第2話「鴉」

 カア、と唐突に耳に入った烏の大きな鳴き声に、私は振り向きつつ周囲に視線を巡らせた。


「……え?」


 声の主はなんてことのない、電線に止まっている黒い鴉だった。いつもだったら、普段通りの風景だとすぐに目を離してしまうだろう。


 けれど、その時の私は、黒い鴉に三本の足が生えていることを、見つけてしまった。普通なら、気にも留めない事だったのかもしれない。目を凝らして見つめて、何度数えても珍しい三本足だった。


 一声鳴いた鴉は、私が自らに目を向けたことを理解したかのように、茜色の空を横切るような一本の黒い電線からふわっと舞い上がり、ゆったりとした速度で飛んだ。


 まるで、何かに不思議な力に導かれるように。三本足の鴉を追い掛け、家の裏手にある裏山へと私は足を踏み入れた。


 実家のあるこの辺りには、大層な古い古い言い伝えがあった。


 地元に聳え立つ霊山には、全国でも有名な大天狗と呼ばれる力あるあやかしの一人が住んでいると有名だった。そして、私が今歩く山には、大天狗の家来の天狗が住んでいる。


 彼らは、時折若い人間の娘を天狗の一族の花嫁にするために、攫ってしまうというものだった。


 もし、天狗が存在していたとしても、誘拐事件とされたすべては天狗の仕業だけではないとは思う。


 誰彼となく駆け落ちだったり、何らかの不幸な事情だったり。行方不明者は続々に出ているんだろうけれど、それはあまりにも荒唐無稽な古びた言い伝えだった。


 そして、今の今まで、私はそれをひとつも信じたことなどなかった。


 お世辞にも整備されているとは言い難い険しい山道を辿り、黒い烏を追い掛けてやって来たのは、木が鬱蒼と生い茂る森の中にあるというのに、いきなり視界が開けた草原だった。


 折しも黄昏時と呼ばれている、空にはいくつもの淡い色がうつろう薄明りの幻想的な時間帯になっていた。


 どういった光の加減か。ふんわりとして柔らかに見える景色は、何もかもが美しく見える錯覚を起こしてしまう。


 なんでその時にそうしたかと、理由を問われると説明が難しい。魔が差してしまったとしか、言いようがない。


 なんとなく、この場所で少しだけ踊ってみようかなと、ふと思った。


 入社したての新入社員で新しい人間関係と慣れない仕事に疲れて、ブラック企業らしい抑圧された精神状態。


 机に積み上げられた書類を片づけて帰宅すれば、ご飯を作って寝るだけで精一杯だった。


 現在住んでいる都会では、気晴らしに踊りに通えるような教室も見つけられてはいない。


 願ってもない格好の場所を見つけて、本当に久しぶりに大好きな踊りを踊ってみようかと思っただけだった。


 長く使っていて、もう大分へたれてしまっているスニーカーを脱ぎ捨てると、私は素足で茂る草を踏んだ。


 ここ数か月、場所の問題でもなくただ忙しくて時間がなくて、まともに踊れてなどいなかった。でも、記憶を辿りながら踊るのではなく、身体が覚えていて自然と動いた。


 繊細な手の返しの角度も、今は着ていないというのに、着物の袖口を握る素振り、持っていないはずの扇子の動きも。すべてを。


 ひとしきり踊った後で動きを止めると、上方から、やけに大きなばさりと風を切る音が響いた。


 何気なく空を見上げて、私は言葉もなく息を呑んだ。彼とお互いに目を合わせて、認識し合う。


「ほう。楽しそうに踊っているな。お前さんは、天狗に攫われたいのか?」


 空中に浮いているのはまぎれもなく、この日本で天狗と呼ばれている異形だった。


 大きな大きな黒い翼を持ち、その顔は白い毛を持つ狼の顔。山伏のような服を着ていて、地面からだいぶ高い位置から驚いている私を見下ろしている。


 けれど、どうしてだか。私は彼を怖くはなかった。


 普通だったら、ここで大きな悲鳴をあげて逃げて走り去ってしまうべきだと思う。その天狗が、やけに人懐っこい目をしていたせいかもしれない。


 こんなにも良くわからない状況だというのに、私は逆に彼に親しみを感じていた。何の理由なのかは、全くわからないけれど。


 私には、大きな黒い翼を持っている恐ろしいはずの天狗が全く怖くはなかった。


「……天狗に、攫われる?」


 ぽかんとして彼の言葉をオウム返しに呟いた私に、いきなり姿を現した天狗は鷹揚な仕草で何度も頷いた。


「そうだ。丁度、今は嫁取りの儀式の前。先日の宴でも、そろそろ現世へと若い娘を攫いに行こうかと、皆で相談していたところだった。お前さんは、本当に運が良い。次の花嫁争奪戦の参加者三人は、全員が大天狗の後継者で、人で言うところの美形な容姿ばかり。どうだい。そうない機会で、お買い得な提案だ。とても、お薦めするよ」


「花嫁争奪戦?」


 理解しがたい単語を聞いて、何とも言えない表情になってしまうのは、仕方ないことだと思う。花嫁って、普通なら争奪されるものでもないと思うし。


「手前共の天狗族には、人の娘を攫って花嫁にする昔ながらの風習がある。だが、争奪戦参加者の中から、夫となる者を選ぶ権利は、攫われてきた花嫁側にある。一度目の選考期間を過ぎても、その三人の中から選ぶのが嫌ならば、また別の者が手を挙げるだろうことだろう」


「……それって、もし攫われて花嫁になれと言われたとしても。私がその中の誰かに心を決めないと、別に花嫁にならなくても良いってこと?」


「……一応。手前共の掟では、そのように決まっている。だが、これまでに攫われてきた花嫁は、皆。最初の争奪戦で、心を決めている。攫ってきた人の娘の花嫁争奪に名乗りをあげるのは、一族でも特に位が高い者になる習いは、暗黙の了解。天狗族は、大昔より妻と子を何より大事にする習わし。格高い面々が、どうか自分の花嫁になってくれと、心を込めて口説くのだ。どんなに頑なな態度を見せる乙女だったとしても、やがては心を開こうよ」


 何度か、過去にその様子を見て来ているのか。どこかやれやれといった様子で、天狗は言った。


 もしかして。これって魅力的な何人もの男性に口説かれることになるという。


 まるでフィクションの世界である乙女ゲームのヒロインのような状況に、なってしまうのだろうか。


「私……今までに、一度も恋をしたことがないの。それでも?」


 正直に言ってしまうと、彼の言う天狗の花嫁の話に興味は沸いた。


 私は生まれてこの方、彼氏など一度も居たことがない。何故だかどんなに見目の良い異性を見ても、容姿が良いと思うだけで少しも心を動かされることなどなかった。


 多くの人が幼い頃に早々に済ませてだろう初恋をしていないのは、今ではもう成人している私にとって、ある種のコンプレックスにもなっていた。


 そして、私が嫌だと思えば、別に結婚しなくても良いと言う。これは恋をしたいと望む私にとって、破格の良い条件なのかもしれない。


 うずうずと心の中に噴水のように湧き上がる好奇心は、なかなか殺せるような、か弱いものでもなかった。


「必ず、恋に落ちるだろう」


 大きな翼を動かし危なげなく宙に浮いている天狗は、それはしごく当たり前のことだと言わんばかりに何度も頷いた。


 買うなら今しかないお買い得な商品を説明するセールストークにしては、とてもうさんくさい。不確定な未来のことを、必ずだなんて、営業する側が絶対に使ってはいけない言葉のような気がするんだけど。


 それでも。


 必ず恋に落ちるという言葉が、とてつもなく気になってしまった。これまでに恋をしたことのない私が、天狗の花嫁争奪戦で争われることになる、花嫁の立場となる。


 後先など知ったことではない経験の浅い若さがなせる、考え無しの無鉄砲な選択だったのかもしれない。


 休み明けに自分を待っているとても辛い状況から、逃げ出したかったのかも。ふわふわとした、不思議な夢のような空間の中で、まったく現実感がなかったせいか。


 これから後に起こりうる沢山の出来事を、第六感に近い直感で何処か感じていたせいなのかも。


 何にしても、私は躊躇うこともなく、自分を空から見下ろす天狗へと両手を伸ばした。


 時は逢魔が時と呼ばれる、世に言う大体十八時頃。


 心の中に魔が差して、薄明りの中で踊りを差して、私は天狗に攫われた。

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