第8話「過去」
「……え?」
那由多さんの唐突な言葉を聞いて、私は目を瞬いた。
「君に対して、何も言わないままであれば、誠実ではないと思うから……最初に、これは言っておく」
「え? えっと……」
戸惑う私を見て彼は、大きく息をついて言葉を続けた。
「俺には、ずっと忘れられない人が居た。だが、その人は既に五十年前に亡くなってしまった。だから、今ではもう、それは決して叶わぬ恋となった」
那由多さんの表情は、真剣だ。これを告げることによって、過去を乗り越え前に進みたいと言わんばかりに。
「その時には大きなかくりよの戦乱があり、彼女もその時に亡くなってしまった。昨夜伽羅が言ったように天狗族を纏める大天狗の一人の息子の俺は、後始末にも忙殺された。これまで婚期が遅れていたんだ。だが、親父とお袋からは、そろそろ結婚して子どもを得るようにと、何度もせっつかれていた。俺の母親は、もともとが君のように攫われた人の娘だったから……今回の花嫁争奪戦にも、参加するようと半ば強制の進言して来たんだ」
「そう。だったんですね」
恋した人が亡くなってしまったのなら、その悲しみは如何ばかりか。長い間、忘れられなかったとしても、それは無理はない。
今まで誰かと恋をしたことのない私には、絶対に理解することの出来ぬ彼の中にある深い悲しみ。どことなく物憂げだった彼の表情は、その悲劇が表れて居たのかもしれない。
ここで何を言うべきか、何も思いつかない。言葉を詰まらせた私に、那由多さんは言った。
「最初……昨日までは、乗り気ではなかったことは認める。だが、俺は誰かを嫁にするのなら、絶対に君が良いと思った。これからは、俺の心を尽くして。それを、君にわかって貰いたいと思う」
那由多さんの目は、真剣だった。前に恋した人の死を乗り越える覚悟を、それを今ここで決意したのかもしれない。
争奪戦を勝ち抜き、私を花嫁とするために。
「あの……私って、そんなに良いものじゃないと思います!」
「なんだ……?」
照れ隠しにも似た面映ゆい気持ちが湧き上がりいきなりそう言った私に、那由多さんは面を食らったように驚いている。
「正直に……言ってしまえば、本当に怠け者だし。部屋だって汚いし……長く続いた趣味って言えば、日舞のひとつだけだし。ここに来たのだって、今まで恋をしたことなくて……恋してみたいなっていう、単なる好奇心と……それに……」
苦しい胸の内を明かしてくれた彼に、まるでお返しのように自分側の事情を明かそうとした私はそこまで言って止まってしまった。今更ながら、これで彼に引かれちゃったら勿体なさ過ぎるって思ってしまったからだ。
「それに……?」
先を促すように那由多さんが言ったので、私は言い淀んでいた言葉の続きを白状する事にした。
「……長期休暇明けに……数ヶ月前に入ったばかりの会社に、行きたくなくて……いわば、逃げでここに来たんです。ブラックというか……あの、パワハラとか嫌がらせなんかも日常的な会社に入ってしまって。でも……親にも絶対大丈夫だからと啖呵を切って都会に行った挙句に、すぐ逃げ戻って来るのかって、情けないって思われたくなくて……逃げたいけど逃げられないっていう、板挟みっぽくなって……思わず、貴登さんの話に飛びついて、ここに逃げて来ちゃいました」
この事情って何も馬鹿正直に言う必要なんてなかったかもと、考えの浅い自分に深く後悔しつつ背の高い那由多さんを見上げた。
那由多さんは、すっきりとした身体に添う黒い服に、黒い髪に瞳。色合い的に、少し鴉っぽいなって思いながら。そういえば、彼の実家である鞍馬山は烏天狗で有名だったはずだ。
緊張しながら、那由多さんがどう反応をするか待つ私に彼は吹き出して楽しそうにして笑い声をあげた。
私が目に見えて安心しほっとした様子になったので、それもまたおかしかったのか。那由多さんは、肩を震わせつつ言った。
「いいや……それは、俺から見れば逃げてはいない。天狗の花嫁になるために、自分の意志でかくりよまで来てくれたんだろ? 全く大した問題ではないし、俺は気にしない。俺の花嫁になるために、ここに来たと思えば良い」
「……あの、まだ……決まって、ないですよね?」
自慢ではないけど彼のような素敵な男性に、ここまで露骨に好意を出されたことのない私は、自分が今いる状況を考えつつしどろもどろになってしまった。
こういう立場になりたいからと、このあやかしたちの住まうかくりよにまで来たというのに、自分に向かって美形が直接的に甘い言葉を吐くという状況の破壊力は想像より数倍凄まじかった。
「そうだったか? まあ、あいつら二人より、先に君を落とす事が出来たら、俺の勝ち。それが、花嫁争奪戦の掟だ」
そうして、那由多さんは、またあの可愛らしい笑顔で笑った。
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