第3話

 最後尾なら少しはマシかもしれない。臼杵うすきみどりはそう考え8両目の待機列に並んだが、発車する前に浅慮であることが分かった。しかめっ面の通勤客に圧迫されながら、みどりは一昨日の失敗を思い起こしていた。人工呼吸器の接続でインシデントを起こした。それ以前にも小さなミスが重なっていた。疲れている、でもそれはみんな同じこと。頑張らないと。そう自戒する日々だったが、何のために、という想いが確かに内心に育ちつつあった。看護師になって半年。同期で既に辞めた者もいる。私は向いていないんじゃない、まだ慣れていないだけ、と願いたかった。

 車内アナウンスは人身事故での遅延を繰り返し侘びている。どうして鉄道の人が謝るの、とみどりは思った。車掌さんは何も悪くない。悪いのは―――誰なのだろうか。線路へ飛び込んだ人を責めれば済むのだろうか。今度はその素性を知りえぬ人物へ思いを馳せた。きっと今の私の何倍も何倍も失望して、全部消してしまいたくなったんだ。とっても苦しかったんだ。

 みどりは自分の目に涙が溢れていることに気付いた。こんなことじゃいけない。そう奮った。ミニタオルを取り出そうとしたその時、視界が暗転した。



 重さ、息苦しさ、そして水の流れる音で目を覚ました。凄惨な光景が広がっていた。理解ができず、とにかく身体を動かそうとした。動かない。背を合わせるようにスーツ姿の乗客がみどりの体に覆いかぶさっていた。

「あ、あの…」

 語りかけても反応はなく、どうにか上体を捻り、相手の顔を見た。その首はあってはならない向きへと折れ曲がっており、白目を剥き、口から泡が垂れていた。みどりは息を飲んだ。

 血の匂い、悲痛な声――人の死。それはみどりの日常の一部であったが、慣れなどという作用を容易にかき消す現状がそこにあった。全身が震え、冷たい汗が吹き出してくる。どうしよう。どうしよう。パニック寸前の精神でみどりは考えた。大きな事故が起きたんだ。私はどうしたらいいだろう。意識のある怪我人への応急処置か、違う、まずは事態を外に伝えて助けを呼ばなければ。スマホは……? みどりの手提げはどこかへ消えていた。

 身体を起こし、人間の折り重なる薄暗い車内を見回した。奥へと傾き、先の方は水が流れ込んでいる。川の中にいるのだと分かった時、ほぼガラスの無くなった窓部分から車両へ入ってくるものがあった。そしてみどりを認め近付いてきた。

「私も見つけたわ。あなた、なかなかのものよ」

 浮遊する赤髪の少女はそう言った。



 川面にいくつもの飛沫しぶきが舞った。絶え間なく襲い来る球体を捌きつつ、灯輝とうきは確実に重い打撃をエビのような異形に与えていった。近くで見ると細かな突起や波の模様が施されているのが分かった。これは生物なんだろうか、機械なんだろうか。灯輝の意識から既に事故の惨劇は抜け落ち、自らの闘う謎めいた物体へと集中していた。 

 エビは全身に破損、ヒビが生じ、不穏な霧があらゆる箇所から漏れ出していた。

「奴の余力、いくばくもあるまい。次で仕留める」

 灯輝は深く息をつき、突進の構えをとった。

 灯輝が水面を蹴る前に、エビが後方に跳ねた。3つの球体はそれを上回る速度でやはり後方へと飛んだ。

「む?」

 疑問の声が出る。戦闘の過程で灯輝とエビの位置は入れ替わり、灯輝は川上の方にいた。敵の向かう先は―――

 電車だ。

 灯輝は無声で叫んだ。灯輝の乗った車両、そしてその前いくつかと後続は川に落ちた。だが先頭2車両は脱線しながらも落下を免れ、橋を渡り切る手前で停止していたのだった。

「滅ぶ前にまだ命を奪う目論見もくろみか!」

 灯輝は敵を追って跳んだ。その速度はエビ本体の跳躍を凌駕し、瞬く間に敵手に迫った。右の拳を引き、渾身の一撃を既にめり込んでいる頭部へ放つ。乾いた破裂音が響き、破片が舞った。これで倒した、と灯輝は思った。

「球に間に合わん!」

 乗っ取られた自分の声に初めて焦燥を感じた。3つの球が、まさに2両の車体に突き刺さる瞬間だった。紅い、椅子ほどの大きな花が複数宙に現れ、それぞれの球の突撃を受け止めた。灯輝は呆気あっけにとられたが、花から細い蔓が伸びていることに気付いた。下方へ向かうそれらは一点へ収束していた。落ちた車両の陰から現れた者の袖へ。

 見たことのない女性へ向かって、灯輝は確かに一度聞いた名前で呼びかけた。

「すまぬ香天、やはり一人では危うかった」

 エビと球体は、霧となって散っていった。

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