第22話

 がらんとした広めのワンルームの中心部に革製の椅子がひとつあり、男が座っていた。大きな窓はあるが遮光カーテンが閉め切られ、男と椅子のシルエットをかろうじてえがいているだけだった。

「そうなんだ。そうなんだ。うん、うん」

 それは独り言のように見えた。

「これからが、楽しみだ。楽しみだなあ」

 男の声は震えていた。

「みんなで遊ぼう」

 無数の細い水の線が走査した。壁、天井、カーテン、空間を。そして水は一瞬にして消えた。



 日曜日の話し合いを取り付けたその夜、灯輝は局者の身の安全について考えていた。ガルガが言うには符姿の状態でも300m程度は櫂脈を感知できるということであった。それで充分なのか、不測の事態は起こり得ないのか、持駒から離れた状態のみどりに危険はないのか、分からないことが多かった。それはイレギュラーな盤都羅が行われていると認識のある駒にとっても同様で、何の確証も得られないのだった。

「今のところ危ない目に遭ってるのは、駒と一緒にいる局者だよね」

 灯輝はリビングでブレザーにスチームアイロンを当てながら、ガルガに向かって言った。

「昨日のこともトウキが危険と見做みなしているなら、そうなる」

「え? 弓野さんとのあれは正当な盤都羅だったっていうこと?」

「いやそれ以前の、馴れ合いといえよう」

「………」

 通常の盤都羅であれば、勝敗を決する闘争になったはずだとガルガは付け加えた。戯法ぎほうが定まらないからこそ、正式な勝負も始められないということであった。

「危険性は気にしててもしょうがないか…。とりあえずなんか感じたらすぐに教えてよ」

 そう言って灯輝はズボンへのアイロンがけへと移った。やはり脛の破れが目につく。

「これは買い替えかなあ…まだ半年なのに」

 灯輝がぼやくと、香天の紙がそばに寄ってきた。

「こちらのズボンと近い色の布、ハギレなどはありませんか?」

「え?」

 突然の要求に灯輝は戸惑ったが、裾上げで出た切れ端が、箪笥にビニールに入れてしまってあるのを思い出した。

「あるにはあるよ。持ってこようか」

 灯輝は自室で布切れを手に取り、リビングへと戻った。

 駒姿となっている香天がそこにいた。

「え、何やってんの」

「布を頂けます? トウキ」

 香天が両手で皿を作り、灯輝に差し出して微笑んだ。

 昨日リビングで駒姿の香天を見ているとはいえ、この落ち着いた状況で、着飾った可憐な女子に自宅で名前を呼ばれるなどということは想定していなかった。灯輝は動揺を隠せず、ぎこちなく布を手渡した。

 香天は受け取った布を両手でつまんで持ち、ハンガーに掛かるズボンと向き合った。何をするのか。灯輝は固唾を呑んだ。ゆっくりと香天の手の間隔が開く。すると布はゆるゆると縫製が解け始めた。両のつまんだ指の先で何か光る。とても細い針のようであった。

「植物の棘ですのよ」

 疑問に答えるように香天は言った。そして―――

 その両手は脛の切れ目の前で高速で動き始めた。ズボンは僅かに揺れている。

「あっ」

 灯輝は驚きの声を上げた。みるみる間に、脛の破れが塞がっていく。香天が縫い始めてから十秒程であっただろうか。ズボンは、遠目には傷跡も全く見えないまでに補修されたのだった。

「終わりました。これはお返ししますね」

 そう言って香天は灯輝に余った布を渡した。

「あ、ありがとう…。すごいね香天」

「細かい作業は得意ですので」

 香天はそう言って少し首をかしげて、再び微笑む。

「ああそうだトウキ」

 何か、悪巧みでも含んでいそうなガルガの声がした。

「我の等身ではこの家屋に収まりが悪いが、香天なら常時、駒姿で問題なかろう。そうすればより広い範囲の櫂脈を警戒できる」

「いやそれは」

 灯輝は片手を上げて制し、一言続けた。

「落ち着かなすぎる」

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