の播州(播磨に同じ)にいいなずけがおった」
こがねの身が一気にこわばるのが伝わってきた。
「十にもならぬ子供のころの話じゃ。親同士が決めていた……その女は、とうに嫁に行っておる。さっき同郷の者にひきあわされ、その話を聞かされたところよ」
あまり会ったこともなく、顔もろくに覚えていない娘だった。存在ごと忘れていた。
にもかかわらず新右衛門は傷ついていた。これで最後の一片まで故郷を失ったのだと、ふいにそう感じたのである。
「いまいましい故郷には、わしの家とつながりを残した者はもう誰もおらぬわ」
「……あんちゃ」
こがねが後ろ手に障子を閉めて、ふいにかれの肩を押す――するりと双の腕を首にからめ、身を預けてきた。「うわ」抱きとめる形になって新右衛門は後ろにひっくり返った。胸板のうえで豊満な肉感が弾んだ。
「つながりなら、あたしがいるのに。
あんちゃの女房。あたしじゃだめなの」
声はささやくようだったが、焦れきった末の決意を帯びていた。彼女がかつてなく踏みこんできたことを新右衛門は悟った。
「ま、待て」
「狐だからだめなの?」
「そういうことでは……いや、そういうことだが」
「あたし、もうずっと人の姿のままだよ。人の女となにも変わんないよ」
上体を起こしてこがねはかれの腹に座りこんだ。
座敷じゅうが障子戸を透かす西日に照らされている。桜色にぽうと上気したこがねの肌がさらに妖しく染まっていた。
声、色、影、香気――すべてが溶け混じり、とろけるような狐媚を演出している。
「
彼女は震える指で自分の帯をほどきはじめた。衣ずれの音がしゅるしゅると、情を
翌朝、新右衛門は寝具の上で頭を抱えている。
「……ついにやってしまった」
かれの懊悩をよそに、炉端からはこがねの鼻歌が聞こえてくる。飯を炊き、汁を作っているのだった。
「もう少しでできるから待っててね」
こがねが振り向いて声をかけてくる。新右衛門はげっそりと顔を上げ、
――あ。
彼女が恥ずかしげに笑っているのを、見た。
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