第30話「焦燥」
「……二度目はもう、無理だ。耐えられない」
眠っているはずの私の耳に、やけにはっきりとした那由多の言葉は聞こえた。
私が寝てしまった時に訪ねて来た誰かと話しているのか、それとも彼一人で口に出して自分へと言い聞かせているのか。
私には、その判断はつかなかった。
けど……言葉の意味は、それは理解出来る。恋した人を喪った彼は、一回は我慢できたかもしれない。けど、またそんな事があれば、もう自分は耐えられないと言いたいのだと思う。
私は那由多を選んで天狗の花嫁になれば、もう晴れて天狗族の一員となる。神通力だって夫婦の営み中に彼から貰うことになれば、ただの人間の私も彼らのように不思議な力を持つことになるのだ。
天狗の花嫁になれば、簡単には死なない。けど、そう決まるまでには、まだ一月もあった。
早く、時が過ぎれば良い。
天狗になれば、もう那由多は不安に思わないかもしれないし……夜の中で呻くようにして苦しまなくても……安心して、眠れるようになるのかもしれない。
◇◆◇
「……可愛い」
私はお城の中庭で、烏天狗の那由多の眷属である黒い鴉たちに、和菓子を千切ってあげていた。
私の足元には、何匹か集まってお菓子を取り合うように啄み、嬉しそうな鳴き声をあげていた。
甘いお菓子を食べても大丈夫なのかと聞けば、彼らは雑食なので問題はないとのことだった。そっか……それもそうだよね。この子たちは人間に飼われている訳じゃ、ないもんね……。
「聖良。今日の着物も似合っててお綺麗ですね、だって」
隣に立っていた那由多がおろむろにそう言ったので、私は慌てて顔を上げた。だって、那由多がそう思って、言った感じじゃないし……もしかして。
「……鴉がそう、言ったの?」
なんともない様子で頷いた那由多に、私は彼の腕を持って興奮してしまった。
「すごい……! 鴉の喋ってること、わかるの?」
まるで、動物たちと話せる某獣医みたい。
彼の本を小さな頃に読んでいた私は思わず尊敬の眼差しで見てしまう。だって、動物と意志を通じることが出来るなんて、とっても素敵だと思った。
「うん。けど、簡単なことだけだよ。片言みたいな」
「ねえねえ。私も、那由多のお嫁さんになったら。わかるようになる?」
「……どうかな。天狗も、能力差はあるから。多聞とか伽羅も。俺みたいには、鴉の言葉はわからないはずだよ」
「そっか……私も、鴉と話したい。良いなあ。その能力が良い」
私が那由多と話している間に、彼らは空へと飛んで今はお城の屋根に行儀良く居た。指定席でも、決まっているのか。等間隔に並んでいるのが、なんか可愛い。
「鞍馬山には、修験道を修行中の多くの動物が居るよ。天狗になれば、貴登みたいに話すことが出来る」
「貴登さんは、人型になってしまった天狗でしょ? 違うんだよ。動物と話すって、そういうことじゃないの。私はあの動物のままの姿で、話したいの」
私が個人的に拘りのある動物と話す浪漫について語っていたら、那由多はどこか寂しそうな顔で微笑んだ。
「……そっか。人間は皆そう思うのかもな……」
「っ……うん。きっと、そうだよ」
その彼の表情、それだけで私にはわかってしまった。きっと、さっき私の言った事と同じようなことを『彼女』も過去に言ったんだと思った。
どうしてだろうか。
嫉妬なんかは、不思議なくらい浮かばなかった。那由多は、本当に好きだったんだ。目の前で、亡くなってしまった『彼女』のことを……。
心の中に訳もわからない程の、強い焦燥感が募る。
「……あのね。もし、言いたくないなら良いんだけど……」
「うん」
「あの……那由多が好きだった女性って、どんな人だったの?」
彼は、少し緊張した様子で表情を固くした。私にはそういう事はあまり言いたくないってことは、わかってはいるんだけど。
私は那由多と一緒に居たいからこそ、彼のことをわかってあげたいと思った。辛く苦しい思いを理解して、少しだけでも慰めたかった。
「……なんか……こんな事言えば、おかしいと思われるかもしれないけど。顔とかも……正直、覚えてないんだ。多分。抱えて生きるには、あんまりにも辛過ぎたから。そうじゃないと、俺は今まで生きられなかった。俺が……このかくりよに彼女を案内して連れて来て、過ごした時間も数日。うっすらとした記憶しか、ないというのに。だというのに……こんなにも……忘れられない」
悔恨の表情は、今にも涙を零しそうだった。那由多は、もしかしたら那由多は、『彼女』の亡くなった理由を、すべて自分のせいにしているのかもしれない。
彼のせい、なんかじゃない。それを言ってしまえば、容易いだろう。
けど、那由多は心の中で、堪え切れぬほどに苦しい思いに、何度も何度も折り合いを見つけては、少しずつ進んで来たのかもしれない。宵闇にもいつか朝が来るみたいに、明るい方へ。
きっと『彼女』が望んだだろう、那由多があるべき未来に。
「……どんな事を、話したの?」
「うっすらと、覚えているのは……たった一つの約束だけ。かくりよでも有名な、藤棚を見に連れて行くって。あとはもう、好きだったことしか覚えていない。ああ。好きだった。忘れられなかった。もう、五十年以上も経っているのに。こんなの、おかしいよな……」
「おかしくなんて……ないよ。何も、おかしくなんてない。那由多……」
私が思わず彼の名前を呼んだのは、静かに涙を零していたからだ。五十年も時は過ぎ去っているというのに、彼にとってはまだ癒えない傷だった。
「ごめん……聖良は、こんなこと言われても……困るのに」
「困らないよ……辛かったよね」
涙に濡れた彼の頬に手を置けば、那由多は大きな手を上から重ねた。こんなにも、愛情深い人に愛されればとても幸せだろうなと思う。
そんな彼にこれから愛されるのは、私なんだと思えば嬉しい気持ちと良いのかなって気持ちで、心の中は複雑な色模様でないまぜになった。
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