第5話

 不思議な空気を持つ女の子だった。おしゃべりなのに何を考えているのかが一向に計り知れない。そんな彼女が熱中するのは、わかりやすい勝負事の時だった。同い年の、それも男子にはメラメラと闘争心を燃やしていた。僕は、お嬢様然とした見た目と、燃え上がる彼女の心とが好きだった。

 彼女は昔から泣き虫だったけれど、それは自分が負けてしまって悔しいから泣いていたに過ぎない。泣き出した彼女を心配して「大丈夫?」と声をかける女子たちを「なんて人の心が解らないバカなのだろう」と思って僕は見ていた。

 僕の大好きなあの子が光り輝ける場所は、勝ち負けのはっきりした世界にしか在り得ない。それも勝ってばかりでは心が満たされないし、負けてばかりでは心が縮こまってしまう。

「嘘ではないよ。君が好きだったから、いつまでも君に好かれるために努力を重ねてきた。君は好奇心旺盛だったから、ぱっと見に面白さが解りやすい理系に進んだ。頭の良いやつが通う大学には、同じくらい興味深い人間もいることだろうと思って、まずは最低限『難関大学』とされるところの学生にならなくてはな、と。そういうスタンスのもとで、高校時代はとにかく理系科目をきわめることに費やした。物理と化学はまあ、平均以上にはできたがそこそこでしかなくて、自分の才能の無さを痛感させられた。で、気づいたら僕は数学オリンピックに出ていた。どうやら、僕は数学的思考と相性が良いらしい。もちろん、思ったよ。確かに自分は数学が面白いと思っている。だからこそ、数学が得意なわけだ。しかし、例えば、僕が大学は理学部の数学科なんてところに進んだとして、そこで世界的な数学の賞をとったとして、『それで、どうなる?』ってな。数学オリンピックでさえ、出るのも大変なのにせっかくメダルをとっても新聞に小さく名前が載るだけだろう。いや、テレビのニュースでも取り上げるかもしれないが、入賞者が僕ひとりなんてことは限りなくありえなくて、つまりはその他大勢なんだよ。これでは、意味が無い! 数学こそ現代人の生活に欠かせないものであるにも関わらず、いつももてはやされるのは素人目にも解りやすい難病の治療法だったり、やけに人間臭いロボットだったりするんだ。なんだ、なんだ? 同じ『理系』のくくりの中で差別してんじゃねえよ」

 そこで、いきおいよく机の天板を叩き立ち上がる。

「僕は、ただ伝えたいだけだ。君が好きだって」

「長いよ、独り言」

 振り向くとそこにはすっかり泣き止んだ彼女が居た。何故か、体育座りだし。ご清聴、ありがとう。真っ赤に腫れあがった目元を指で拭い拭い訊く。

「ところで、君が小学校は二年生の終わりで転校してから高校生になるまでの話が完全に抜けているのは何故なのか」

「その期間は暗黒時代だから、記憶に無いという設定にしておいてくれ」

「それは、私自身の場合も概ね同意だ。つうか、本当に人間としてどうかしていたなあ、あの時期は」

 彼女が横目にどこかものすごく遠いところを眺めている。

「暗黒時代ってさ、要は世界史的な意味であれば『史実に無い』ってことでしょう。つまりは、何があったかは後世の人が推し量るしかないわけだよ。例えば、大好きな女の子と無理やり引き離されたショックから『僕は、あの子と結婚するって決めてるんだ。だって、日本は一夫一婦制だぜ? 未来の嫁候補が何人もいたら、僕が成人したときに大変なことになってしまう。だから、僕は一時的な性欲処理のために新たな嫁候補を作ったりはしないんだ。だから、僕は男の子でも見て…』」

 うおーい、何たる想像力だ。医学は芸術のようなものだと聞いたことがあるようなないような記憶ははっきりしないがこれが難関大学の医学生女子の発言か。末恐ろしい。

「確かにね、性欲は無いよりはあったほうがいいとは思うよ。だって、生を繋ぐって大切なことだからね。そうだよ、僕だって君を孕ませたいさ。でも、そんなことを今すぐ実行したら僕はただの犯罪者に成り下がってしまうわけだよ」

「そうだね、つきあってないからね。ましてや、ここ日本では夫婦間でも同意が無い場合には強姦罪で訴えることも可能なわけだしね」

 つ、つきあってなかったのか…? 人ん家のベッドにもぐりこんで、枕の匂いを嗅いでおきながら?

「あれえ、お顔が真っ青だね。どうしたの、もともと青白い顔から更に血の気を引かせちゃったりして」

 いじわるな笑みを湛える女の子の前に、ひざをつく。

つぐみちゃん」

「何でしょうか、恵太けいたくん」

「大好きだよ。だから、もし良ければ僕とおつきあいして、結婚して、それから孕ませてください。家事全般は僕が責任を持ってやるよ。子供が生まれたら、もう周囲に『あの子、父子家庭なのかしら?』と思わせんばかりに世話を焼くよ。もちろん、いつまでも君をひとりの女性として、独立した一個の人間として扱うつもりだ。毎日は無理かも知れないけれど、できるかぎりデートしよう。毎日、うまい料理を作ってあげて、おもしろい話もしてあげるよ。ただの数学バカだけれど、それくらいはできると思う。だって、伝わったよね? 僕の君への本気」

 鶫ちゃんの表情がぼうっとしているのは、大泣きした直後だからなのか、それとも運命の人から久方振りの愛の告白に感激しているからなのか。鶫ちゃんの思考は至極単純なようでいて、富士山の樹海なみに暗く深いところがある。まったく侮れない。

「うーんと…」鶫ちゃんがその美しい人差し指で、これまた大変愛らしい唇の端をつついている。

「誓約書にサインしてくれるならいいよ」

「もちろんだとも」即答した。「それくらい想定できずに、初見の問題の解法を見極めることはできないよ。いくらでも時間をかけて、これ以上にないくらい最上の誓約書を作り上げてくれていい」

「うん、ありがとう」笑顔で頷いて、額にキスされた。


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