第9話

「だったら、お前、外科手術を麻酔なしですんのか?」

「え…と。それは、また、別の話でして…。すいません、素直に痛み止めをいただきます」

 のんきにおかわりのケーキを食している後輩は、しきりに感心をしている。

「自分の不注意で、周りに迷惑をかけているくせに、さらに迷惑をかけるなんて大人の男として最低なことなんだからね」

「うっ…。最低ですか…」

 哀しい。ただ、哀しい。もう、世の中の成分はほとんどが哀しみでできているのではないだろうか。そう疑いたくなるのも当然だ。

「ところで、あなた。時計台なんて辺鄙なところで、一体何をして遊んでいたの?」

 デコピンをくらう。おでこをさする。

「はっ、遊びと決めつけられている!」「え、違うんですか?」ちびっこなーくんは、本当に驚いている。そんな後輩に驚く先輩とは、僕のことだ。

「遊びかと問われれば、完全に否定することは難しい」

 静かに視線を外す。

「ほら、やはり、遊んでいたんじゃないですか」

 わあわあ騒ぐ後輩。忍びよる足音。うああ。おでこをガードする。

「そ、そうなってしまうか」「ほら、やっぱり」

 今度は頭をはたかれる。涙目で見上げる。

「あのね、つぐみちゃん。こう見えても、一応、僕はけが人ですのでそういった日常的な接し方は控えていただきたいのですが」

恵太けいたくんは知っているかしら」鶫ちゃんがベッドに腰掛ける。「末期のがん患者が、見舞客に対して思う感情を」

「へ、へえ…。なんだろうか」

「まるで既に亡くなってしまった人のように扱われることを不快に思うのよ」

 息をのんだ。少し、想像してみただけで最悪だ。病室の中に、突然、雨が降ってきた。と思ったら、涙雨だった。全世界の末期のがん患者を思ったら、胸がぎゅうと痛くなった。そして、それは鶫ちゃんが生きてきた世界とも繋がるのだろう。

「だから、私は、いつもどおりを心がけるの。はい、これ。頼まれて持ってきた物」

 いつかのスケッチブックだった。僕の脳裏には、今もあの鮮やかな思いが浮かぶ。閉じたくちびるから、笑い声が漏れ出す。

「ありがとう。代わりにこれを持っていって。名寄なよろのやつが、きっと役に立つ。マスコットにしてはでかいが、優秀なことには変わりない」

 鶫ちゃんが名寄に視線を遣る。

「私の大好きな頭のいい子だもんね」

「まあ、僕のほうが、よほど頭がいいけどな。なんせ国のお偉方が夫婦同伴で、おめでとうを言いにくるくらいだから」

 反応が無い。さっき手渡した紙に集中しているのだろうか。失念していた。確かに鶫ちゃんは、目で語る性質の人であった。

「こういう時の鶫ちゃんは、一等、綺麗だ」

「名残惜しいけれど、そろそろ行くよ。少女のようにか細い脚を折ってまで、私に伝えたいことがあったのでしょう。だから、可能ならば君のメッセージを受け取ろうと思う。解読できなかったら、ごめんなさい」

 下を向く鶫ちゃん。顔が真っ青である。あれ、もしかして伝わらない?

「大丈夫だよ、鶫ちゃん」手を強く握る。「ほら、名寄が居るから!」

 貴様、解読できなかったら、どうなるか解っているだろうな? と、目で脅す。間もなく、「ひい」という悲鳴が漏れ聞こえる。「どうせ、あいらぶゆーとかじゅてーむとかに決まってるのに。あ、てぃあも?」「小声で何を言っているのだ、名寄」

 なんでもないですよと、涙目の名寄は鶫ちゃんと病室を後にした。扉が閉まったのを確認して、手許のスケッチブックを改めて眺める。しかし、名寄も相当変わっている。きっと生きるのが大変なのだろうな。鶫ちゃんが持ちえていないもの、それはきっと名寄も同じなのだ。

「ああ、だから、名寄が好きなのか」

 当たり前のことに今更気づいた。当人にしてみれば、きっとやっかいでしかないこと。鶫ちゃんは、スケッチブック。名寄は、A4のリングノート。上手に言語化できない想いは、決して霧散しない。澱のように溜まっていくそれは、まさしく業だ。







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