第10話

 男は図書館で片っ端から文献を漁っていた。袖を捲った、やや肉のついた腕には細かい擦り傷が見えている。今朝起きた電車の事故、それまでもが関係しているとあっては、とにかく情報を集めずにはいられなかった。

 「これはどうかな? 知ってることが載ってそう?」

 男は小声で何かに話しかけた。周囲に他の利用者は見られない。背の高い本棚の並ぶ、正午の静かな部屋の一角で、もう一つの声が確かに男のワイシャツの胸ポケットから応えた。

 「ふぉ、寛弘かんこう長和ちょうわの元号は触発されるものがあるぞい」

 枯れた、老人のような発声であった。



 灯輝はベッドに腰掛け、まだ紙の二人と話を続けていた。

 盤都羅は開始されている。ならばどうすれば終局――終わりを迎えるのかという内容だった。だが肝心の部分において、牙流雅も香天も言葉が曖昧であった。

「局者が駒を用い勝負を行う…これが基本形であるはず。したがって場合により我と香天も同士であったり、敵対者であったりしたはずだ」

「そうね。駒がやられて盤都羅へ戻っていって勝敗が決したり、局者が降参して終わったはずね」

 はず、という語尾が外せない。一度聞いたように駒に過去の盤都羅の記憶は薄く、今回はさらに異例の状態であると繰り返し訴えるのだった。

「駒には盤都羅本体の位置もおよそ把握できたように思う。それがなければ成立し得ないこともあるはずだからだ。ところがどうしたことか今は本体が、いずこにあるか我らにも皆目見当がつかぬ。ともすれば盤都羅は――」

 壊れているのかもしれない。

 牙流雅はそのようなことまで口にした。



 「分かったよ。二人にも分からないことが多いって分かったよ」 

 机にいる二枚に向かって、少し疲れたように灯輝は言った。二枚は灯輝の方を見ている。

 見ていると思えるのは、乳白色の紙の表と思しき面に、黒墨で文様が書かれているからであった。四辺の切り込みによる装飾も含め、改めて観察していると、発見があった。

「あ、それ、牙流雅と香天て、ちゃんと漢字で書いてあるんだ」

「む? ああ、符姿ふしでは名が表記されているはずだ。現代で読めるようにな」

 牙流雅が応える。

「崩れ過ぎてて分からなかったよ。……香天はともかく、牙流雅はカタカナの名前の方がなんとなく格好いい気がする」

「カタカナか。よいぞ、トウキで書き直せ」

「え?」

 意外な反応に驚いて牙流雅を見ると、その文字はすっと薄れ、完全な白紙となった。

「局者は持駒もちごまに好きに命名できる。案ずるな、次の現の映盤があれば元の名へ戻る」

 新たな要素に多少面食らいながらも、灯輝は興味が湧いた。机に寄り黒の水性ペンを取りかけ、少し考え筆ペンを選択した。椅子に座ると、白い紙は机の上に寝そべった。

「じゃあ書くよ」

 慎重に一筆目の場所を決め、後はなるべく力強く筆を走らせた。紙には、ガルガ、と刻まれた。

 隣で香天の紙が谷折りになるように、左右の飾りをカサカサと合わせた。拍手らしかった。

「うむ。身の引き締まる思いだ」

 ガルガが言った。

 灯輝はなにか、ペットに名前を付けたような気分になった。

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