壁を取ったあと

増田朋美

壁を取ったあと

その日は、朝は寒いくらいだったが、昼間は暑くて日差しがてっていた。それでも山では紅葉が始まったというので、みな紅葉を見に出かけてしまっていた。そういう時に度々話題に出るのが、家事がしんどいということである。それを解消してくれるために、日本では専門的に家事をやってくれる職業が、ちょっとしたブームになっている時代でもあった。

そんな中。製鉄所ではちょっとしたお客が訪れていた。あの国会議員として有名な伊達さつきさんである。

「一体議員さんがここに何の用かなあ?ここは議員さんが来るような場所じゃないと思うけど?」

応答した杉ちゃんは、変な顔で言った。

「そうですが、こういう施設こそ、日本の将来を支える大事な場所だと思いましたので、今日は視察させていただきました。」

伊達さつきさんがそう言うと、

「将来の一票のために、が、本音なんじゃないの?」

と、杉ちゃんは言った。

「まあ、そんな事を言うと失礼になるものですよ。残念ながらこの時間帯、利用者さんはみんな学校に出てしまっていましてね。4時位にならないと帰ってこないんですよね。なので、伊達さんがお願いされていた、利用者さんにインタビューをしたいと言うのはちょっと。」

ジョチさんが、リーダーらしくそういう事を言った。

「そうですか。ではしばらく待たせていただきます。一時間でも二時間でも喜んで待たせていただきますよ。もう本会議も終わりましたし、今日の仕事は終わりましたから。」

そういう伊達さつきさんに、杉ちゃんとジョチさんは驚いた顔をした。

「はあ、物好きな議員だな。」

「とりあえず、利用者さんが来るのを待っていなければなさそうですね。」

ジョチさんと杉ちゃんがそう言い合っていると、製鉄所の固定電話がなった。誰だろうと思ってジョチさんが出た。二言三言交わして、わかりましたと言って、電話を切った。

「一体どうしたの?」

杉ちゃんが言うと、

「はい。鷲尾舞さんが、またやったみたいなんです。お酒屋さんから電話がありました。」

ジョチさんはしたり顔で言った。

「やったって何を?」

杉ちゃんが言うと、

「またお酒を万引きしたようなんです。彼女に取っては日常茶飯事なんですが、まあ、今回は店長さんが気がついてくれたようで、それは良かったんですけど。」

と、ジョチさんが言った。

「今回は、店員さんが送ってきてくれるそうです。それにしてもなかなか治りませんね。彼女の万引きグセ。彼女、重度のアルコール依存症で、なかなかお酒を辞めるのは、難しいですね。」

「そうか。学校に行かせてもだめか。」

「ええ。学校と言っても、通信制の学校ですから、毎日通うという習慣もありません。それでは、酒を辞めるということには繋がらないでしょうね。」

ジョチさんと杉ちゃんがそう言い合っているのを、伊達さつきさんは興味深そうに聞いていた。

「おーい、連れてきたよ。全くねえ、お酒を万引きしようと言うのだから、困るよねえ。病気であっても、うちの大事な商品を盗むのは、困るなあ。それでは、商売にならんから。ちゃんと指導してくださいよ。理事長さん。」

気風の良いお酒屋さんの店長が玄関先にやってきた。それと同時に、若い女性の声で、

「ごめんなさい、、、。」

と言っているのが聞こえてくる。

「ああ、鷲尾舞さんも一緒に帰ってきたんだ。頑張ってお酒を辞めるように、言わなきゃな。」

杉ちゃんは呟いた。ジョチさんが玄関先にいって、すぐに彼女を迎えに行った。このとき、全く困りますななどの小言は言わないことにしている。そのような事を言ったら、返って彼女を傷つけてしまうかもしれない。そういう言い方をすると、彼女が杉ちゃんたちの事を、悪役だと思ってしまうかもしれない。悪役にされてしまったら、信頼を取り戻すのは非常に難しくなる。

「まあ、今回は、店長が連れてきてくれたからまだいいか。それより、なんでお酒をそんなに浴びるように飲んじまうんだろうな。お酒飲んだって、ろくな事ないだろ。こないだも、虫が見えるとか、そういう事を言って、大暴れしたのは、どこの誰だっけ?」

杉ちゃんはでかい声で言った。

「ごめんなさい。この事は、母には言わないでください。」

と、鷲尾舞さんは涙をこぼしていった。

「なんでお母さんには言わないの?」

杉ちゃんが聞くと、

「だって、また。」

と、鷲尾さんは言った。自分でも、彼女は彼女なりに苦しんでいるのだろう。酒を辞めるという意思はあるようであるが、どうしても酒の快楽が欲しくなって、お酒を飲んでしまうのである。それに、壁に虫が大量に這っていると言って、大騒ぎをしたこともあるし、ヤクザが襲ってくると言って、大騒ぎをしたこともあった。幸いその日は影浦先生が来てくれて、すぐに落ち着かせるために注射を打ってくれたから、ものを壊すなどはなかったけれど。

「はあ、お母ちゃんにえらく叱られたか。」

と、杉ちゃんは言った。鷲尾さんは、ハイと頷いた。

「まあ、そうですね。お母さんが頭ごなしに叱るだけではなくて、彼女の言い分を聞いてあげないことは、問題だと思いますね。確かに、母一人小一人の家庭ですので、お母様が疲れて帰ってきたときとか、怒鳴られても止めてくれる役がいないというのは、母子家庭ならではの問題ですよね。最近は、学校の先生や友達も、止めてくれる役にはなってくれないことも多いんだと思いますけどね。」

ジョチさんは、泣きはらす彼女を眺めながらそういう事を言った。

「そういうことなら。」

と、不意に伊達さつきさんが言った。

「うちの娘のめい子を女中としてそちらに行かせましょうか?最近、家事スキルを生かして、家政婦紹介所に登録をしたんですよ。」

「へ?めい子さん、家政婦さんになったの?」

と、杉ちゃんが言うと、

「ええ。そうです。あの子、なにか仕事をしたいってずっと言ってたんですけど、資格も何も持ってないし、やらせたことは家事手伝いしかできませんし、それなら、その家事を武器にすればいい、そういう生き方も、できるからって私が言って、家政婦紹介所に登録させました。おかげで、今は、何軒かの家で働かせてもらっています。ちょうど、今のお宅が引っ越すことになりまして、今、めい子はどこにも言っていませんから、ちょうど良いですよ。すぐにめい子に話して、そちらに行かせますわ。あの子、水商売はしたくないって言ってましたから、仕事が見つかって喜ぶのでは無いかしら?」

と、伊達さつきさんが言った。

「そうですか。確かに、話し相手が居れば、彼女も落ち着くかもしれませんしね。じゃあ、お願いしましょうか。」

ジョチさんがそう言うと、

「わかりました。じゃあ、明日にでも行かせますので。」

伊達さつきさんはにこやかに言った。それでは、伊達めい子さんが、鷲尾舞さんを手伝うのは、明確になった。伊達めい子さんは、明日製鉄所で、鷲尾舞さんと対面することになった。

そして翌日。

鷲尾舞さんが、いつもと同じように製鉄所にやってきた。やはりお母さんに叱られてきたらしい。お母さんも、ジョチさんが言う通り、頭ごなしに怒鳴ってしまうのは、ちょっと問題がある。お母さんが、もう少し寛大な人なら、鷲尾さんはお酒を飲まなかったかもしれない。

「こんにちは、今、伊達めい子さんが見えました。今、応接室にいますから、彼女と話をしてください。彼女、ぜひ、あなたのお役に立ちたいそうです。話し相手になることもしてくれますし、一緒に買い物などにいってくれることもしてくれるそうです。」

ジョチさんは、そう言いながら、鷲尾舞さんを応接室に連れて行った。応接室のドアをがちゃんと開けると、杉ちゃんが、伊達さつきさんの娘さんである、伊達めい子さんと話をしていた。伊達めい子さんは今までの長髪をバッサリ切って、ショートヘアになっていた。そして、化繊の着物を着て、家政婦さんらしくエプロンをつけていた。

「はじめまして、伊達めい子です。母の紹介で、こさせていただきました。これからは、私が鷲尾さんのお手伝いをします。よろしくおねがいします。」

にこやかにそう笑う彼女は、なんだか以前製鉄所に来ていたときのように、おどおどした感じではなかった。彼女は、なにか自信が着いたのか、少し前向きになってくれたのか、堂々とした顔つきをしている。

「じゃあ、鷲尾さん、相談事や、悩み事を話したり、一緒に買物に行くとかしてください。くれぐれもお酒はだめですよ。」

ジョチさんは、鷲尾さんに言った。鷲尾さんはすこし考えて、

「じゃあ、二人でカフェとかそういう事できますか?」

と、聞いてみた。

「もちろんです。私はそのために来たんですから。じゃあ、すぐに行きましょう。文化センターの近くにあるカフェで良いですか?それとも他の店に行きたいかな?私、こう見えても障害者手帳を持っているので、バスの運賃も多少安くて済みますわ。」

そういうめい子さんに、

「ヘルプマークを持っているようには見えませんね。」

と鷲尾さんは言った。

「ええ。でも、それがあるから、いろんな割引が効いたりして、随分オトクな生活をすることができますから。何も恥ずかしいことではありません。」

めい子さんはそう言って、じゃあ、私達、行ってきますと、カバンを取った。ジョチさんが、じゃあよろしくおねがいしますと言って、彼女たちを、玄関先まで連れて行った。

「それでは行きましょう。私は、車の運転免許を持っていないので、どうしてもバスになります。富士市は、バズが充実しているからいいですね。」

そう言って、めい子さんは、バス停でバスを待った。鷲尾さんは、バスで行くのは、初めてですねといった。いつも、母の車でしか外出しないんですという。10分くらい待って、バスが、やってきた。めい子さんはバスに乗り込み整理券を取った。鷲尾さんもその通りに整理券を取る。そして、バスに乗って20分ほどして、文化センターに到着する。二人は、そこで降りた。整理券を運転手に見せて、ついでに障害者手帳も出して、バスの割引運賃を支払って、バスを降りた。

カフェは、バス停からすぐのところにあった。とりあえず二人は座席に座らされて、コーヒーを注文した。コーヒーを飲みながら、鷲尾さんはなにか考えていたようである。

「どうしたの?何かあったんですか?」

と、めい子さんが聞くと、

「皆さん、随分楽しそうに、お食事したり、できるんだなあと思って。うちなんか一度もしたことが無いんですよ。あたしが学校に行って帰ってきても、母は仕事で、いなかったですもん。」

と、鷲尾さんは言った。

「お父さんとは、なにかわけがあったの?亡くなったの?」

めい子さんがそう言うと、

「ええ。亡くなってはいないと思います。ですが、母に言わせれば、あんな人消えてくれれば良いと言ってました。なんでも、急に家に帰らなくなって、多分、母は外に女を作ったんだと言っていましたが、私はよくわかりません。小さかったから。でも、あたしは、多分それは真実だったんだろうなと思います。それ以降、母は男のおの字もないほど、男性を嫌っていましたから。」

と、鷲尾さんは答えるのであった。

「だから、母が一生懸命働いてくれて私を育ててくれたから、それに対して反抗はできませんよね。母が、私の事をすべて担っていたんです。」

「ちょっとまって!」

鷲尾さんの言葉を遮って、めい子さんは言った。

「母が、母がと言っているけど、あなたはどうなの?あなたは、お母さんについてどう思っているの?」

「え、、、。」

鷲尾さんは困ってしまった。

「あたしは、あなたのお母さんの事を聞いているわけじゃないわ。あなたの気持ちを聞いているのよ。」

「そんな事わかりません。あたしがどう思うかなんて、そんな事、考えたこともありません。母は、あたしにご飯を食べさせるために、一生懸命働いてくれて、そうしてくれた人だから、あたしは、それを嫌だなんて、考えたことはありません!」

鷲尾さんはえらく戸惑った表情で言った。

「あなた、何でも母が、母がというじゃない。そうじゃなくて、あなたがどう思っているのか教えてちょうだいよ。」

めい子さんがそうきくと、

「そんな事、そんな事、考えたこともありません。私にとって母は、ご飯を食べさせてくれる大事な存在で、それに逆らおうなんて考えたことも無いです。」

と鷲尾さんは言った。

「本当は、あなた、お父さんがほしいとか、お母さん以外に自分の話を聞いてくれる人が、欲しかったんじゃないの?それは、悪いことじゃないのよ。子供であれば当然のこと。だから言ったってよかったのよ。お母さん、もっと私の方を見てって。」

めい子さんがそう言うと、

「そんな、そんな、お母さんは、あたしの事ちゃんと見てくれたし、あたしの学校の話だって聞いてくれたし、授業参観にも来てくれたわ。だから、お父さんがほしいなんて考えたこともなかった。寂しいだなんて思ったことも無いわ。それなのに、それ以上の贅沢はなんで望まなくちゃならないの?」

鷲尾さんは、困った顔でそういうのである。

「あたしだってそうだったわ。父がいなくて、母があれほど大物だと、みなお母さんのことを、考えろばっかり言うじゃない。お母さんの名前を傷つけるなとか、みんなお母さんのことばっかりで。お母さんが、すごい事をやってるからとにかく邪魔しないように。そればっかり言われてきたわ。逆を言えば、お母さんの子供だと言うことで人に恨まれることだってあった。でも私のお母さんであることに変わりはないから、あんな大物でも、私のお母さんなんだっていう気持ちで、受け入れることにしたの。その代わり、私は、同じことで悩んでいる人の手助けをしたいと思ったわ。同じことを悩んでいる人の話を聞いてあげて、実現はできなくとも、気持ちを楽にしてあげられるようになろうって。」

めい子さんが優しくそういうと、

「あたしのお母さんは、国会議員じゃないわ。そんな有名人でも無いんだし。それとはぜんぜん違う。あたしは普通の家庭。だから、あなたのお母さんとは違う。あたしは、あなたと同じ悩みを持ってるなんて、そんな事、考えたことも無いわよ。」

鷲尾さんは、涙をこぼしながら言った。だんだん、彼女の口調が荒々しくなっていて、多分、感情が湧き上がってきたのだと思われた。めい子さんは帰ろうかと言って、彼女を立たせ、カフェの店員さんにお金を払うと、タクシーを呼んで製鉄所に帰った。連絡を受けたジョチさんと杉ちゃんは、彼女が間違いなく酒を飲みたいと言い出すと思ったので、それを回避されるために、竹村優紀さんに電話した。竹村さんは、すぐ行きますと言ってくれた。

鷲尾さんとめい子さんが製鉄所に帰ってくると、竹村さんが縁側でクリスタルボウルを布巾で拭いているところだった。白い、風呂桶のような形をしたクリスタルボウルという楽器は、どういう作用かは不明だが、音で精神を安定させることができるという。めい子さんと鷲尾さんが縁側に行くと、竹村さんは、マレットを取って、ゴーンガーンギーンとクリスタルボウルの縁を叩き始めた。それは、とても音量があって、考えるのをやめさせる作用があった。鷲尾さんはクリスタルボウルの音を聞きながら、ペタンと、縁側の床に座り込んでしまった。

ゴーンガーンギーン、とても優しい音だった。考えるのを止めて、自分の体の存在に気づかせてくれる音。それを聞き続けていると、やがて鷲尾さんの表情は少し和らいできた。

ゴーンガーンギーン。音は、彼女を癒やすことに成功した。鷲尾さんは、涙をこぼして泣き始めた。さすがにお酒が飲みたいという気持ちにはならなかったらしい。竹村さんがマレットを置くと、鷲尾さんはパニック状態がかなり緩んでくれたようで、涙をこぼしてすすり泣いていた。

「大丈夫ですか?」

竹村さんは、小さな声で言った。

「ええ、何も考えないで、自分の気持ちに正直になることができました。何も考えないで自分の感情を思うがままに感じてみて、私は、本当に寂しかったんだとわかりました。」

鷲尾さんは、小さな声でそう呟いた。

「やっぱり、一人でずっといたのは、寂しかったのね。お母さんが、一日中働き詰めで、家にいなかったのが寂しかったのでしょう?そのあたりの事は、これから、ここに居る竹村さんでも、その他の治療者の方々でも、その人にちゃんと話すことよ。それは、お母さんもあなたも悪いわけじゃないわ。にんげんだもの。仕方ないことなのよ。」

めい子さんは、そう言って鷲尾さんを励ました。やっぱり、そういうことが言えるということは、国会議員の娘という感じだった。竹村さんはその言葉に感心している様子だった。

「あたしがすることは、そういう橋渡しかな。一応あたし、家政婦という事になっているから、専門的な治療はできないけど、そういう治療をしてくれる人は、いないわけじゃない。だからあたしがその架け橋になれば良い。そう思ってるわ。」

めい子さんは、自分にできる事というか、天職を見つけたようである。

「あたし、あたし、お母さんからいつも、あたしがほしいものとは違うものを持ってくるから、本当は、すごく嫌だったの。あたしは、お母さんに、」

「そうなのね。少しづつ、そこのあたりも話せると良いわね。」

めい子さんがそう言うと、竹村さんが、いや、今言わせてあげましょうといった。めい子さんがそうねというと、鷲尾さんは今まで溜め込んで来たものがクリスタルボウルの音によって、崩れ去ってしまったのだろうか。いきなり感情を丸出しにして、こういい始めたのだった。

「あたし、あたし、お母さんに、本当は、3500円のご飯ではなくて、マクドナルドが食べたかった!お母さんは、見栄を張ってあたしを、そういうところには連れて行かなかった!」

「わかりました。わかりましたよ。」

竹村さんが、彼女の方をそっと叩いて言った。

「お母さんが見えを張っていたのが、お辛かったのでしょう?」

鷲尾舞さんは、力なく頷いた。それを眺めていた杉ちゃんとジョチさんは、本当に母親と娘さんというのは難しいんだなとため息をついた。



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壁を取ったあと 増田朋美 @masubuchi4996

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