第20話

 自転車を漕ぎながら、灯輝はなぜ自分がこのようなことになったのかと再び考えていた。だがそれは昨日、いや今朝までの逡巡しゅんじゅんとは異なっていた。乗り越えなければならない壁のように思えた。顔に当たる夜風は冷たく、灯輝の感覚を刺激した。

 自宅が見えてきた。灯輝は、うっと声を出した。

「どうしたのだ」

 ガルガが問う。家の窓から明かりが漏れていた。灯輝は二人に、背中に隠れて黙っているよう促した。

「空き巣じゃないなら、母さんが帰ってる」



 灯輝は自転車を駐車スペースに置き、恐る恐る玄関ドアを開けた。

「た、ただいま」

 ドタドタとした足音がする。

「ちょっと灯輝! 鍵もかけずにどこ行ってたの!」

 母親、束彩つかさが帰宅していた。濃いオレンジのエアリーパーマ、厚めのファンデーション、黒系でまとめた服と、いつもどおりのファッションだった。

「ごめんうっかりしてた。ちょっと急ぎの用ができて」

「だからってそんな不用心ある!? しかも母さんが帰ったとき、お隣のおばあちゃんに会ったんだけどさ」

 束彩はまくし立てる。

「すごい大きな音とか、大声出してたみたいじゃない。母さんいないからって、アンタ家で何やってるの!?」

 灯輝は返答に窮した。騒音は外まで漏れていたようだった。

「あ、いや事故のあと…友達が来たりしてさ。それで色々あって…」

 沈黙がおりた。

「ああ…母さんもニュース見たわ。ひどいねあれ。アンタもあそこにいたんだよね。…そっか、友達が心配して来てくれたんだ?」

「そんな感じ」

 束彩はため息をついた。

「分かった。とにかくこれから気をつけなさいよ?」

「そうする」

 そのまま2階へ上がろうとする灯輝を再び母親が呼び止めた。

「あんた晩ごはんは? まだならこれからピザでも取るけど」

「ああ…うん。いいねピザ。食べるよ」

 灯輝は振り返らずに応え、自室へ入り静かにドアを閉めた。背中から声がした。

「あれが母君か。悪い人ではなさそうではないか」

 いつもより声量を落としている。そのあたりの分別はあるようであった。灯輝も小声で返す。

「うん。別に悪い母親じゃないよ」

 今の世の中じゃ、という次の句を、灯輝は口にはしなかった。



 夕食の際テレビをつけることもなく、母子の会話は差し障りのない学校生活や日常に終始した。最後に、紛失物で今月少しお金がかかると灯輝は告げた。束彩は別にいいよと返した。束彩はまた明日早朝から家を出るということであった。歯磨きや風呂などを終え、灯輝は自室へと戻った。

 灯輝は勉強机に置かれた汐春の名刺を眺めた。明朝体でデザインされたシンプルなものだった。ベッドに横になり、汐春との会話で気になったことを駒に静かに訊いてみた。

「弓野さんは自分が盤都羅を起動させることはあり得ないって言ってたけど、どういうこと? 始めるのに必須の条件とかあるの?」

 ガルガと香天は互いを見合った。

「……うむ、あったように思う。局者も戯法を理解していて当然と我は説明したな?」

 灯輝は頷く。

「盤都羅を開始するには、戯法を理解した……むう?」

「私も曖昧。八ノ目はもう少し分かってるのかも」

 駒によっても認識に差があるのかもしれない、ということを二人は話した。



「ガルガ、盤都羅の本質って何」

 その言葉は脈略なく、灯輝の無意識から出た。枕元に立つガルガの方を向き、真剣な目で見た。

「闘うことさ、トウキ」

 ガルガは笑いながら答えた。

「捕まった私を追ってくれたトウキ、勇ましかったですよ」

 香天がやや甘い声で続けた。灯輝は今度は何か気まずくなり、天井の方を向いた。



 明日の予定はもう分からなかった。少なくとも、当分学校へ行くことはできないと感じた。盤都羅とは付き合うのでない、向かい合わなければならないのだ。いつまで続くか分からない人生で、何か大きな転機があるとすれば、それはきっと今なのだ。灯輝は目を閉じ、両の手を強く握りしめた。

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