第3話「かくりよ」

「ねえ。どうして、貴登さんは私が居たあの場所に来たの?」


 自らを貴登と名乗った白い狼の顔を持つ天狗は、私の腰を逞しい片腕で軽々と抱きかかえて、もうとっぷりと暗くなってしまった黒い夜空を飛んだ。


 彼は大きな黒い翼を広げて危なげなく風に乗り、下に見える街明かりが綺麗過ぎて不安に思っている隙もない。初めてこんな高所を飛行しているのに、私は何故だか怖くなんてなかった。


「なんだ。お前さんは知らないでやっていたのか。山の中で笛を奏でたり歌を歌ったり、舞いを踊ったり。そうすれば、なんだなんだと気になった山に棲んでいる天狗なんかが、様子を窺いにやって来る。そんなものだ。遠い昔から、人の子には知られている話だと思っていたが」


「……そうなんだ」


 それは、さも世間では一般的で当たり前のことだと言わんばかりの貴登さんに、私は首を傾げてから頷いた。


 昔。山から来た天狗の嫁取りのために若い娘が攫われることがあったという言い伝えは、これまでにも何度か聞いたことがある。けれど、山で踊ったりすれば天狗がやって来るという、そこまでの詳細な情報なんて聞いたこともなかった。


 だから、あの時の貴登さんは、敢えて天狗に攫われたいのかと……そう聞いたんだ。私が天狗が来ると理解していて、山の中で踊っていたと思っているから。


「今の時分に、あんな寂れた山中で楽の音もなく踊り出すような娘も、本当に珍しい。それに、自分から天狗に攫って欲しいと、あんな風に自ら手を差し出すのは、きっと過去も未来も合わせてお前さん一人くらいだよ」


 覗き込むように顔を見て、貴登さんは呆れたようにそう言った。


 逃げ場のない自分の今の現状からとても逃げ出したかったのと、これまでに一回もした事のない恋がしてみたくて、まるで乙女ゲームの夢のような状況に釣られましたとも言えず。


 私は、彼の言葉に曖昧に笑った。


「だって、貴登さんって全然怖くないし……私たち、何処かで会ったことある?」


 なんだか、全く意図せずに下手なナンパ文句みたいになってしまったのは仕方ない。


 けど、私は彼を見た先ほどから、ずっとそう思ってしまっていた。だって、初対面だとはとても思えないくらいに、こんな獣の顔をしている天狗の彼に親しい気持ちを抱いていた。


「ない……そういう事は、花嫁争奪戦の参加者の、誰かに言ってやってくれ」


 私に揶揄われたと、良くない誤解したのか。どこか憮然とした態度になってしまった貴登さんが、前を向いた。


 その瞬間。


 私は文字通り、自分の周囲の空気ががらっと変わったのを感じた。


 そして、眼下には先ほどまでの人工の明かりに溢れていた景色が一変。今は暗い森の中にある、神社にある鳥居を思わせるような朱塗りの城が月明りに映えて、暗い山で一際に目立っていた。


「……ここは……」


 見るからに、私が先ほどまで居たはずの人間が住まう世界ではなくなっていた。例えようもない。畏怖にも似た不思議な気持ちで、身体中に震えが走った。


「ここは、かくりよと呼ばれている、現世とあの世のちょうど境目にある。あやかしたちが、支配する世界だ。あれはこの辺りを統べる、大天狗の一人で白峰相模坊の居城。今回の嫁争奪の儀式を、監督を担当するのも、かの相模坊だ。強い力を持つ天狗族の大天狗の中でも、特に慈愛深く優しい一狗だ。そう言った意味でも、お前さんは決して変な扱いには決してならない。手前も、それは保障しよう。本当に、幸運に恵まれている」


「白峰相模坊……」


 それは近くにある霊山に住まうという、有名な天狗の名前だった。数か月前に都会に出るまで田舎で生まれ育っていた私は、何度か昔話で名前だけは耳にしたことがあった。


「後、お前さんのように自ら望んでここに来た人間にはあまり関係ないことだが、城を囲うあの深い堀の中には恐ろしい魔物が住まう。あの城から出ようと思うのならば、まず空を飛べなければ、お話にならない。まあ。これは侵入者を防ぐためであって、中に居る者の逃亡を防ぐためのものではないのだが」


「気を付ける……」


 私は、こくりと喉を鳴らした。だって、それが意味するところは、この城は攻められることもあるということだ。


 下方に見える城の四方を囲む堀の中は、昏くて底はとても見通せない。


「はは。さっきまでの威勢の良さは、どこに行ったんだ。これから、花婿候補三人にも会う。楽しみは、まだまだこれからだろう」


「……なんだか急に、これって本当に現実なんだって思えて来た」


 我に返ったような言葉を聞いた貴登さんの楽しそうな笑い声と共に、私たち二人は朱塗りの城へと向かって急降下を始めた。


 けど、別にその時。怖気づいてここまで来たことを、後悔していた訳ではなかった。この先にきっと何かが起こるという、そんな踊り出す舞台前のような期待感が胸を占めていたから。

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