第35話「涙」

 最初のひとさしを舞えば、後はもう自然と身体が順番に動いてくれた。


 神楽舞を踊っていたのは前世の記憶だというのに、不思議だった。身体だって……そう。今はもう、何もかもが違うのに。


 手に持っていないはずの、鈴の音がどこかから聞こえる。神へと祈りを捧げながら舞い、荒ぶる九頭竜を鎮めるために。あくまで優雅に、微笑みを忘れずに。


 前世でのあの時、私は巨大な化け物を鎮めることに失敗した。


 そして、失敗した原因は自分が一番にわかっていた。私の中に絶対に出来るという変な驕りがあったこと。


 それに、あの時に初めて見た九頭竜を相手に、私は心の何処かで恐れていたこと。


 ここに居る暴れん坊の九頭竜は、本当ならば水流を司る水神の一柱になるはずだったあやかしだ。


 何が原因で、水神になれなかったとか……そういう詳しい事情はもちろん私だって知らない。けど、九頭竜にだって、訳もなく凶暴な訳ではない。暴れてしまう原因が、何かがあったのだ。


 ただ闇雲に神の成り損ないの不死者で厄介者だと、疎まれて蔑まれ。だからって、悪いことをして良いって訳ではない。でも、前世の私はそれが、理解出来てはいなかった。


 社会人になった会社で、私は手酷い失敗を食らう経験をした。良くわからない理不尽な目に遭い、ただただ、自分は可哀想で不幸なんだとそのことばかり。


 けれど、結果的に傷つけたあの人と、ちゃんと向かい合って話はしただろうか? 前世の私は、家の中に閉じ込められた無知な子どもで……誰かの辛い気持ちを知ろうなんて、全く考えたこともなかった。


 今こうして踊っている私の舞が、いくつかの九頭竜の赤い目を引いていることはわかっていた。まだまだ九頭竜は荒ぶり、このままでは止まらないだろう。


 その事実が恐ろしいか恐ろしくないかで言われたら、やっぱり私だって怖い。だって、前世の私は、このあやかしに殺されているのだ。


 けど、それを一旦忘れて。暴れる九頭竜の気持ちが、鎮めることだけを考える。


 どうか、一時的にも鎮まりますように。死ねないという永遠の煉獄に囚われる九頭竜の気持ちが、一瞬でも良い。穏やかになれますように。


 時を忘れて一心に舞っていた私は、九頭竜がいつのまにか姿を消していることには気が付かなかった。


「っ聖良!」


 無心に踊っている途中に抱き止められて、私は驚いた。


 そこに居たのは、空を舞い戦っていたはずの那由多だったからだ。着ている服だって、見るも無残な焦げだらけ。何か熱に晒されたのか綺麗な黒い髪が、ちりちりに焦げている部分もあった。


「え……那由多?」


 私は驚いて、目を瞬かせた。彼は頬に、幾筋も涙を流していたから。


「聞いた。聖良が、せりだったんだ……俺は、間違えた? 間違ってない?」


 那由多は前世の私の事実を知り興奮しているようで、主語がない。そして、すぐ傍にまで迫っていた九頭竜の姿はなく、他の天狗たちは戦いの後始末に追われているようだった。


「えっと……何が?」


 とりあえず意味のわからない私が静かにそう聞けば、大きく息を何度も吸って吐いてを繰り返していた那由多が嗚咽交じりに言った。


「せりのこと……絶対に、忘れた訳じゃなかった。けど、聖良のことが好きになったんだ。俺は……間違えた? 聖良は生まれ変わりだけど、せりじゃない。許せない? 嫌だった?」


 私は那由多の言いように、思わず笑ってしまった。もし、私がせりのまんまだったとしても、こう言うだろう。


「那由多。もう、大袈裟だよ。ひとつの恋が終わって、また新しく恋をしても。それは全然、罪なことじゃないんだよ」


 那由多は、目の前で好きな人を喪い五十年間もずっと苦しみ続けた。


 そして、争奪戦参加をきっかけに、ようやく新しい恋に踏み出そうと決意した。


 けれど、私が生まれ変わりだったと知って、前に好きだったせりがどう思うかが心配だったのかもしれない。


 とは言っても、本当にややこしいけど。私が、せりで間違えてないんだけど……。


「あんな……あんな風には、終わりたくはなかった。絶対……あんな風には失いたくなかった」


 那由多は、私の中に居る前世のせりも驚いてしまうくらいに、真面目で誠実な人だ。でもだからこそ、彼の花嫁になりたいと思ってしまうくらいに、短期間で凄く好きになったんだと思う。


 私も……あの、せりも。


「もう良いから。けど……あの時は、まだ細くてひょろひょろだったのに。こんなに、大きくなったんだね」


 まじまじと那由多の体つきを見れば、前世で見た彼とは身体の厚みが全然違う。さっきほんの少し前に、五十年前の彼と会ったばかりの気分の私には、なんだか新鮮な思いだった。


「うん。もう……大事なものを、絶対に失いたくなくて……強くなったんだ」


 それは、那由多のこれまでの思いが、こもった言葉だった。五十年も……こうして、待っていてくれたんだと思えば、私も堪え切れなくて泣いてしまった。

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