第9話 裏切り
「狐珠を貸してくれぬか」
向い合ってこがねに新右衛門は切り出した。宿に戻り、話があると告げた直後である。
唐突な要求に目を丸くする彼女と目を合わせず、宿坊の床を見つめながら語る。
故郷の人々と語らったこと。
播磨では、凶神となったかつての神狐が「串刺し狐」と呼ばれて荒れ狂っていること。
串刺し狐を調伏するために、狐珠がいると懇請されていること。
「故郷などくそくらえと思っておった。しかしの、そうはいっても元の主家が助けを求めてきておるのじゃ。それに祟りをふりまいておるのはわしの家がかつて祀っていた神狐じゃ。わしに関係ないとも言いづらい」
「……危険だよ。白辰狐のおじい並みの古狐が堕ちたのなら、ひどいことになってるはずだよ」
不安そうに言い、こがねはもぞもぞと座りなおした。
「いくらその狐が怪我して力が弱まってるったって……あたしがずっとそばで守っても、絶対だいじょうぶかわかんない」
ずっとそばに。
その言葉に、新右衛門は暗いまなざしを一瞬上げ、「い……いや」首を振った。
「狐珠の力を貸せといっても、おまえを伴うつもりはないのじゃ。
狐珠だけわしに渡してくれればよい」
要求すると、こがねの面に戸惑いが広がった。
「え……どういうこと」
「珠はすぐに返してやるとも。おまえは先に近江に帰っておれ、播磨に行ったあと戻ってくるから」
一言ごとに、自分というものが内側から腐っていくように感じる。
「こがね、おまえは来ないほうがよい、狐を調伏するための陰陽師が集まっている。
人を祟ったことのある狐が行くのはまずかろう?」
こがねの過去にまで触れたとき、“おい、なにを言っているのだ”と責める声がかれの内側でした。だがそれは表には出ず、泡のように弾けて消えた。
こがねはその話が出たときから、苦しげに眉をぎゅっと下げて顔を伏せている。
それからおずおずと、
「でも、狐珠がないとあたしまだ、人に化けたまんまでいられない……あんちゃの子が宿せないよ」
ひとでなし、とまた新右衛門の奥からなじる声がした。
――人でないのはこやつじゃ。これは狐じゃ。
――あの陰陽師の言うとおりじゃ。狐を娶っただなどと、人から見下げられるではないか。
黒い毒がしみを広げるように、耳にこだまする声があった。
『狐珠が欲しい。あれは術者の力を高めるものです。狐珠さえあれば私は播磨に帰ったのち、仲間とともに串刺し狐めを屠ってごらんにいれましょう』
『小坂部どの、その宝の在り処を知っておられるのでしょう? お願い申し上げます、どうかそれを
『ただでとは申しませぬ。貴方が十日家のもとに戻れるようはからってあげましょう。それも、かつて小坂部家が与えられていた御狩先手がごとき小さな役職ではありませぬ』
『あなたを、かつての主筋・十日家の婿にしてあげましょう。どうです? ふふふ――あなたは本当に幸運な御方だ。血筋よき
陰陽師が語るに曰く――
十日家の跡取りは悪狐に食い殺されている。そののち跡目を相続した者たちも十数年のうちにつぎつぎ怪死し、いまでは遠縁の娘ひとりだけが残ったという。だがその娘が新たな婿をもらうたび、その者もやはり殺されるのだ。誰かに家を継がせねばならないというのに、だれも婿のなり手がいない。
『狐珠と引き換えに、かの姫君が貴方に与えられるようはからいましょう。なした子のひとりめに十日家を継がせ、ふたりめの子には再興した小坂部家を継がせればよろしい』
『そのようなことがなしうるのかと? 貴方は心配ご無用。狐を抑える私の言うことに、いまでは家中の皆が重きを置いてくれるのですよ。そうでしょう、井口様?』
井口がゆっくりと首肯するのを新右衛門は見た。加えて、その篤実そうな年寄は述べた。
『そやつの言うとおりじゃ……これで串刺し狐の調伏かなえば、おぬしが姫君の婿となれるようわしからも計らおう』
そのときの新右衛門は自分が溺れているような気がしていた。
ひどく息苦しく、空気がうまく吸えなかった。それでもかろうじて抗弁したのである。
――しかし、狐珠は我が物ではござらず……あれは……そうじゃ、それに姫君など娶れぬ。それがしはすでに。
『奥方がいますと? 狐の奥方への遠慮ですか、狐への』
陰陽師がぱちぱちと扇子を鳴らし、あざけるように目を細めた。
『狐珠は奥方のものだと申されますが――ねえ』
毒なのか蜜なのかわからない、ねっとりと耳に流れ込んでくる声。
『ねえ、このさい、珠を取り上げて離縁しておしまいなさい。いいえ離縁もなにもない、人の貴方が畜生を娶ることなどありえましょうか。単に、長く取り憑いていた狐を追い払うだけと思し召せ。なにはばかることなく貴方は十日家の婿となるべきです。もし珠を奪われた雌狐が復讐に来たところで、自分では化けられもせぬ若い狐ごときわれらが軽々追い払って進ぜましょう』
――それは。
――それは……だめだ。
あえいだ新右衛門に、陰陽師はさも驚きとばかりに白い面を歪ませてみせる。
『ほお、なぜ? なぜだめなのです? 相手は狐ですよ。どうやら深くたぶらかされておるようで……おかしや、あははは』
『おお、これは礼を失しました。ですがあなたがたは周りにこう見られるということですよ。人と狐……私はもう嗤いませんが、貴賎を問わず世の人はあちこちで嗤いましょうなあ』
『貴方は故郷で、人にかしずかれ敬われる身分になりたくはないのですか。それとも狐の嫁御に頼って財をなした商人よと、いついつまでも見下げられるほうが好みですか』
台詞が頭蓋にこだまするほどに、頭にもやがかかっていく。
あぶくのように脳裏に浮き上がるのは、酒に朽ちていく父の姿。飢えやつれて死んでいった弟。のこぎりをかれの足に当てながら卑しく歯を剥く主人。
舌でもぺろりと出しそうな、母の笑み。
――世と人を見返すために、生きてきた。
「珠を渡してくれ、こがね。必ず近江に戻って返すから、な。
わかってくれ、人助けじゃ。やはりなんのかんのといっても故郷よ、そこに住まう人々が殺されていくのを見るに忍びぬ。
十日家の人々は親父が正しかったことを認め、悔いておるという。わしは播磨に行きたい、連中が詫びることがあるならそれを聞きたい。親父の名誉を回復できるのじゃ。
こがね、おまえはかつて仇討ちとはいえ人を殺した狐ではないか。その殺生の罪障をすすぐことにもなるぞ。そうだ、それでなくばわしはこの先おまえが怖くなるやもしれぬのだ。そういうことにならぬためにも、貸してくれ」
舌が勝手に回っている気がする。自分がこの日まで思い浮かべもしなかった言葉がつぎつぎ口をつく。
こがねは深沈として何も言わずうつむいていた。
ひざを詰めてどれだけ口説いたことだろう。新右衛門が言葉をいったん切ったとき、彼女は小声で言った。
「あんちゃがどうしても播磨に行きたいのなら」
「む……ああ。行きたいのじゃ」
「そうしたらあんちゃは、幸せになるの?」
焦りすぎてなにか気づかれたかとひやりとしながらも、新右衛門は(かまうことか)と開きなおって首肯する。
もうひと押しだという気がしていた。
「な……なるとも」
こがねはまた悄然と黙った。肩を落としてうつろなまなざしを床に向け、長い長い沈黙ののちに言った。
「……あたし、あんちゃが幸せになるのを助けるって言ったものね」
狐珠を入れた鹿の子絞りの巾着袋を、彼女はふところから出す。
――やった。
新右衛門は内心でつぶやく。やっと達成したという想いだけで、浮き立つものは覚えない。
「じゃあ……あたしは近江に帰ってるから」
「そ、そうか……今日行くのか?」
「うん。すぐ行く。人の姿を保てなくなる前に関を抜けなきゃ」
かれに狐珠を手渡したこがねは、立ち上がって旅支度を始めた。
見る間にその支度は終わる。ほとんど荷物を持たなかったところからして、途中で狐の姿に戻ることを織り込んでいるのかもしれなかった。
小さな包み布に荷物をまとめ、こがねは縁に出た。
「じゃあ、ね」
そう言ったとき、包みからはみ出ていたものがぽろりと落ちた。
子供の玩具――風車。
先日こがねが京の市中で見つけ、懐かしいと言って買ってきたものである。
あわてて拾い上げたところで動きを止め、こがねは視線をそれに当てていた。
「あんちゃ、覚えてる?」
彼女は、そっと訊いてきた。
「人の姿のあたしに初めて会ったとき、こういう玩具をくれたことを」
「……忘れてはおらぬが……」
「父御も母御も兄弟たちもいなくなって、独りぽっちの巣穴で寝起きしていたときに……あんちゃがくれた風車が、がらんどうの巣穴に音を戻してくれた」
「……あれはその安物の風車にも及ばぬわ、ひどい音だった」
「ううん。救いの音だった」
こがねは、首を振った。
「前にも言ったよ。あの音で、ちょっとだけ家族が帰ってきたみたいに思えたんだ。
西の浄土に響くという、宝林宝樹の枝鳴りか、
顔をあげて、こがねは新右衛門の前で二度目の微笑を見せた。
哀しく、ひどく寂しげに。
胸の真中を貫かれたかのように感じ、新右衛門は知らずうめいて表情をこわばらせた。男がとっさに視線をそらしたのを見てとって、こがねは唇を引き結んで自分もまなざしを伏せた。
「……こがね」
こがねが固まり、すべての動きがぴたりと止まった。
だが新右衛門はそれきり言葉を続けられなかった。自分でもなぜ呼び止めたのかわからなかったのである。さんざん迷ったあげく口をついたのは、
「……道中、気をつけて行け」
だった。
こがねはいきなり顔を覆って泣き出した。懸命にこらえていたものが堰を切ったかのように。絶望のむせびを響かせながら、よろめいて庭へ飛び出していった。傘も、荷物もその場に残して。
新右衛門はのろい動作で庭に下り、彼女が放り出していった荷物を拾い上げる。
どういうわけか全身に力が入らなかった。
――あれは、やはり勘づいておったのだな。
捨てられようとしていることに。
――心配いらぬわ。あの村なら、こがねが狐に戻ろうとも人々には神使として大事にされよう。
化ける素養のある狐の寿命は長いという。狐珠なくとも五十年たてばおのれの力で変身し、自在に若返るようになるとも。
――そのころにはわしは死んでおるじゃろうな。
これで人の姿のあやつは見納めだろうか、と新右衛門は虚無感を抱きながら思い巡らし……
自分が母と同じことをやったのだと、気づいた。
背筋に汗が噴いた。手のひらがわななきはじめる。そのなかに巾着袋ごとすっぽりおさまった狐珠は、こがねの肌のように温かかった。
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