第18話

 汐春は一瞬動きを止めた香天の腕を掴んだ。そして何かを耳打ちしたかと思うと、香天を放さぬまま更なる跳躍を見せた。

「香天!」

 灯輝は叫んだ。

「助けてトウキ!」

 香天の声は既に遠ざかっていた。

「香天がさらわれたぞ、トウキ! 追うのだ!」

 今日初めて語気を強めたガルガの声を聞く。

「わ、分かってるよ!」

 灯輝も後を追って駆け出す。この時、灯輝は小さな違和感を覚えた。だがその正体を考えている暇はなかった。



 汐春の消えた方角へ低木を突っ切って抜けると、公園の中心部、大きな池へと出た。いくつかの街灯の光が水面に反射している。池の対岸の歩道に、こちらを伺う汐春と腕を掴まれた香天を認めた。

「池の上を突っ切れトウキ。今は人に見られている気配もない」

「え!?」

「川と同じだ。走れると信じろ」

 灯輝は拳を握った。手のひらにも汗をかいている。覚悟を決め、勢いよく池へと飛び込んだ。水が跳ねる。最初の一歩で水は履物のくるぶしあたりまで浸かっただろうか。だが、続く歩みは水面にわずかな波紋を描くのみだった。灯輝は加速した。それを見た汐春が森の奥へと香天を連れ消える。灯輝は池の淵、柵、歩道を2歩で飛び越え追いすがった。

 木に囲まれた、やや窪んだ地形上で汐春はこちらへ身を翻した。香天を放し、迎撃の構えを取る。

「こい小僧」



 整理のつかない灯輝の感情は、次第に怒りへと変わりつつあった。何に対してか――それは混乱を巻き起こす、盤都羅そのものへであった。しかし今その憤りの力の矛先は、目の前にいる依姿の汐春へと向いた。

 これまで以上の連撃が灯輝に襲いかかる。だが灯輝はその一筋一筋をはっきりと認識できた。全てを鮮やかに流す。難しいことではなかった。灯輝の眉間にしわがより、口角が下がった。

「いい加減に……」

「む」

 ガルガの緊張感を含む一声は灯輝には聞こえなかった。

「しろよ」

「待てトウキ!」

 素早く旋回する右拳みぎこぶしに、それを静止させる力が加わった。だがその力強い一撃は汐春の胸部に放たれた。

「ぐほっ」

 汐春の唾液が飛んだ。地面に掠ることなく舞った身体は、三つの灌木を突き抜けた。



 少しの間、灯輝は打撃を放った姿勢のまま口を半分開けて呆然としていた。だがガルガの声により、はっと我に返った。

 「様子を見に行け、トウキ」

 足早に葉の散った低木の裏へ回る。汐春は鎧の目の付いた胸部分をさすりながら、へたり込んでいた。

「こりゃあ参った。まあ、シオハルはほどほどの素棋力。こんなもんじゃろう」

 新たに聞いたその声は、枯れたものであった。汐春の胸部から発せられたようだった。

「無茶なことさせないでおくれよ…話し合おうって言ったじゃないか」

 汐春が頭を振りながら言う。どうやら八ノ目の支配は解かれているようであった。



「え…あの…これはどういう…」

 灯輝は疑心暗鬼となって周りのものへ問い掛けた。

 その隣へ香天が舞い降り、やや呆れたような顔で言った。

たわむれは済みましたこと?」

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