第2話

 灯輝は水に浸かった衣服ごと、自身が発光したように感じた。夢の中にいるような心地となり、身体が軽くなった。灯輝は川上へ向かって駆け出していた。――水面を。

香天きょうてん、上々の局者を得た! 代われ!」

 自分であって自分でない、灯輝が叫んでいた。

「了解、なんなら一人で倒しちゃってよ!」

 返答したのは、水上に浮遊し、高速で舞う少女だった。朱色の和服と髪の毛、それだけを認識できたが、少女は灯輝の脇をかすめ、後方へ去っていった。それを目で追おうとしたが、灯輝には振り返ることも叶わなかった。再び独り言が聞こえた。

「我らの相手はあの化け物だ、少年」

 異形の存在が、先程少女が乱舞していた先に浮いていた。巨大な黒いエビのよう―――灯輝が淡い思考の内に得た感想だった。幅は1m、高さは2.5mほどだろうか。くの字に曲げた全身はこちらを向いているようだった。その前面に3つのバスケットボールサイズの鈍い光沢を持つ球体があった。正三角形を描くように配置されたそれらは、右回転、左回転を不規則な速度で繰り返していた。

「さて、うつつの局者、我も未だ勝手を模索の途ゆえ、まずは身を委ねてもらう。しばし観覧いたせ」

 自分の言葉の意味を考える間もなく、灯輝は黒エビに向かって跳躍した。3つの球体が刹那、高速で回転し、その1つが灯輝へ向かって砲弾のように放たれた。危ない、そう声を発したつもりが、真一文字に結んだ口から言葉は出なかった。右脚が動き、襲った球体を蹴り、受け流した。一瞬の出来事だったが、自身の動作全てが視覚的に把握できた。依然として希薄な意識の中、目の前で起きている物理的な事象だけは鋭く感覚を刺激してくるのだった。身体はエビに突進する。残った2つの球体が左右に開き、挟み込むように灯輝へ迫る。灯輝の両のこぶしがそれを弾く。そのまま、膝蹴りをエビの頭部と思しき部位へ叩き込んだ。それがどれほどの威力であったのか、エビは水切り石のように川面を跳ねながら飛んでいった。

「フム。合脈ごうみゃく、良好」

 灯輝は軽く息を吐き、呟いた。台詞は一向に理解が及ばなかった。自分はいったいどうなってしまったのだろう。全ては夢なのだろうか。事故も嘘であるならいい。そう考えると…? 灯輝は視界に入る自身の衣服の変化に気が付いた。球を弾いた足、今見えている腕、四肢は己のものだったが、纏っているそれは明らかに学生服ではなかった。白を基調とした、生地の厚い袴のような着物に、複雑な文様が刺繍されているようだった。なんだやっぱり―――

「残念だが、夢幻の類ではない」

声が期待を打ち消した。

「心傷、察するに余りある。だが前を向け、少年。ただそれだけが生きる道ぞ」

身も蓋もない、と灯輝は思った。今の文言だけは伝わるものがあったのだ。

 エビがゆっくりと起き上がった。頭部が大きく陥没し、黒い霧のようなものが漏れ出していた。そこへ3つの球が小刻みに揺れつつ戻る。

 あれは何なの。

 やはり言葉は出なかった。しかし思念で、灯輝は自分に宿った何かに問いかけてみた。

「さて、我にその問いの半分でも答えられるかどうか」

 足は再びエビに向かって歩みだしていた。

「確かなことを言うなら、奴が電車を落とした。あの球体で橋桁を破壊した」

 そんな、と灯輝は強い動揺を示した。あんなものでどうやって。

「頑丈なようだが、なあに、奴本体を破壊すれば付属品も無力となろう。そのためにそなたの身体を借りた」

エビは威嚇するように低い姿勢を取った。灯輝は直感として理解した。まだ何も分からない。それでも。

「そうだ、ありがとう少年。私は味方だ。そして」

 こいつを倒さないといけない。

 エビと灯輝の間合いが詰まった。

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