ディアボルス・エクス・マキナ

らきむぼん/間間闇

【問題編】ディアボルス・エクス・マキナ


献辞

――――三〇年の創作に



ディアボルス・エクス・マキナ

間間闇


Omphalos Bullet

by

AWAI MAYAMI

2022



目次

ディアボルス・エクス・マキナ

匣の外の光景

君は夏の雪と消えた

零  葬送

一  幻視

二  Nevermore

三  緑鴉荘

四  犯人当て

五  チェーホフの銃

六  ホームズとモリアーティ

七  信頼できない語り手

八  パノプティコン

九  恋は盲目

十  友情

十一 白昼夢

十二 手がかり

十三 不在証明

十四 無風

【読者への挑戦】

十五 死人を起こす

匣の外の光景

あとがき



誰も発砲することを考えもしないのであれば、弾を装填したライフルを舞台上に置いてはいけない

アントン・チェーホフ



匣の外の光景


 喫茶「U. N. Owen」の店内はほとんど無人に近かった。平日の昼下がりともなれば、そういった喫茶店もあるだろうが、どうしても物悲しさを禁じ得ない。

 そんな中で、ひとりの高校生が最奥の席に座っている。今回、倉木泰崇が呼び出した少年だ。倉木は不自由な左足を引きずりながら、彼のほうへと歩みを進める。少年はこちらに気づき、読んでいた小説の原稿をぱたんと閉じてテーブルの隅に置く。

 表紙には『君は夏の雪と消えた』とある。作者名は倉木泰崇。そう、少年は倉木の依頼で一作の推理小説を読んでいたのだ。

「お待たせ」

「お久しぶりです、倉木さん」

 少年は利発そうな、美しい顔をしていた。前に見たときから少し大人びた気がする。倉木は少しばかり緊張していた。

「呼んでおいて妙な言い種だが、学校はいいのか?」

「ええ、今日は自主休校です。ところで、その足、『これ』のときの?」

 少年は先ほどまで読んでいた原稿を指差す。倉木は引きずる足を器用に浮かして、木製のチェアに腰掛けた。

「いや、君も知っていると思うけれど、熱りが冷めたあと残されたメンバーで追悼会をしたんだが、行きの車が崖から落ちてね。これはそのときの後遺症だ」

「本当はあなただけは遅れて現地に向かうはずだったんですよね。それが急に一緒の車に乗ることになったとか。あなたが無事だったと聞いて心底安心しましたよ」

「まあ、俺以外はみんな死んでしまったがな。あの件があってから、俺は脚本家を志すのをやめたんだよ。小さな演劇部だったが、どこかルーツのように思ってたんだろうな。だから、仲間がいないのに続けようとは思えなかった」

 倉木はまるで他人事のように言う。彼は高校時代に演劇部に所属していた。しかし、のちに「緑鴉荘事件」と呼ばれる事件を発端に仲間を失った。その仲間の追悼会で、さらに自分以外全員を失ったのだ。

「それで、いまは小説家先生ですか」

「あの事件のことを忘れたくなくてね。事件の真相は、俺と仲間たちの秘密だったんだが、今はそれを語り継ぐべき関係者はいない。・・・・・・君以外はね」

 倉木は少年を見つめる。この少年こそが、あの事件のことを詳しく知る、唯一の人物だ。そして彼に読ませたこの推理小説の原稿こそが、倉木が実際に経験した緑鴉荘での殺人事件を克明に描いたものである。

「これが姉の死の真相ですか?」

「もう最後まで読んだのかい?」

「読みました。推理小説としては楽しませてもらいましたよ。けれど、さすがによく知る人物が出てくるのは胸が痛みますね」

「・・・・・・君の姉の死については、納得できたかい?」

「そうですね・・・・・・。僕の知らないことばかりが書かれていました。しかし、これを僕に読ませて、倉木さんはどうしたいのですか?」

「目的なんてないよ。さっきも言ったが、もう君以外にこの事件の真相を伝える相手はいない。君にとっては知りたくないことかもしれなかったが、観測者のいない物語などに価値はないからな」

 倉木はそう言うと、やってきた店員にアイスコーヒーを注文する。少し目を離して、再び少年に目を向けると、彼は堪えきれないと言う様子で顔を手で覆っていた。

 急な感情の発露に一瞬ゾッとしたが、すぐに彼は元の様子に戻った。それがあまりに機械的で、倉木は自分が一連の光景を幻視したのだと感じた。

 あの事件以降、倉木は絶えず幻覚を見ていた。

「なるほど・・・・・・。ねえ倉木さん、この作品について、いくつか僕の考えを述べても?」

 真摯な目が、そこにあった。少年の表情に、彼の姉の生前の姿が重なって見える。思わず、反応が遅れてしまう。緊張が最高潮に達していた。

「ぜひ、聞かせてくれ。君はこの物語を、どう観る?」



君は夏の雪と消えた

倉木泰嵩


THE SUN VANISHED

by

KURAKI Yasutaka

2015



緑鴉荘略図

https://kakuyomu.jp/users/x0raki/news/16818093088710058080



登場人物


新藤早人しんどうはやと    演劇部三年

本堂閑華ほんどうしずか    演劇部三年

寺島里央てらしまりお    演劇部二年

永井圭一ながいけいいち    演劇部二年

倉木泰嵩くらきやすたか    演劇部三年。元・文芸部。

城ヶ崎美南じょうがさきみなみ   演劇部三年。元・文芸部。



余計な情景描写や、脇道に逸れた文学的な饒舌は省くべきである

S・S・ヴァン・ダイン



零  葬送


 長い鯨幕が続いていた。

 性急な凩が、石畳を撫でつける。風の旋律の弱拍をとるように、乾いた木の葉の擦れる音が響いた。それはまるで足を引きずって雪の中を歩く自分を夢想させる。地を這うようにして一様に木の葉の群れが行進する。無機質に並ぶ会葬者と同じだと思った。俺たちもまた、それぞれが木の葉の一枚に過ぎない。唯一違うとすれば、俺たちが殺人事件の容疑者として奇異の目にさらされているというただ一点だけだ。

 色彩のない祭壇の中央に、少女の遺影が掲げられている。この場には、あの事件の現場にいた人物が揃っていた。ただ一人、本堂閑華を除いて。棺に眠る彼女の最後の舞台がこのような形で執り行われたことは、俺にとって禍根を断つ契機でもあった。胸の奥で噛み合っていく歯車の音が幻聴となって聴こえてくる。この音のせいでずいぶん長いこと眠れていない。

 そぞろに焼香を続ける弔問客に混じりながら、遺族に目をやる。彼女によく似た目を固く瞑る父親の隣で、利発そうな少年が学ラン姿で座っている。その視線の先を追うと、壁にシンプルな装飾の時計がかかっている。しかし、おそらく彼は時計を見ているのではなく姉の死を受け入れられずに虚空を見つめているのだ。亡き彼女から弟の話はよく聞いていた。優しい少年なのだろう。

 視線を少年に戻すと、彼と目が合った。俺は、思わず目を背ける。閑華が死ななければ、この少年とは別の出会いかたをしていただろうか。



一  幻視


 二〇時を過ぎ、街に闇が跋扈する。遊具の取り払われた小さな公園のベンチに、たった一本しかない照明の光が差す。逆光で四人がシルエットになって並ぶ。彼らのずっと背後で彼岸花が鮮烈に紅く咲いていた。

彼岸花には、多様な名前がある。葬式花、墓花、死人花、そして幽霊花。俺は夕陽に霞む彼岸花の群生の中に、白いワンピースの少女を幻視した。彼女の背後から、血染めの絡新婦が腕を絡ませる。少女は抵抗もせずにただ抱かれていた。絡新婦は背後から回した腕を少女の眼前に上げる。掌に赤い蜘蛛のような花弁が乗せられていた。彼女はそれを徐ろに食んだ。俺は身震いがして、視線を四人のシルエットへと戻す。

全員が、あの日「緑鴉荘」にいた人物だ。そして、全員が俺の高校の演劇部員である。俺たちはあの日、廃業したばかりのペンションを貸し切って次の公演に向けた合宿をしていた。高校最後の「夏」の思い出を作るはずだった。もう俺たちが全員で「夏」を迎えることはない。その事実が、影を一層濃くするようだ。

「泰嵩、四人だけで話したいことって?」

 男の影が言う。平坦な語調だが、不機嫌さは感じない。なにか重要な話があることは、この場の全員が察している。だから、彼らは俺の呼びかけに応えたのだ。

「斎場で話すには憚られる内容だったから改めて集合してもらった。ゴシップ記者なんかが紛れていたら事だ。それに『彼女』の前では話したくなくてね」

「それって……」

 女の影が震える声を小さく発する。にわかに空気が張り詰めた。その声で、一同は今日集められた理由を暗黙のうちに察したようだ。

「緑鴉荘事件の真相を話したい」

「なあ泰嵩、もういいんじゃないか? いまさらあの事件のことなんて……」

「いや、だめだ。このままではお前たちの役者としての未来にも影が差す。この事件は、俺が終わらせる」

 俺が静かに諭すと、誰かが息を呑むのが判った。沈黙が覚悟を示していた。

「あの日起きたことを、もう一度確認したい」

 そうして俺は、物語をかたる。「夏」の雪とともに消えたひとりの少女をめぐる物語を。



二  Nevermore


「少し寒いね」

 バスから降りてひとつ伸びをした白い長袖のワンピースの少女――本堂閑華は肩より少し長い黒髪を揺らしながら、自然に語りかけるように言った。朝の光が後光のように彼女の輪郭を煌めかせる。俺は少しだけ彼女に目を奪われて硬直する。遠くの木々がざわめいていた。風の足音がする。

 すぐに「夏」らしからぬ風が吹き抜けた。それは冷蔵庫を開けたときに足元に降りてくる冷気を想起させ、ジャケットを着ていた俺でさえ一瞬体を震わせた。あとから知ったが、その日は冬のような気温の低い一日だったらしい。

「上着貸そうか?」

「ううん、十五分くらいで着くし、だんだん暖かくなってきてる気もするからいいや。ありがとう」

少し遅れて、バスから四人の友人が降りてくる。

 俺と閑華を入れて、全部で六人。乗客はそれで全員だった。空になったバスはあっという間に遠くに走り去り、見えなくなった。それをなぜかみんなで見送って一瞬の静寂が訪れる。すると思い出したかのようにずっと鳴いていたはずの蝉の声が聞こえ始める。

「神が五秒前にこの世界を創造した」という説を論理的に否定することはできない、という話を思い出す。先週のオリンピックの凱旋パレードも百年前の明治天皇崩御も、すべて五秒前に創られた記憶だったら。さっき吹き抜けた風が、記憶や歴史、蝉の声とともにこの「夏」を形作ったとしたら。そんな妄想が頭を過る。

「さて――」静寂を破る声が現実を呼び戻した。

ちょうど俺が「夏」を思い出した頃合いで彼女は続ける。

「――合宿の始まりだね」

 短くも長い二日間の物語が始まる。それが悲劇の幕上げであるとは、誰も気がつかぬままに。



「ねえ、あたしたちが泊まるのってどんなところ?」

 遊歩道の先頭を歩く小柄な少女がくるりと振り向き、ショートカットの髪先が慣性で遅れて振れる。器用に後ろ歩きをしながら、彼女は子供のような表情で声を上げた。

 寺島里央。黒髪の短い髪に、目鼻立ちがくっきりとしたあどけない顔立ち。小柄な体躯も相まってまるで幼い子供のような印象を受けるが、実際は三年の俺とはひとつしか年の違わない演劇部の二年生だ。

「あなたね、もう閑華が何度も説明したでしょ」

 呆れたように後輩を諭すのは、城ヶ崎美南。彼女は後ろ歩きを続ける里央の横まで進み出ると「前向きなさい」と腕をとる。美南は里央よりも頭ひとつ背が高く、二人が並ぶとまるで姉妹のようだった。涼やかな困り顔は彼女のトレードマーク。俺は彼女のことはよく知っている。こうやって後輩を叱っていても、それは彼女の友人思いな性格に裏打ちされたものだ。

俺と美南は、もともとは文学部に所属していた。後輩の入部がなかった文学部は、俺たちが三年になると先輩たちがいなくなり、たった二人の風前の灯火となってしまった。そこで俺と美南は以前から脚本を提供していた人員不足に悩む演劇部に吸収される形で演劇部員となった。いまでは美南は演出家兼大根役者、俺は脚本家兼同上である。卒業寸前で芝居を始めることになるとは思わなかった。

「まあまあ美南、何度でも説明するから」

 そう美南をなだめたのは本堂閑華。彼女を一言で言い表すならば「太陽」だ。絢爛さと清廉さとが同居している。輝いて見えながらも逆に喪に服すような静寂を纏い、その様子は皆既日食を連想させた。ひとりでいるときは天からの言葉を聴いているかのように厳かだ。その美しい佇まいは、清廉さを通り越して神聖さを感じさせるが、それ故にその場の雰囲気とはかけ離れた一種の異質感を醸し出している。その異質さは彼女の透けるような白い肌も相まってどこか退廃的で儚げにも見える。そういった外部からの印象は彼女の性格の一部を的確に示しているが、一方で誰かと相対して会話をしているときには子供のような仕草や表情を見せることもあり、そのレイヤーの幅はそのまま彼女の演技にも表れている。

そんな彼女は我が演劇部の看板女優であり、俺が心から尊敬する存在だ。だが、彼女はきっと来年には高校生の演劇では手の届かない領域にいってしまうだろう。だからこそ、今回の脚本は彼女に演じてもらえる最後の機会だ。確実に成功させたい。

「これから泊まるのは『緑鴉荘』と呼ばれる廃ペンション。『廃』といっても、営業をやめたのはほんの一週間前。このペンションは私の伯母が持っていた不動産だったから、管理の空白期間に当たる今は自由に使えることになったの。だから私たちの貸し切りよ」

「リョクア?」

 俺は聞き慣れない言葉に思わず反応する。美南の言うように、閑華は何度か今回の合宿の話をしていたが、ペンションの名前は初めて聞いた。

「ミドリにカラスで『緑鴉』よ。緑はペンションの裏庭に広がる木々や草原が由来のようだけれど、鴉は……実際に見たほうが早そうね」

 閑華は視線を斜め前に向ける。釣られるように俺たちも同じほうを見ると、次第に視界を遮る木々が薄れていき、館が姿を現す。それは外壁がすべて真っ黒に塗られ、まるで巨大な鴉が羽を広げているかのようだった。一見すると何階建てのペンションなのか判らないが、一階部分と思われるフロアの窓とは別に、正面の上部に四つの窓があることから、二階建てだと判断できた。

深緑の中に佇む大鴉。その異物感がかえって豪奢な造りであるように思わせる。

「まるでミステリに出てくる館だ」

 俺はいささか不穏な言葉をつい漏らす。隣にいた青年が同意するように頷く。

「ずいぶん高級そうっすね。やめちゃうのがもったいないな」

 彼は永井圭一。やや赤みのかかった短髪と色素の薄い肌、ゆるく着た大きめのシャツに短パンと、少年じみた格好だが、こう見えても演技は素晴らしい。幼少の頃から演劇に携わっていたらしく、二年生ながら芸歴は一番長い。役になりきりどんなキャラクターも卒なくこなせるのは彼の特技といえるだろう。

「私も詳しくは知らないけれど、悪い噂が立ってね。客足が減って、逆に変な客が増えてしまったとか」

 閑華は少し残念そうに言う。しかし、どこか他人事のように聞こえた。実際のところ、伯母の不動産にそこまでの愛着はないのだろうか。

「Nevermore」

 最後尾から、低く通る声が響く。

「ポ―か」と俺はすぐさま返す。エドガー・アラン・ポーの詩『大鴉』では恋人を失った学生と思われる主人公が人語を話す大鴉に精神を乱されていく。そのとき大鴉が話す言葉が" Nevermore "である。

「主人公は最後には発狂し、大鴉の影の中でその言葉を叫び続けることしかできなかった。ペダンチックな誰かがそれになぞらえて妙な噂を流したのさ」

 そう語るのは新藤早人。飾り気のない黒髪はやや長く、切れ長の目に少しかかっている。中性的な顔立ちに長身で、無地の白シャツを着ているだけなのにずいぶんと洒落て見える。彼は俺と同い年の三年生で、我が部では主役を演じることが多い立役だ。

 早人は続ける。

「昔、緑鴉荘で人が死んだという。深紅のドレスを着た少女だったそうだ。彼女は大病を患ってこのペンションで静養していた。しかし病は少女の体を蝕み続け、ある夏の日に少女は自ら命を絶った。部屋で首を吊った彼女の手には風鈴がぶら下がっていたらしく、死体が発見されるまで風鈴は死体の揺れに呼応して何度も鳴り響いた。それ以来、緑鴉荘に泊まった客は時折風鈴の音を聞く。その音を聞いて生きて部屋を出ることは『二度とない』という」

「よく知ってるね、早人くん」

 閑華は掌を合わせて感心する。

「私、怖いからその話しないようにしようと思ったのにな」

「くだらない怪談だろ?」

 早人は気にした様子もないが、里央は顔を真っ青にしていた。怪談話への耐性の無さがはっきりと判る。

「なんでそういうの言っちゃうの? 信じられない、これで実際に風鈴があったら、あたし泣くから!」

「里央ちゃん、憑かれそうだから気をつけてね」

 圭一が余計なことを言って、里央は半分泣き顔になっていた。それを受けて閑華が苦笑する。

「しかし今の話、風鈴の登場が少し唐突だな」

 俺が気になったところを指摘する。もしやこの部分は早人の創作かと疑っていた。

「僕に言うなよ。こういうのは元の話からどんどん変わってしまうものだろ。それに、倉木泰嵩『先生』の脚本では出てこない発想じゃないか? 実話っぽくていいだろ?」

「まあ、それもそうだ。俺なら意味のない小道具は出さないからな」

 俺と早人がそんな会話をしていると、閑華がくすりと笑ったような気がした。遊歩道は折れ曲がり、緑鴉荘の正面へと真っ直ぐに続くアーケードを俺たちは進んだ。



三  緑鴉荘


 緑鴉荘はK県の山間部の麓にて、雄大な自然の中に佇む二階建ての洋風建築だ。ほとんどこのペンションのために設置されたと思われるバス停から数分歩くと、林を切り開いたような遊歩道の入り口があり、その道は広大な土地を四角形に切り取るようにして敷かれている。その四角形の内側が緑鴉荘に付随する「庭」に当たる部分で、その大部分は一般公開されている「後庭」である。後庭は切り揃えられた草原と疎らに植えられた木々で構成された自然公園のようであり、ところどころに国内の彫刻家が寄贈した前衛芸術が設置されている。それらを満喫するための小道が複雑に巡らせられ、自由に休憩と鑑賞ができるように多くのベンチが並ぶ。一時は全国誌の雑誌にも特集され、宿泊客以外にも多くの利用客がいたという。一方、緑鴉荘の正面部と外周の遊歩道とのわずかなスペースが前庭であり、宿泊客の憩いの場である。こちらにはシンプルに美しい植物が展覧され、客は優雅なひとときを過ごせたという。

 営業が停止してからわずか一週間だというが、「夏」の植物たちは野放図にその領域を拡大していた。俺はアーケードを取り囲む自然にいささかの「意志」を感じ、退廃の萌芽に美しさを感じていた。軍艦島などの廃墟が孕む一種の有機性の残り香のようなものが、これから時間をかけて広がっていくのだ。

 眼の前まで来ると、退廃を憂う大鴉は六人の高校生を歓迎するように静かに佇んでいた。まるで影に取り込まれるような心地がしたが、他のメンバーは変わらずに雑談を続けている。いつまでもポーを重ねて雰囲気に浸っているのは俺だけらしい。閑華は鞄から鍵を取り出すと、アーチ状に組まれたレンガに嵌め込まれた木製の一枚扉を解錠する。

 リィン。

 扉が開かれると同時に美しい金属音が大きく響いた。

「きゃああああああ!」

 ……同時に甲高い悲鳴も響く。

「急になに? 里央」

 美南が呆れ顔で里央を睨む。

「風鈴あるじゃない! ひどい!」

 なにがひどいのか解らないが、たしかにあの怪談のとおり風鈴は存在し、それは扉に括られていた。風鈴はおそらく俺たちがおよそ想像していたであろうガラス製のそれではなく、金属製の風鈴だ。音はかなり大きく、緑鴉荘の広さであればだろう。つまり、これはドアチャイム代わりというわけだ。

「雰囲気づくりのためにチャイムを使ってないの。怖いなら取るけど、紐を切らないと外せないかな」

 閑華が苦笑しながら里央の頭を撫でる。どうやら少々楽しんで黙っていたきらいがある。

「いいよ、取ったのに音が鳴ったら余計に怖いもん……」

 里央は少し怒った様子で早人を睨んだ。お前のせいだと言わんばかりの視線だが、当人はどこ吹く風で口角を上げた。

早人と里央、この二人は幼馴染だ。

 里央が幼少の頃、自宅のベランダから落下しそうになったことがあると聞いたことがある。掃除中に突風に煽られたらしい。そのときに間一髪で体を引き上げて守ったのが一緒に遊んでいた早人だったとか。それっきり里央は二階程度の高さでも窓に近づけないほどの高所恐怖症だという。

それからずっと一緒に進学して高校生になったというのだから、そこには二人だけの関係性がある。この言葉のないコミュニケーションは、俺にとって少し印象的だった。

「先輩がたは怖くないんすか? こういうの」

 ロビーラウンジを見渡しながら、圭一が水を向ける。

「俺は怖いよ、普通に。実際の話ならな」

 率直に言う。俺は神秘的なものを否定しない。ただ、今回の話は少々に過ぎるか。「早人は?」と、そのまま元凶に話を振る。

「僕はそういうのは別に。ただ、実際に目の前にそういうものが現れたら、きっと怖いとは思うが」

 歯切れの悪い言いかただった。おそらく圭一が肝試しでもしようなどと言い出さないかと思い、一瞬言葉を選んだのだろう。

「ふうん」

 面倒なシナリオは杞憂に終わり、話題は緑鴉荘内部の案内へと移っていった。ロビーラウンジの内装は全体的にウッド調で、柔らかなイメージだ。外観が鴉のような仰々しい様であるのに対し、内装は全体的に白の色調が目立つ。そのコントラストは宿泊したものにしか判らないだろう。家具はテーブルとソファ、そして小さな本棚が二つだけとシンプルだ。そこまで広い造りになっていないのが、逆に落ち着きを演出している。簡易的な談話室のようにもなっているようだ。

「時間はたくさんあるから一度自分で見て回るといいけれど、簡単に説明しておくね。まずここがロビーラウンジ。西側にあるドアはトイレ。そしてそのまま正面にある観音開きの奥がホールよ」

「ホールがあるのは珍しいね」

 美南がそう相槌を打つ。たしかに、この緑鴉荘には小さなホールがあるのだ。なんでも元の持ち主は劇作家だったという。それが閑華の親縁の話なのか、さらに遡った持ち主の話なのかは定かではないが、ともかくこのペンションはホールがあり、それが今回の合宿会場として採用された理由でもある。

「私たちレベルの小規模な演劇部の練習なら十分な大きさね。ただ、今回は『特殊な脚本』らしいから、出番はまだ先かな。ね、泰嵩くん」

 閑華がこちらに笑みを向けた。特殊な脚本、といえばたしかにそうだが、その形式そのものはありふれたものだった。閑華にそうハードルを上げられてしまうと、どうにもやりにくい。俺は先に期待を下げておくことにした。

「ただ犯人がわからないってだけのミステリだよ」

「え、どういうことっすかそれ」

 圭一が興味津々な様子で顔を寄せる。

「まあ詳しくは部屋割りのあとで、な」

 俺はそうして軌道修正すると、閑華に説明を促す。

「緑鴉荘は二階建てだけれど、ホールの部分は一階建て。ちょうど嘴のように北側の後庭に向けて突き出している形ね。それで、ホールの入口の前は東西に伸び廊下がある。玄関から見て左手には順に美術小道具倉庫とシャワー室。右手には階段と食堂、食堂の奥にはキッチンがある。廊下を挟んで食堂の前には裏口があって、そのまま屋根つきのアーケードが真っすぐ伸びている。途中で途切れ目がたくさんあるから、自由に後庭に入っていける」

 軽く廊下を見渡すと、緑鴉荘が想像よりずっと小さな建物であることが判る。奥行きはそれほどなく、おそらく六人の宿泊は定員ギリギリだ。美術小道具倉庫と食堂の前に、観葉植物が置かれているのが見え、モダンな雰囲気を醸していた。

 簡単に各部屋を覗くと、食堂やシャワー室は基本的に同じような内装の延長だった。統一感が取れていて、設計者のこだわりを感じる。一方、当たり前ではあるが美術倉庫は倉庫然としていた。棚にいくつかの装飾品や衣装、小道具の類が並べられている。どうやら半ば物置として扱われていたようで、梯子や工具まで置かれていた。ホールの屋根の掃除やペンションのメンテナンスに使われていたと思われる。

 それから俺たちは閑華に誘導され、二階へ上がった。二階はホールの真上に当たる部屋が存在しないだけで、基本的に同じ大きさのフロアだ。構造もおよそ同じで、一階のロビーラウンジに当たる部分は談話室となっており、廊下とは仕切りがなくテーブルと椅子があるだけの簡素な作りとなっている。談話室の西側には一階と同じようにトイレが隣接していた。廊下はやはり東西に伸びており、それぞれ両翼に三部屋ずつ部屋がある。一階の廊下と同じような位置に観葉植物が置かれていた。

「部屋割りは、男子が東側で女子が西側。どの部屋も客室で、窓一つとベッドと机くらいのシンプルな部屋ね。シャワー室は部屋にはなくて共用だから一階のを使ってね」

「……?」

 俺はにやや違和感を覚えた。しかし、その正体には思い至らず、事前に決められた部屋割りが説明されるのを聞いているうちに思考は流れ去ってしまった。

 割り当てられた部屋は、男子は奥から俺、圭一、早人。女子は奥から閑華、里央、美南の順だった。

「それじゃあ、荷物を置いたら少し休憩して、八時にホール集合で。いいかな?」

 全員の合意が確認されると、そのまま解散となった。スマホで時間を確認すると。現在は七時二〇分、まだ朝だななどと考えると、俄然眠気が押し寄せてくる。やや体がふらついて階段の手摺を掴むと、木製の持ち手部分と壁とを接続する金属の部品が軋んで嫌な音がした。一瞬ヒヤリとしながらも、俺は荷物を持って最奥の自室へと向かった。



 客室は閑華の説明どおりだった。扉を開けて入室すると、左手に机、右手にベッドがある。部屋は十畳ほどの広さだろうか。洋室なので広さがわかりにくい。

 扉にはツマミを回して施錠するタイプの内鍵がつけられている。今回は身内の合宿ということもあり、外から閉めるための鍵は誰も携帯していない。すべての鍵はラウンジに保管されている。

 壁にちょうど一個ハンガーがあったのでジャケットを掛けると、持ってきた荷物を簡単に整理する。合宿の日程はさほど決まっておらず、何日も連泊する可能性もあった。少なくとも長期休暇の間に十月開催の文化祭用の短編を劇作として完成させるつもりだったので、缶詰になってもいいようにノートパソコンやボイスレコーダー、小型のビデオカメラなどは充電器と一緒に持ち込んである。以前にデータが消えたこともあったのでバックアップ用の機材にも余念はない。

 空気が少し淀んでいたので、カーテンと窓を開ける。強い朝日が差し込む。「夏」を感じる緑の香りが室内に広がった。今日は台本を渡して簡単に脚本の確認をしたら、各自自由時間とする予定だ。遊びに来たわけではないのだが、今回書いた脚本の性質上、せめて一日は没頭する時間が必要だった。運ばれてきた緑の香りは、後庭の草原や木々から生まれくる自然の息吹だ。日中は外で散策をするのも良さそうだ。

 部屋で少しばかり休憩し約束の時間が近づいたので、俺は窓とカーテンを閉め、ジャケットを羽織ると、部屋の電気を消す。遮光性が高いカーテンなのか、強烈な朝日は遮られ、まるで太陽が消えてなくなったかのように室内は夜へと変わった。



四  犯人当て


 ホールは想像していたよりもずっと広く、アマチュアの演劇には十分だった。これを短期間の短編制作だけに使えるなんて贅沢に思えるほどだ。まるで吹き抜けのような天井の高いワンフロアで、壁には木製の吸音素材が張られている。白く塗装された壁や床は、異空間の趣があった。

二階談話室前の廊下には大きめな窓がある。そこからホールの屋根を覗く限りでは緩やかな傾斜でフロア全体を覆う切妻屋根だったのだが、窓枠近くの高さまで屋根が到達していたことを思い出す。そもそも緑鴉荘は屋根が比較的高い。外から見て実際よりも大きく見えたのはこの天井の高さが原因だろう。内と外との目算からして、ホールの高さは約四メートルといったところか。

 午前八時。俺がホールに入ると、すでに全員が揃っていた。簡易ステージの前に長机を引っ張り出して、六人が並ぶ。

「お待ちかね、倉木泰嵩『先生』の新作のお披露目だな」

 早人が軽口で迎える。茶化しているが、実は一番好みが合うのが早人だ。映画や小説の趣味はかなり近く、今回の脚本の仕掛けをどう評価するかは気になるところ。

「泰嵩先輩、『犯人がわからないミステリ』って言ってましたけど、どういうことなんすか?」

 圭一が待ちくたびれた様子で続ける。俺はハンガーラックにジャケットを掛け席に着くと、ボイスレコーダーの電源をオンにして机上に置く。

「そのままだよ。今回、俺は解決編のシナリオを明かさない。真相を知っている俺だけは登場人物としてロールプレイするが、あとのメンバーは誰が犯人役なのか知らないまま演じてもらう。それだけじゃない、全員が『自分が探偵役かもしれない』と思いながら謎に挑んでもらう。つまり、探偵と犯人の配役、そして真相すらもわからない脚本だ」

 俺は今回の脚本をそう説明しながら、用意した資料を配布する。そこには事件のあらましと、その真相に至るために必要なすべての描写が記述されている。シナリオをわかりやすく表現した小説版も作成してあった。

 受け取った部員たちはそれぞれ食い入るように資料に目を落とす。俺と同じ演劇素人の美南が不安そうに顔を上げた。

「これ、実際問題、演劇として成立するの?」

「無理だろうな。だからまあ小説版と同じような振る舞いをしてもらうことになる。だが、資料にある描写さえ確実に演じてもらえれば、小説のセリフは完全に再現する必要はない。参考程度に取り入れて、あとは持論の推理や指摘をしてもらって構わない」

「被害者は?」

「いい質問だな。今回は殺人事件を扱っている。事件の被害者が部員から出てしまったらその配役は退場になってしまうから、そこは別のキャストを用意している。そうだな、閑華?」

 目配せすると、閑華は大きく頷く。

「そのキャストは、来年うちの高校に入学して演劇部に入部する予定なんだ」

 ミステリアスに微笑する閑華。それと対照的に、身を乗り出して興味を隠さない里央が言う。

「え! 誰ですか? 知ってる人? 校長先生とか?」

 そんなわけないだろ、とツッコむ早人を横目に、閑華は少し照れくさそうに答える。

「弟よ。ちょっとだけ演劇やってて。体験入部って感じかな」

「あっ、何度か公演に来たことあったよね。そっかぁ、楽しみだな」

「ところで」

 美南が質問を続ける。

「探偵役もわからないってことは、最終的に誰も探偵になれずに迷宮入りしたらどうするの?」

「それについては考えがある。今日一日は資料の読み込みに使ってもらう。それで明日にでも一人ずつ俺に推理を聞かせてくれ。それを聞いて、より真相に近い推理をした人物には探偵用のシナリオと資料を渡す。もし、誰も真相に至らなかった場合は、俺が探偵になる」

「そうか、泰嵩は真相知ってるわけだから、それでいいのね。ということは、探偵役は決まってないんじゃなくてこれから決まるってこと?」

 合点がいった様子で美南は確認する。彼女の言うとおり、探偵役は彼らの推理によって決定する。だから俺は今日一日で分岐シナリオの調整をするわけだ。

「そのとおり。面白いだろ? これに近いフォーマットのゲームは、最近では海外で人気が出ているらしい。日本ではまだほとんど見かけないけど、テーブルトークRPGの根強い人気や『汝は人狼なりや?』が人狼ゲームとしてはやりだしているところを見ると、国内のブームも近いかもな」

 探偵役はまさにヒーロー、今回の主役だ。推理に成功すれば主人公となる。みんなの顔色が変わるのが判った。

「いいね。演劇の準備がそのまま推理ゲームになるなんて、推理小説と演劇の融合ね。私たちに相応しい」

 閑華はそう言って余裕の表情で資料を眺める。果たして、彼女はどんな推理をするのだろうか。

 それから約一時間は、シナリオの読み込みや、設定や演出の意見出しなどのミーティングとなった。次第に方向性は定まっていき、このあとは予定どおり各自自由に推理をするということに決まる。

「それじゃあ、一旦解散ということで。明日の推理発表を楽しみにしてるよ。もちろん明日を待たずに解答をしに来てもらっても構わないが、そのときはこっそり頼む」

 俺はそう言ってミーティングを締めた。解散となると各々が荷物をかたづけ始める。俺も荷物を整理して、ジャケットを着る。その際にボイスレコーダーを床に落としてしまった。床の色と同化して探すのを手間取っていると、他のメンバーは次々と退出していく。

「探してるの、これ?」

 床を探す俺の頭上から声がして顔を上げると、閑華がボイスレコーダーを拾ってくれていた。

「あ、それだ。ありがとう」

 俺は彼女から受けとったレコーダーをジャケットのポケットに放る。

「ねえ、このあと話さない?」

「いいけど。なに?」

「なにってわけじゃないけれど、話したくなって。後庭で散歩でもしながら、ね」

 断る理由もないので同意する。ちょうど後庭を散策しようとしていたのでちょうどよかった。



五  チェーホフの銃


 裏口から伸びるアーケードは、遊歩道から玄関に続くものよりもずっと長い直線の道だった。この直線のアーケードは屋根に覆われており、雨を凌げる造りになっている。ただし、後庭を自由に歩き回るにはアーケードの切れ目から枝分かれする小道に進まねばならず、その枝分かれした小道には屋根がないので、もし雨が降ったら後庭の散策には傘が必要だろう。

 俺と閑華は、小道を進んでいた。所々に大木が陰を作っており、ベンチが設置してある。彫像を見かけると、その度に二人で感想を言い合った。体に風穴の空いた人型の彫像や、金色の板にデスマスクのように人間の顔が彫られたものなど、前衛芸術のようなものも多く、特に美術の教養のない俺たちは苦笑しながらも不勉強を反省した。

「今回の脚本、面白いね」

 なにもない道が続き、閑華は先ほど公開したシナリオについて話し始めた。

「君は真相、わかりそう?」

「そうね……『デウス・エクス・マキナ』ではないんだよね?」

「『機械仕掛けの神』か、ミステリにはそぐわないな」

 デウス・エクス・マキナは古代ギリシアの演劇で物語に収集がつかなくなったときに機械仕掛けを用いて登場する、物語を文脈なしに丸く収めてしまう神の役に由来する用語だ。当時から、ご都合的な解決をしてしまう神の登場には賛否があったという。

「たとえばホラーでは、伏線もしっかりと回収し論理的に解決したかに思われた呪いが、理不尽にルールを無視して襲いかかって『呪いはまだ終わっていない』というエンディングになることがあるが、ああいった手法はミステリには使いにくい。もし隕石が地球を破壊して結末がわからないミステリがあったら読んでみたいものだが、普通は非難されてしまうだろうね」

 俺の話に彼女はクスクスと笑う。閑華はミステリに少し詳しい。俺もミステリが好きだから、この話題は楽しかった。

「まあそうだよね。特に今回は犯人当てミステリだもんね。じゃあ、『ノックスの十戒』や『ヴァン・ダインの二十則』が守られているの?」

「いや、もともとあれはそこまで厳格に守られる設計のものじゃないからね。時代は進んでいるから、いまは『チェーホフの銃』も再考を迫られている」

「意味のない描写は描くべきじゃないっていうあれかな?」

 彼女が言ったのは、要約としては正しいと言える。「チェーホフの銃」とは、ロシアの劇作家であり小説家でもあるアントン・チェーホフが書簡などで述べた指針だ。「」という言葉が残っており、物語を書く者にとっての根本ルールのひとつとして数えられる。つまり、特異な描写はその後に伏線として必ず意味が生じるはずであり、意味なく特異な状況を描写することは好ましくないというわけだ。

「このルールは『機械仕掛けの神』よりもずっとミステリに相性がいい。ミステリの論理的解決には、ノイズは少ないほうがいいからね。俺は自身の作品にはこのルールに最も重きを置いている」

 緑鴉荘の怪談に意味のない「風鈴」が登場したことに違和感を覚えるのは、まさにこの思想に基づくだろう。

「再考を迫られているっていうのは?」

「たとえば、物語に車椅子を使う足に障害を持ったキャラクターがいたとする。そういった場合に多くの物語ではその障害がストーリーにかかわるような演出をする。たとえば障害の理由となった事故がトラウマで、それを乗り越えるシナリオや、差別やいじめとの戦いなんかがそうだ。逆に、そういうシナリオが必要とされないときに、障害を持ったキャラクターは登場しない」

「なるほど……それはつまり、障害は『特異』だから、なにかシナリオの伏線として登場するべきで、そうでないなら障害者はキャラクターに要らない。そういうルールになりかねないってことね」

「他にもある。身近なところでは、学生が主人公の物語に両親が登場しない。科学捜査が望まれないミステリに警察が登場しない。LGBTが登場するときはそれを特異とし、そうでないなら登場しない。……キャラクターに関してだけでこれだけ問題が提起できる」

「それって、結構窮屈だね……」

「そうかもしれない。でも、本質は自由だよ。人間にはこの手の障壁を乗り越える創造性があると俺は信じてる。最近は普通に車椅子のキャラクターもLGBTのキャラクターも出てくることが多いし。『特異』と『伏線』はイコールじゃない。それが肝要だと思う。そこにあって当然の事象と、なにかに使われるために配置された事象、その境界なんて最初から曖昧なんだ。だから、普通じゃないモノ・コトが多様性として許容されていく現代では、伏線はその言葉の持つ本来の性質である『あとから伏線であると気づかされる』という本質に回帰していくだろう」

 言いながら、少々熱く語りすぎたかと反省する。閑華の表情を盗み見ると、目が合ってしまった。

「えっと……なに?」

 こちらを見つめる閑華の瞳に、俺が映っている。いまだに、彼女がなにを考えているのかわからないことがある。神の言葉が、神職者にしかわからないように。

「ううん、なんでもない」

 微笑を返す閑華。数分の沈黙、無音と静寂が交互に訪れる。冷えた風がひと吹きすると、彼女はアニメのキャラクターのようなくしゃみをした。

 俺は着ていたジャケットを彼女の肩にかける。

「しばらく借りるね」

 その言葉と表情に遠慮を感じなかったのが少し嬉しかった。距離が近づいた気がする。

「風邪ひくなよ」

 まるで冬が始まるかのような冷気だった。いままで夏だと思っていたのがすべて妄想だったかのように、急速に季節感が狂っていく。

「そういえば、弟のことありがとう」

「弟? ああ、被害者役の。美南から、君が弟の入部を不安がってるって聞いたからさ。むしろ変な役回りでごめん」

 閑華の弟をキャストに入れることを提案したのは俺だった。もちろん必要があったからだったが、閑華が弟の入部がうまくいくか、つまり来年三年になる里央や圭一と馴染めるか心配そうにしていたと聞けば、気を回すのも当然だ。

「助かるよ。あとで美南にもお礼しなくちゃね。昔から、美南は私のことを真剣に考えてくれるんだ。私は両親がいないから、弟のことは相談できる人が美南しかいなくて。美南も片親で弟がいるから、親身になってくれるんだ」

 閑華と美南は幼馴染みだ。文学部が演劇部に吸収されたのも、もともとこの二人の交友があったという部分が大きい。俺が閑華をまるで信仰するかのように神聖視しているのも、美南に誘われて閑華主演の公演を観劇したのがきっかけだった。

「もしかして、緑鴉荘はもともとは君の両親の持ち物だったのか?」

「どうして?」

「なんとなく」

「今は伯母さんの持ち物だけど、もともとはお父さんの別荘だったんだ。ほら、ホールがあるのは元の持ち主が劇作家だからだって言ったでしょ。その劇作家がお父さん。私が子供の頃に、自殺したんだって」

 彼女は特に表情を変えることなくそう言った。辛いはずのエピソードだが、もう乗り越えたのだろうか。それとも、時がすべてを風化してしまったのか。

「そうか……って、あれ?」

「気づいた?」

「あ、いや、その……」

「早人くんが言っていた緑鴉荘の怪談、実はいろいろ混ざっちゃってるんだ」

 閑華はそう言うとおかしそうに笑う。そういえば、あのときも閑華はどこか他人事のように怪談を扱っていた。

「大病を患った少女っていうのは、私のお母さんのことだと思う。少女って歳じゃなかったはずだけどね。お母さんは結局病気で亡くなって、それをきっかけにお父さんは自殺した。エドガー・アラン・ポーの『大鴉』の主人公は、恋人を失った青年であるとされているから、お父さんはそれと自分とを重ねて、たった一言だけ遺書を残したらしいんだ。その言葉が" Nevermore "だった。その噂がなぜか都市伝説として広まって、年月を経てああなったみたい」

「そうか……なんというか、事実は小説より奇なりというか。じゃあ、本当に風鈴は関係ないのか」

「そもそも、あの風鈴はペンションの前経営者に私が提案してつけたものだから。多分だけど一番新しく追加された要素だと思うよ」

 意外な真相に思わず緑鴉荘を顧みる。あの一種の異様な雰囲気はまるで解けた氷のように消えていた。もちろん悲しい事実に違いはないが、当事者の閑華がふっ切れた様子なのが幸いだ。

「二人だけの秘密、ね」

 閑華が悪戯に微笑する。ほんの少しだが、彼女のことが解った気がした。



六  ホームズとモリアーティ


 正午を少し過ぎて、有志のメンバーで食事の準備が始まった。里央と圭一が後輩だからと気を遣って調理を進めていたらしい。閑華は散策のあとは別行動をしており、俺は緑鴉荘に戻るタイミングで合流した早人とともに食堂のテーブルに料理を並べていった。途中で風鈴の音がして、外から戻ってきた美南と閑華を呼び入れる形で結局は全員で準備を進める。そのままの流れで食卓に集合し、昼食となる。

「あのさ、おれさっき見ちゃったかも」

 昼食をとりながら、圭一が真剣な顔を作って言う。

「見たって、なにをだ?」

 早人が代表して聞く。この文脈ではおおよそどんな話が出るかは予想でき、俺と閑華は密かに顔を見合わせる。

「風鈴を持った女の子っすよ。ほら、ちょうど美術倉庫にあった赤い服みたいなのを着た……」

「じゃあ、誰かがそれ着て歩いてたんじゃないか?」

 そっけない返事の早人を見て、圭一はつまらなそうに料理をつついた。ターゲットにならないと踏んだのか、全体に向けて怪談口調で話し始める。赤い服はきっと血に染まったのだだとか、風鈴はちょうど緑鴉荘のものに似ていただとか。くだんの怪談ではそもそも流血してないだろう、などとツッコミを入れたかったが、野暮に思えたので静かに聴くことにした。

「ちょっと、やめてよ~」

 里央が本気にして怖がっていたが、隣の美南は退屈そうに肘をついている。閑華はというと、さすが女優。見事に怖がって見せていた。それが演技だと知っている俺からしたら、その演技力にむしろ感心してしまう。

「それより、みんな推理は捗っているか?」

 食卓を囲む五人の顔を見比べる。閑華と早人は涼しい顔を見せていたが、他のメンバーはうまくいってなさそうだ。

「正統派の犯人当てだと思っていいの?」

 多少はミステリに詳しい美南はそもそも解ける問題なのかを疑っているようだ。文学部時代に書いた小説にはとてもフェアとはいえないものもあったから、それも当然の反応だろう。

「一応、今回は考えれば解けるようにしたつもりだよ」

 美南はそれを聞いて納得したようだったが、なぜか圭一が「えーー!」と声を上げた。

「なんだ?」

「じゃあ、ホームズとモリアーティが同一人物みたいなのはないってことっすよね……」

 この後輩はずいぶんとマニアックなネタを知っているものだ。シャーロック・ホームズは言わずと知れたコナン・ドイルの名作だが、そのマニアであるシャーロキアンの間では昔から囁かれている説がある。それがホームズとそのライバルのジェームズ・モリアーティが同一人物であるというものだ。

「ないない。そもそもその説だって、シャーロキアンが作品の矛盾や隙をついて作り出した面白半分の解釈に過ぎないよ。たとえばモリアーティには二人の兄弟がいる、とかね。彼らはみんな同じジェームズ・モリアーティという名前だから、影武者説や三つ子説、複合性説なんかがある。その亜種に、モリアーティがそもそも存在しないというものもあるんだ。なぜなら、モリアーティが登場するのはワトソンが書いたという体の物語ではなく、ホームズの語る伝聞においてだからだ。つまりモリアーティはホームズの台詞の中にしか登場しない」

「さすが、詳しいっすね先輩。じゃあモリアーティはホームズの作った架空の犯罪者ってことですか」

「それも諸説ある。ホームズが二重人格だとか、妄想だとか、創作話だとか。一番とんでもないのはマッチポンプ説だろうな。ホームズには犯罪者の側面があり、自ら犯罪界のナポレオンであり続け、その犯罪の一部を名探偵として解き明かす。彼が名探偵であるのは、すべての謎を自らが作り上げたから、なんてな」

「……で、それは今回のミステリにはない、と」

「まあ、そこまでトリッキーなことはしない」

 だが、それはそれで面白いものになるかもしれないと思わないでもなかった。この後輩はときどきこういった面白いアイデアを出すことがある。

 そのあとも、何度か質問を受けたりヒントを出したりなどして、長めの昼食を終えた。

午後の活動にそれぞれが戻っていく。食堂から出て、しばらく廊下を歩いたところで、後ろから閑華がそっと俺の手を握り、意味深な笑みを投げかけて階段を上がっていった。俺はその意味がわからずに、ただ呆然と彼女の後ろ姿を眺めていた。そして握られた手に違和感を覚える。

「ホームズとモリアーティ……か」



七  信頼できない語り手


 十七時を過ぎた頃、閑華のスマホからグループメールが届いた。内容は、「風邪をひいたみたいだから夕飯はパス、しばらく寝るので心配しないで」という旨のものだった。少しして里央から「なにかあったらすぐに呼んでね」と返信が届く。

 誰かが廊下を歩く音が聞こえ、部屋の扉をそっと開けると、自室の扉を後ろ手に閉める彼女の姿を見た。

 閑華のことが少し心配になったが、彼女の元を訪ねてもなにが変わるわけでもない。俺は「解決編」の調整をもう一度冷静に見直すため、外で風にでも当たることにした。

 階段を下っていると、下階から圭一が上がってきた。

「あ、先輩、どうしたんすか」

「ああ、ちょっと風に当たろうかと」

「やめたほうがいいっすよ、結構寒くなってきてるんで。閑華先輩もたぶんそれで風邪ひいたんですよ」

 そう言う割には、彼は片手に脱いだ上着を引っ掛けていた。ただ、たしかに室内でも涼しさを感じるほどに気温は落ちてきている。

「そうだな、まあただの気分転換だからすぐに戻るよ。他に誰か外にいるのか?」

「さあ、おれと早人先輩はさっきまでホールにいたので。早人先輩は先に自分の部屋に戻ったと思いますが、女性陣はどうでしょうね」

「一時間くらい前に後庭で閑華と里央は見かけたけど」

 俺はふとそのときの光景を思い返す。なにか真剣に議論しているような様子だったように思う。……いや、あれは議論というよりも口論のような。遠目に見かけただけなので、二人は俺には気づかなかったようだが。

「まあ、もし美南が近くにいたら戻るように言っておくよ」

 いくつか言葉をかわして、俺はロビーラウンジの鍵置き場に視線を向ける。一階が無人になるなら戸締まりしたほうがいいのだろうか。しかし、美南がまだ外にいる可能性もある。どうせ夕飯で食堂に集まるのだから不要だろう。

 玄関の扉を開けると、やや強まった風が吹き込んでくる。風を切る音のみが耳朶を打った。



「信頼できない語り手って線はどうっすか?」

 圭一はよく焼かれたステーキを一口頬張り、もごもごと口を動かす。俺はデジャビュを感じつつ、あえてだんまりを決め込む。

「痛いところを突かれて無視ですか、先輩」

 この男はどうも食事中に話題を提供することに義務を感じている節がある。

「……お前な、忘れているかもしれないが明日は個人で推理を発表するんだぞ。自分の発言が他の人へのヒントになるかもしれないぜ」

「あ、そうか」

 しまった、という様子で「うーん」と唸り声を上げる彼はどこか道化じみていた。どうやら推理は迷走しているらしい。

 同じく芳しくない進捗の里央は、ミステリには全く詳しくない。ぽかんとした表情で首を傾げる。

「信頼できない語り手?」

 彼女のつぶやくような声に応えるように、美南が解説する。

「物語には語り手がいるよね? 一人称視点の小説で、その語り手の言葉が信用できない状態であることを、叙述技法のひとつとしてそう呼ぶの」

 正確には三人称視点でも発生しうるが、レアケースなのでここは指摘しないでおく。

「たとえば?」

「たとえばって……それは難しい質問ね」

 美南は困った様子で考え込む。信頼できない語り手による語りが技法として成立するのは、それによってサプライズがもたらされることが多いからであって、それはすなわちネタバレに近いということになる。見かねた早人が横から助言する。

「芥川の『藪の中』だったらわかりやすいだろ。ある事件について、登場人物が全員少しずつ違う証言をする話だ。つまり、誰か一人以外が嘘をついているか、全員が嘘をついていることになる。この真相はいまもだ」

「『羅生門効果』ってやつだな」

 俺が思わず口を出す。

「『藪の中』なのに『羅生門』?」

 案の定、里央と圭一が口を揃えて同じ質問をする。

早人が俺を睨んだ。

「泰嵩、話をややこしくするなよな。まあ深く考えなくていいよ。他にも三大奇書の一冊『ドグラ・マグラ』なんかは、狂人による語りという形式をとっているから、これも信頼できない語り手だな」

「まあ、今回の犯人当てがそうだとは言わないが、信頼できない語り手の類型整理なんかをやったら面白いかもしれないな」

 俺はこの話題をそう締めた。この調子でミステリのパターンを網羅されると、どうにも都合が悪い。

「そういえば、閑華先輩は大丈夫かな」

 里央が独り言のように言う。

「軽い風邪ならいいけどな」

「うん……」

「なにかあったのか?」

 俺は彼女の不安な表情が気になり、そう尋ねた。彼女と閑華の口論が気になった。

「ううん、べつに。少し前に先輩の部屋に行こうとしたんですけど、誰かと話してたみたいだからやめたんですよね」

「まあ、明日にはきっと元気になるだろ。もし起きてきたらなにか簡単に食事でも作ってやろう」

「そうですね」

 里央はもしかしたら閑華と喧嘩をして、それを謝りに部屋を訪ねようとしていたのかもしれない。彼女の笑顔に混ざった心配そうな表情から、そんな想像をする。

 夕食があらかた終わると、全員でかたづけをして、ノンアルコールワインでちょっとした晩酌もどきをする。その後は創作論や演劇論などを少々熱く語り、初日の晩餐は二十時近くまで続いた。



 喉の乾きを覚えたが自室に飲み物がないことに気づいたのは、食堂で解散してからやや時間が経ってからだった。面倒なので、このまま寝てしまおうかとも思ったが、まだ脚本について考えたいこともあったので、食堂に戻ることにした。

 部屋を出て階段の前まで来ると、そういえば夕方に戸締まりをしようか迷ったことを思い出す。ちょうどいい理由もできたので、飲み物を持ってくるついでに戸締まりをしてしまおう。そんなことを考え一瞬立ち止まると、不意に背後から強い衝撃が襲った。

 なにかに押し出されるような感覚とともに階段の宙空に飛び出した俺は、反射的に手摺を掴む。それと同時に木製の手摺は固定金具を弾き飛ばすように折れた。

 次の瞬間には、俺の体は階段を転がり落ちていた。全身への痛みが遅れて脳に到達し、まるでノベルゲームのバッドエンドのように視界がぐにゃりと歪む。朧気な意識の中、踊り場から見上げた視線の先には、赤い服を着た女が立っていた。視界が霞み、それが誰なのか、焦点が定まらない。しかしただ一つ、その女が風鈴を持っていなかったということはなぜか記憶に深く残った。

 数秒か数分か、判別のつかない時間が経過し、友人たちが駆けつけるのがわかった。上階から早人、圭一、里央、少し遅れて下階から美南。彼らの到着を認識したところで、俺の意識は途絶えた。



八  パノプティコン


 世界の中心に在ることは、神性の象徴だ。宇宙の中心には太陽があり、すべての源は太陽の輝きにある。

 かつて、我々の大地は太陽よりも中心にあった。デミウルゴスは、世界の中心で万物をデザインし、すべての源であるとされた。

 かつての神は常にすべてを見ていた。パノプティコンのように、全方位を監視する神の目。世界の物語は神によって創造された。

 太陽とデミウルゴス、どちらが真の神なのだろう。

 雪が降っていた。闇の中で、深く深く積もっていく。まるで太陽が死んでしまったかのように。

 あり得ない。夏に雪が降るなんて。



 客室の小さな窓から、地に雪が積もっているのが見えた。夜の闇に紛れてその深さは判らないが、それはたしかに雪だった。俺はさっきまで見ていた不思議な夢の続きを見ている気分になる。夏に降る雪……ある作家のミステリ小説が連想された。ドアの向こうから複数の足音が聞こえ、俺は空想の世界から呼び戻された。

 ドアが開き、照明のスイッチを押す音がする。じわりと光が広がり、仲間たちの姿が現れる。閑華以外の全員が入室し、部屋は急激に狭くなった。

「起きてたのか」と早人が代表して言う。

「さっき起きた。一時間くらい気絶してたのか。全身が痛いよ」

 早人は呆れたように少し笑う。里央と圭一も苦笑している。美南はというと、不思議そうな表情で壁を凝視していた。彼女がなにを気にしていたのか気になったが、そのまま話は流れていく。

「だろうな。なにがあったか覚えてるか?」

「ああ、階段から落ちた。参ったよ、たぶん左足をやった」

 俺は怪我を見せようとして、顔を顰めた。重症だと察して、早人が俺の動きを制止する。

「横になってろ。あまり動かないほうがいい。頭も打ってるかもしれないし」

「すまん、しばらく動けなそうだ。立つのも歩くのも難しいだろう」

 合宿初日でこれでは、活動に支障が出る。考えるだけでも青ざめる思いだった。

「それ大丈夫なんすか? 骨折してるかもしれないですよ。救急車とか呼びましょうか」

「いや、とりあえず今日は様子を見るよ。心配かけて悪いが、そもそもあの様子じゃ……な」

 窓の外を見る。大粒で綿のような雪が、無数に舞い降りていくのが見える。

「ああ、お前が寝てる間に雪が降り出してな……すでに何センチも積もってるんだ。今日はもう外に出るのは難しいだろう。明日にでも病院に連れていければいいが」

 早人は心配そうに窓辺から外を眺める。

「あたし、氷持ってくるね」

「私も」

 里央と美南が退室する。

「泰嵩先輩、もし具合が悪くなったり用事があったりしたら、深夜でもいいんでメールしてください。早人先輩かおれはすぐに駆けつけられるようにしとくんで」

 あまり後輩に頼りたくはなかったが、圭一の言葉に甘えることにした。怪我の度合いを想定するに、ここは素直に安静にしておくべきだろう。

「助かる。……そうだ、閑華には怪我のことは黙っておいてくれ。心配させたくない。明日会ったら説明するから」

「了解です」

 それから里央と美南が戻ってきて、ベッド横に氷を準備してくれた。

「あとは自分でやるよ。いろいろありがとう」

 何気なく解散の雰囲気を出す。これ以上、彼らに迷惑をかけるのも悪い。

「泰嵩、その格好で寒くない? なにか上に着るもの出そうか?」

 美南にそう言われて、俺はずいぶんと薄着なことに気づく。それと同時に、稲妻に打たれたかのようにニューロンが発火するのが判った。階段から落ちた瞬間からのほんの少しの時間の記憶がフラッシュバックする。些細な気づきだったが、それは重要な気づきだった。

「どうかした?」

 美南の声で思考は中断される。

「いや、なんでもない。そんなに寒くないから上着はいいよ」

「わかった。でもカーテンは閉めておくわ。今夜は冷えるだろうから」

 彼女はそう言ってカーテンを閉める。

友人たちが部屋を退室していくと、静かな夜が訪れる。早鐘のように鳴る心臓の音だけが、うるさいくらいに響いていた。



 二十二時を過ぎた頃、まだ雪はおさまる様子もなかった。冷気が室内に充満し次第に外気との差を縮めていく。

閑華の様子が気がかりだった。会いにいこうかと一瞬思ったのだが、自分がほとんど自力では動けない状況にあると思い出す。

パソコンをベッドの上に引っ張り出し、捻挫や骨折について検索する。腫れや発熱は遅れて症状が出ることもあるらしい。いまは無理をせず、状況の悪化を警戒して安静にするのが無難だろう。

眠気がやってくるまで、考えをまとめることにした。先ほど思いついたアイデアを整理したかった。

ベッド脇に移動した鞄から黒色のスピーカー付ボイスレコーダーを取り出し、パソコンにデータを移動する。併せて、俺はスマホを取り出した。ロック画面の写真は、以前に閑華が主演を務めた公演の千秋楽で撮られた一枚だった。俺と閑華が隣り合って並んでいる。この公演は、俺が初めて提供した閑華のための脚本を彼女が演じたものだ。俺にとっての誇りでもあり、大切な思い出のひとつだ。

パスコードに自分の誕生日を入れる。開いたスマホの中のデータに目を通す。綿密な脚本には、綿密な記録が必要だ。俺は体の痛みが気にならないほどに作業に没頭した。



九  恋は盲目


「泰嵩、起きてる?」

 短いノックと同時に声がした。廊下から聞こえるそれは遠慮がちで、小さな呼びかけだったが、美南のものだと判った。

「起きてるよ、入って」

 入室した美南は、日中は身に着けていない眼鏡をかけて、ラフな格好に着替えていた。シャワーを浴びてきたようだ。そういえば、この「怪我」じゃシャワーも浴びられないな、と思う。

「どうかした?」

 俺はベッドの上で膝においたノートパソコンを畳みながら、そう尋ねる。

「どうって、様子見に来ただけ。調子は?」

「足は痛むが、いまはそれくらいだな」

「そう」

「みんなの様子は? 変わったことでもあったか?」

「特には…………いや、そういえば」

 美南は思い出すように少し天を仰ぐ。相変わらず眉間を寄せる彼女の表情に、愛らしさを感じる。

「こう見ると、美南ってきれいだよな」

「は? なによそれ」

「なにって、誉めてるんだけど」

「……ありがとう」

 さらに困った様子で眉間を寄せる彼女は照れたように視線をそらした。

「それで、なにかあったのか?」

「……ああ、うん。風鈴がなくなっていて」

「風鈴? あのバカでかい音がするドアチャイムの?」

「そう。私と里央は十六時過ぎ頃からラウンジにいて、そのときは確実にあったんだけれど」

「でも、どうして」

「さあ、だってあれって固く結んであったでしょ。それが根本から切ってあって。だから、確実にいたずらだと思うんだけれど」

「そんなことしたってしょうがないだろ?」

「まあね」

 彼女の話を聞いて、階段から落ちたときに見た光景を思い返す。あのときに見た赤い服の女は風鈴を持っていなかった。もしあれが幻影ではなく実在の誰かであるならば、その演出のために風鈴を持ち去るということも考えられるかもしれない。しかし風鈴を持っていなかった以上、やはりあれは俺が見た幻影なのだろうか。

「ところで、泰嵩は『中国語の部屋』って知ってる?」

「ジョン・サールの思考実験か。知ってるよ。中国語を解さない男が部屋に閉じ込められる。男には部屋の外から中国語の質問が書かれた紙片が渡されるが、その意味は当然解らない。男の仕事はその紙片に対し、別の中国語をつけ加えて部屋の外に返すことだ。どの中国語に対してなにをつけ加えるかはマニュアルが用意されており、男が返す紙片は実は中国語の質問に対する返答になっている。男はマニュアルに従っただけで中国語は理解していないが、外から見ると中国語を理解して返答をしているように見える。つまり、この実験の意図はチューリング・テストの反論であり、人間と区別のつかないAIができたとしても、それは内部のプログラムがマニュアルになっているだけで、AI自身が人間の心を理解しているわけではないと言いたいわけだ」

 厳密にはこの主張には反論があるが、美南はAIの議論がしたいわけではないだろう。

「変なことはなんでも知ってるよね、泰嵩って」

「変なこと、は余計だ。……それで?」

「泰嵩の脚本――犯人当ての答が判ったと思う」

「へえ……それでどうして『中国語の部屋』の話が出てくるのか、興味深いね」

 美南の推理、その前置きが「中国語の部屋」というわけだ。この思考実験は、AIという文脈上外せない要素を取り除いて一般化すると、ミステリにも十分敷衍できる抽象化が可能だ。そこから導かれる思考は、俺にはおおよそ予想がついていた。



 美南がひととおり話し終える。

 その推理は極めてロジカルで、俺の用意した「チェーホフの銃」は見事に組み込まれていた。

「さすが。俺の作風を知り尽くしているな。完璧な正解だよ」

「やった……」

 彼女はわずかに口角を上げ、小さくガッツポーズをする。

「だが、美南は二人目の正解者だ」

「え? 私より早く解答した人がいたの? 誰?」

「明日にでも発表する。しかし、正解者が二人になってしまったことは脚本に組み込む必要があるな」

「そっかぁ」

 美南は残念そうに肩を落とす。彼女が二人目の正解者なのは事実だが、細かい点をより拾っていたのは美南のほうだった。少なくとも、もし自分が「犯人」なら脅威に感じるのは彼女のほうにだろう。

「ねえ、正解したのって閑華でしょ」

 美南は上目遣いで俺の表情を覗き見る。俺はそれに気づかぬふりをして、ノートパソコンを開いた。

「どうしてそう思う? まあそうだとしてもまだ教えないけど」

「閑華のこと、どう思ってる?」

 迂遠な言いかたに少し嫌気が差した。彼女がなにを言いたいかはなんとなく想像がつく。

「どうって……」

「好き?」

「好きだよ。最高の女優だ」

「女優ね……閑華はさ、泰嵩のこと……」

 すべてを言い切る前に、俺は美南にキスをした。

「え……」

 驚いた表情の直後に彼女は眉間を寄せ、そしてなにもかもがどうでもよくなったように、乾いた声で笑った。

彼女の唇が薄く開き、声にならないなにかを言った。俺にはそれが「ごめん」と言っているように見えた。

 両手で彼女のメガネを外し、二度目の口づけをする。

彼女はそれに応じた。



「吹雪になるな」

 天気予報アプリを見ると〇時から二時まで吹雪くそうだ。現在時刻は〇時。雪の勢いは増しているはずだ。

「この時期に雪はちょっと早いね」

「麻耶雄嵩の『夏と冬の奏鳴曲』では八月に雪が降る」

「それは小説の話でしょ?」

「そうでもない。オーストラリアでは八月に雪が降る。立派な現実だ」

「じゃあ、『夏と冬の奏鳴曲』はオーストラリアと日本を誤認させる叙述トリックが記述されていたのね」

「四国とオーストラリアを間違えたんだろ」

「舞台は日本海側だったと思うけど」

「よく覚えているな」

 くだらないミステリトークをしばらくして、美南は部屋を出ていった。彼女の推理を聞いて、俺の脚本も急速にまとまりはじめていた。

 閑華と美南、親友同士の二人を主演に脳の中の物語は徐々に組み上がっていく。



十  友情


 一瞬とも永遠ともいえないような意識のブランクが空ける。明らかに肉体は変調を告げていた。

「……くそ、やばい」

 体を起こそうとして、ベッドから転げ落ちた。

 視界に映る左足首が不気味なほどに変色していた。激痛の原因が左足にあることは頭では確実に理解しているが、それが感覚として判らないほどに痛みは拡散している。同時に強烈な発熱を感じた。動いていなくとも息が切れる。

 耐えきれずにベッドの上のスマホを掴み取ると、早人へメールを送る。送ってから気づいたが、現在時刻は三時一〇分だった。深夜だが、助けは来るだろうか。

 一分ほどして、ドアが乱雑に開けられる。

「……痛みで目が覚めたか」

 早人が寝起き顔で俺の体を起こす。

「すまん、痛み止めが切れたみたいだ」

「氷と飲みものを持ってくるから、待ってろ」

「いや、悪いが食堂まで連れていってくれないか。寝られる気分じゃない」

「別に構わないが、転んでも文句言うなよ」

 早人は俺の肩に手を回す。片脚で立ち上がると、中腰になった彼の背中に体重を預けた。



「あれ、どうしたんすか先輩たち」

 早人に背負われて食堂に入ると、先客に圭一がいた。

「お前こそ、なんだこんな時間に」

「眠れなくて。晩酌です」

「もうほとんど朝だろ」

 早人が寝ぼけたツッコミで圭一に応じながら俺を椅子に座らせる。圭一は気を利かせてコップと水を用意してくれた。痛み止めは自室から持ってきてある。

 薬を飲んでしばらくすると、若干痛みが引いた気がした。意識をすると激しい痛みを感じるが、先ほどよりマシだ。

「ちょっと落ち着いた。すまない早人、頼っちまった。圭一が起きてるなら圭一に頼めばよかったかな」

「おれこそ、ちょっと様子見にいけばよかったですね」

「まあ、構わないよ。別に今日は日中ゆっくりしてたってそんなに問題ないだろ。どっちみち泰嵩は動けないだろうし、例の犯人当ての推理発表くらいしかやることもない」

 それもそうだ。有耶無耶になっていたが、俺が怪我をした時点で合宿は大幅に予定変更することになる。

「いやいや、先輩を病院に連れてかなきゃでしょ」

 圭一が心配そうに足元を覗いた。痛々しい痣を見て顔をしかめる。

「うーん……まあそうは言っても吹雪いてるだろ。明日は出れないんじゃないか」

 俺は食堂から見える裏口の扉に目を向ける。様子を見にいこうと体を動かしかけて、足の痛みを思い出す。

「あれ? 裏口の鍵開いてないか?」

 俺は目を細めて扉を見つめた。裏口の鍵は閂のようなロックがスライドする形で、遠目からでも解錠されているのが判った。

「そういえば、戸締まりしてないかもな。僕が締めてくる」

 早人はそう言うと、裏口に向かった。ついでに少しだけドアを開けて天候を確認する。戻ってきた彼は、吹雪はおさまったが雪はまだ降り続いていると教えてくれた。

「ところで、里央と閑華って喧嘩でもしたのか?」

 痛みが引いてきたのと男だけになったこともあり、気になっていたことを聞いてみる。

「おれは特に知らないっすね。そうなんすか?」

 表情を見るに、圭一はなにも知らなそうだ。

「あのバカ、閑華になにか言ったのか?」

 早人が気まずそうに言う。

「いや、遠くからそう見えただけだけれど。心当たりでも?」

 俺がそう尋ねると、早人は珍しく少し照れた様子で言葉を濁した。それを怪しんで圭一が追撃すると、ようやく口を開く。

「あいつは……僕のことになると短絡的だから」

「というと、あれか。学校で話題になってるあの噂」

 早人は容姿も二枚目だし、演技もうまい。校内ではちょっとしたアイドルで、女子のファンは多いらしい。そんな中で、ひとつの噂が流れている。それは早人と閑華が交際しているというものだ。

「里央のやつ、なにか勘違いしているんだろ」

 早人はそう言うと、圭一が飲んでいたノンアルコールカクテルを自分のグラスに注ぎ、いっきに飲み干した。まるでやけ酒だ。

「実際、付き合ってるんですか?」

 圭一が思いのほか真剣な顔でツッコミを入れる。

「まあ……あまり答えたくはないが、お前らならいいか。あの噂は嘘だ。実はワケアリでな。閑華に頼んで狂言をしたんだが、意外と大きな噂になってしまった。ちょうどその件で昼間に閑華に謝罪したところだよ。たぶん、里央は噂を真に受けて……あいつはその……たぶん僕のことが好きだから」

「まぁ、里央を見てればそうだろうなと思うけど。それよりワケアリって?」

「ストーカーみたいな厄介なファンがついたってだけだよ。どうにかしようといろいろ試したがうまくいかなかった。だから閑華に頼んで交際しているフリを」

 なんだそういうことか、と圭一は呆れたようにため息をつく。だが、その話には妙なところもある。

「あのさ早人、そもそも閑華に頼むより里央に頼んだら良かったんじゃないか? それに狂言なら里央に説明しておけばさ」

「……そんなこと頼めないだろ。本当に好きなやつには」

 早人がそう言うと、俺と圭一は顔を見合わせる。お互い、つい表情が緩んでしまう。

「お前ら、笑ったな? お前らだから言ったのに」

「いや、だって早人先輩。そんなのいまさらですよ。先輩が里央ちゃんのこと好きなことなんて、バレバレでしょ。好きなこと隠せてると思ってるの先輩と里央ちゃんの当人同士だけですよ。だって昨日だって、里央ちゃんが重度の高所恐怖症だからって、二階の廊下でさりげなく窓側歩いてたでしょ」

「このペンションは一階も二階も、基本的に突出し窓だからな。人が落ちるとしたら廊下の引き違い窓だけだ」

「よくお調べで」

 圭一が吹き出しながら指摘すると、早人は顔を真っ赤にして、照れ隠しの様相で立ち上がった。

「寝る」

「おいおい、俺は置いていかれるのか」

「圭一におぶってもらえよ。あんまり無茶しないで、お前らもさっさと寝ろよ」

 普段クールな早人だったが、意外とかわいいところもあるものだ。俺と圭一はしばらくその話題で盛り上がってしまった。

 それから四〇分ほど圭一と雑談をしながら過ごし、さすがに彼も眠くなってきたというので、部屋に戻ることになった。おぶってもらうのも悪かったので、肩を貸してもらって二人三脚のような体勢で並んで歩く。

「そういえば、風鈴がなくなったんだって?」

「……そうなんすよ。どこいったんでしょうね」

 少し気になったので、階段を上がる前にラウンジの明かりを点けてもらう。明るくなったラウンジを見渡すと、玄関の扉には風鈴がしっかりつけられていた。

「あれ、あるじゃないか風鈴」

「本当ですね、たしかになくなっていたはずなのに」

 圭一は俺を待たせて風鈴を確認しにいく。状態を見ると、どうやら紐が切られた痕跡は残っているようだ。一度持ち去られたものが再び固く結び直されているらしい。

「誰かが見つけて元に戻したのかもな」

「そうっすね」

 そんなやりとりをしながら、二階へ上がる。圭一に手伝ってもらったとはいえ慣れない不自由な状況にどっと疲れを感じる。

「うわっ」

 俺は二階の廊下で躓いて転びかける。派手に体を打ちつけるような失態は見せずに済んだが、体勢を崩して床に膝をつくような恰好になってしまった。傍にあった観葉植物の鉢を掴んでなんとか立ち上がる。

「大丈夫っすか先輩」

「ああ、大丈夫。悪い、部屋のベッドまで頼むわ」

 そう言って再び圭一の肩を借りた。そうして結局後輩に世話になってベッドまで行き着く。

「助かったよ。早く治してなにか礼をしなきゃな」

「これくらいやりますよ。でも先輩、あとでおれを主役にした脚本書いてくださいよ」

「ははっ、いいよ。お互いプロになったらな」

「あ、いまの忘れないでくださいね。約束ですよ」

 圭一は言いながらカーテンを開けて窓の外を眺める。雪がどれくらい積もっているかはここからは見えない。

「やみ始めてますね、雪」

「そうか。あとは積もった雪が溶ければ、病院にも行けそうだな」

「そのときはまた、出世払いで背負ってあげますんで」

「ああ、ありがとう。おやすみ」

 眠そうに目を擦りながら、圭一は照明を消して部屋を出た。夜と昼とのあわいの、時が止まったような静けさが戻ってくる。

 時刻は四時五〇分。明朝になって、ようやく長い一日が終わった。



十一 白昼夢


 本堂閑華の死体が見つかったのは、後庭の雪上だった。

 日光は、まるでそのエネルギー源を失ったように弱々しい。午前九時を過ぎても、膝のあたりまで積もった雪はその嵩を減らしていない。俺は痛めた足を庇いながら、彼女の傍らで膝を突く。下半身が雪にまみれる。

 腕が自然と彼女の頭のほうへと伸びる。覆われた雪を丁寧に払うと、白い肌に指先が触れる。氷の棺に眠るように横たわる彼女の姿は、まるで眠りにつく白雪姫のようだ。

「もう、息はない」

 俺は自分の喉から発せられた沈痛な声で、いま「悲しい」のだと理解した。俺の太陽は永遠に消えてしまった。

「どうして……」

 里央が崩れるように倒れ込む。隣で美南がその体を支えた。その美南もまた、雪の中で焦点を定めていない。

 圭一は年甲斐もなく子供のように泣いていた。感情が理解に追いついているのが羨ましかった。ここで泣けることが、ひどく妬ましい。俺の体を支え、立ち上がらせる早人。彼の表情は、俺と同じようにマネキンのようだった。ただ死という情報だけが、脳で的確に処理させられていく。

 俺はここに至る経緯で、おかしなことがなかったか思い返す。そこになんらかの痕跡がないか、入念に。



 起床は六時だった。痛み止めが効いており、肩を借りずとも部屋を多少移動するくらいはできた。カーテンを開けて外を見ると、弱々しい太陽の光がキラキラと雪面を照らしている。雪はすっかり止んでいた。

 七時近くになり、圭一が部屋を訪れた。お互い寝不足だったが、閑華以外のメンバーがすでに起きているらしく、そのまま朝食となった。

 一階へ降りる際に、圭一が階段の手摺がなくなっていることに気づいた。もともと、俺が階段から落下したときに手摺は故障していたのだが、外れた手摺は変に補修すると却って危険だということで、階段にそのまま放置されていたらしい。それがどこかへ消えてしまったのだ。

 二人で最後に見かけたのがいつか話し合ったが、答は出なかった。のちに食堂で早人にも確認したが、俺を背負って階段を降りたときには目にした記憶はないという。

 風鈴といい手摺といい、意味があるとは思えない物が次々となくなったこともあり、朝食中の話題はそんなことに終始していた。しかし、七時半頃になって閑華が姿を現さないことを心配する声が上がった。代表して美南と里央が部屋に向かうと、鍵がかかっていて呼び声にも応答がない。不安になった俺たちはラウンジの鍵で閑華の部屋を開けたが、そこに閑華の姿はなかった。

 すぐに俺以外の動けるメンバーが総出で緑鴉荘内を捜索したが、閑華が屋内にいないことが判る。ラウンジに戻る面々。そこで里央が「外にいるのではないか」と震える声で疑念を呈する。もちろん、誰もがその可能性に気づいてはいたが、外が一面の銀世界になっていることは自明のこと。それはつまり、彼女の身になにかしらの危険が迫っていることを暗示させた。

「私……」

 美南がそう口にした瞬間、圭一が裏口に向かって走った。それをきっかけに里央は圭一を追い、早人は玄関へ向かう。外にいるのならば、相応の痕跡があるはずだ。

 美南は顔を真っ青にしていた。その手には、上着のポケットから取り出したのか、一枚の紙片が握られている。

「それは?」

「……私、閑華に呼び出されていたの。深夜四時に。でも会えなくて、もしかしたらずっと待ち合わせ場所に」

「四時? なんでそんな時間に?」

「知らないよ……でもなにか重要な意味があるかもと思って」

 俺は美南から紙片を受け取る。


MJへ

二人きりで会えますか?

AM4時に後庭で待ってます

SHより


 それは閑華の直筆のように見えた。しかし、彼女が言うとおり待ち合わせが失敗したとしても、まさか現時点まで後庭に居続けるとは思えない。もし、なんらかの事情で動けなくなったのでなければ。



俺と早人は、冷静に閑華の遺体を検分した。俺と早人は美南や後輩二人の動揺を察し、ふたりで状況を見極めることにしたのだ。それは、死体に異常な痕跡を認めたからだ。その痕跡は遺体に近づいていた俺と早人しか気がついていない事実。

――――扼殺痕。

閑華の首には、疑いようのない扼殺の痕跡があった。彼女の死因は、首を手で絞め上げられたことによる窒息のようだ。

つまり、本堂閑華は何者かによって殺された。

「泰嵩、お前大丈夫か?」

 血の気が引いていたのか、早人が俺を心配する。

「……いや、いますぐ大声で叫びたい気分だ。でも……これは、そういうことだろう?」

「そうとしか思えない。だがどうして?」

 俺と早人の不自然なやりとりを見て、他のメンバーも徐々に冷静さを取り戻していく。

「なに? どうしたの?」

 里央が朦朧とした様子で問う。

「……どうする? まずは警察に」

 早人は心配そうに里央に目を向ける。他殺の事実を明かすべきか否か、それを聞きたいのだろう。

「言うべきだ。隠し通せない」

「…………そうだな」

「みんな、これは他殺だよ。誰かが閑華を殺した」

 第二の衝撃は、確実に驚きや悲しみを「恐怖」へと変えた。その瞬間、誰もがこう思ったに違いない。

 犯人はきっとこの中の誰かだ。



 閑華の死体があった場所は、アーケードの中頃にある小道の先だった。緑鴉荘の裏口から後庭を貫くアーケードには屋根に守られて雪が積もっておらず、閑華を捜索しに外に出た圭一と里央は、最初は異変に気づかずに小道への分岐点を通り過ぎ、アーケードの突き当たりに着いてしまった。そこから引き返すと、中頃のアーケードの切れ目から西に向かう小道に雪を掘り返したような痕跡があることに気がついた。それはずいぶんと先まで続いており、後庭の他の部分が綺麗に雪に覆われたなめらかな雪面をしていることから、明らかに人為的な作業が行われていることが判ったらしい。それは中途半端に雪掻きをした道のように乱された様子だった。

 すぐにラウンジに戻った圭一と里央は後庭の異変を報告した。美南への手紙の件が全員に共有されると、いよいよその人為的痕跡の先に閑華がいるとしか思えなくなり、全員で後庭へ向かったのだ。もちろん怪我をしていた俺は止められたが、無理を言って早人におぶってもらった。

 掘り起こされた不可解な雪の道は数十メートル続き、大きくカーブして途中にある彫刻の台座にぶつかるような形で消えていた。その掘り返し痕の終点である彫刻から少し戻った場所で、閑華は倒れていた。

彼女の体の上には、雪が積もっている。体を覆って完全に隠してしまうほどの量ではないが、少なくとも彼女がそこに横たわってから短くない時間があったということだ。そして、彼女の体の下にも雪がしっかりと積もっていた。これは、彼女がここに横たわったのは、少なくとも降雪中であることを示している。

彼女は俺の貸したジャケットを着ており、足元には長靴を履いていた。死体の近くには傘が閉じられた状態で埋もれている。

「戻ろう、かわいそうだが遺体は置いていく。なるべく元来た道を戻るんだ。警察が来るまでこの雪が残っているかはわからないが、足跡は判別できるように・・・・・・」

 俺は呆然と立ち尽くすみんなに向かって淡々と指示をする。早人が俺を背負って歩き始めると、彼らは目が覚めたようにそれに続いた。



「警察の到着には四、五時間はかかるそうだ」

 沈痛な雰囲気のラウンジ。代表して通報をした早人が、苦虫を噛み潰したような顔で報告する。つまり、俺たちはクローズドサークルに陥ったことになる。

「泰崇、足は大丈夫か?」

「ああ、まあ悪化した感じはしない」

 警察がここに来れない理由は雪だろう。つまり、こちらから病院に行くこともできないということになる。

「泰崇先輩、いいもの見つけましたよ」

 いつの間にか席を外していた圭一が、手に松葉杖を持って戻ってくる。

「どこから持ってきたんだ、そんなの」

「倉庫にありました。たぶん、怪我人の役のための小道具で。でも、本物だと思いますよ」

 まあ、わざわざ偽物の松葉杖を作るより本物を買ったほうが早いだろう。俺は圭一からそれを受け取ると、ラウンジを少し歩いてみる。悪くはない。

「ありがとう、助かる。やることはたくさんあるからな」

「やること?」

「捜査だ」

 顔面蒼白の様子の里央が怯えたようにこちらを見る。

「・・・・・・現実逃避をして、判るはずのことが判らなくなるのはごめんだ」

 俺の言葉の意味が伝わらなかったのか、誰も言葉を発しなかった。ただ、美南だけがひどく疲れた様子で重い腰を上げる。

「私も行く」



十二 手がかり


 俺と美南が最初に向かったのは、閑華の遺体が見つかった場所へと続く道の入口、アーケードの切れ目の部分だ。

「ねえ、なんでこの道は掘り起こされているんだろう?」

 美南は純粋な疑問を口にする。まさに、最大の疑問点はその点だ。思いつく動機はいくつかあるが、合理的に像を結ばない。

「死体を見つけてもらおうとしたのかもしれない。雪原に置かれた死体を見つけるのは困難だ。一方で、そこへと続く道がこうやって掘り起こされていれば、行方不明の人物がいる中でその先を確認しないはずはない」

「なるほど」

「あるいは、足跡を消すため」

 後者のほうが、ミステリライクな発想と言える。だが、足跡が残ってはならない理由が果たして今回の件に存在し得るのかは、客観的に考えてあまりに疑問だった。

「死体にも雪が積もっていたが、この掘り返し痕にも上から雪が積もっている。雪が止む前にこの作業は行われたんだろう。雪が降り出したのは、俺が階段から落ちたあとだから・・・・・・」

「二十一時頃」

「そう、それくらいだ。雪が止んだのは朝方五時頃だったはず」

「それって、たぶん犯行時刻だよね。ここから現場まで行って、事を終えて道を掘り返しながら戻ったとすると、どれくらい時間がかかるだろう? そもそも夜の闇の中でそんなこと可能なのかしら」

「一時間弱はかかるだろうな。移動と作業だけでも、雪掻きみたいなものだから、おそらく五十分ほどはかかる。作業自体は掘り返された道が小道沿いだから、外灯が機能したはずだ。そもそも夜に明かりがないなら待ち合わせなんてしないからな」

「なるほど。でも、アリバイ、みんななさそうだね」

「・・・・・・いや、そうでもない。死体や掘り返しの痕跡が完全に埋まっていないのだから、まさか二十一時や二十二時に犯行がなされたわけではないはず。深夜〇時過ぎには降雪は強風を伴っていた。それより前の時刻に犯行があったなら、死体は雪に完全に覆われていたんじゃないか」

 美南は俺の推理を聞いて、スマホで未明の天気を確認する。予報では〇時から二時まで吹雪だったはずだが。

「実際は、〇時半から二時三十分頃まで吹雪いていたみたい。でも降雪自体は、むしろ〇時過ぎから弱まっていて、強風による地吹雪がメインだったみたいだね。今回の雪の積雪は、ほとんど〇時前の降雪によるものと見ていいみたい」

「・・・・・・とすれば、吹雪が原因で死体が雪に隠されるという線はないか。むしろ〇時までの積雪の勢いが相当だったようだ。だがいずれにせよ、強風と地吹雪の中で閑華が待ち合わせのために外に出たとは考えにくい。犯行時刻は吹雪がやむ二時半から五時とみていいだろう」

「それでも、まだ二時間半。しかもみんな就寝中じゃない?」

「いや、偶然だがアリバイがはっきりしている時間帯がある人物が多い」

「本当?」

 俺と早人、圭一に至っては、一緒にいた時間があるくらいだ。深夜の不在証明としては行幸といえる。

「あとで全員分の話を聞く。彼らが協力してくれれば、だが」



 アーケードを逆走して緑鴉荘の裏口へと戻る。

「あれは?」

 俺は先ほどここを通ったときには気がつかなかった異変に目を留める。裏口から外壁沿いにホールへ向かう軒下が大量の雪が積まれている。

「泰崇と圭一が朝食に降りてくる少し前に、屋根から雪崩みたいに雪が落ちたの」

「・・・・・・なるほど、それであんなに堆く。それがなければここは雪が積もってなかったのかな」

「一晩中降っていたんだし、途中は吹雪だったから、おそらく軒下も雪が積もっていたと思うよ」

「それもそうか、残念だ」

「残念?」

 俺は美南の問いには意図的に答えず、そのまま玄関へと向かう。ラウンジで沈黙と気の抜けた会話を交互浴のように繰り返していた他のメンバーは、興味ありげにこちらを見ている。

「閑華の履いていた長靴は玄関の靴箱にあったものだな」

「そうだね。ここに閑華の靴もあるから、ここで長靴に履き替えて玄関から外に出たか、長靴を持って裏口から外に出たんだね」

「いや、おそらく閑華は裏口から外に出たんだ」

「どうして?」

「まだ話せない。ちなみに、閑華が後庭以外で殺害されて、そこから犯人によってあの場所へ運ばれた可能性はあると思うか?」

「・・・・・・いや、少なくとも女性には無理だと思う。男性なら物理的には可能だと思うけど。実際に早人は泰崇を背負って現場まで歩けたわけだし」

「まあ、一連の動作にさらに多くの時間がかかるだろうけどな。それに、見られたらその時点で言い逃れはできない。その上、現状では後庭に死体を運搬するメリットがあるのかどうかも判らない」

「じゃあ、閑華は自らの意志であの場所に?」

「蓋然性は高い。だとしたら、やはり彼女は裏口から外に出たと思う」

 そのまま、緑鴉荘の出入りが可能な場所を検めるため、俺たちは一階のすべての窓とその周辺を確認した。鍵の開いた窓や破損のある窓はなく、緑鴉荘の一階で大人が出入り可能と思われる唯一の窓である食堂の引き違い窓の外には、足跡や出入りの痕跡などはなかった。

 俺と美南は次に閑華の部屋へと向かう。彼女の部屋は、予想どおり俺の部屋と同じような構造になっていた。彼女の荷物を漁るようなことはしたくなかったが、簡易的な捜索を済ませた。

「スマホがある」

 美南がテーブルに置かれた文庫本の下から閑華のスマホを発見した。

「閑華は後庭にスマホを持っていかなかったのか?」

「普通は持っていきそうだけれど、なくしたと思ったのかも。本の下に隠れてたから」

「中身は見られるか?」

「ロックされている。四桁のパスコードだから、その気になれば解除できると思うけれど・・・・・・」

 言外にはそこまでするほどのことではないだろうという意思がある言いかただ。それについては俺も同意だった。

「なあ、そこにあるメモ帳は?」

「なにか書いてあるかと思ったけれど、なにもなかったよ」

「美南、お前が持っていた閑華からの手紙、誰からいつ渡された?」

「部屋のドア下の隙間からだと思う。部屋に戻ったら床に落ちてて。昨晩、いや、日付は変わっていたかな」

「もう一度見せてくれ」

 美南から紙片を手渡される。綺麗に切り取られているが、メモの左端にわずかな歪みがある。俺はメモ帳のページをめくり、その歪みとピタリ合う、切り取られたページを発見した。部屋に常設されている鉛筆で、切り取られたページのひとつ後ろのページを擦り上げる。

「すごい、文字が浮き出た。この手紙はこのメモ帳から切り取られたんだ」

 黒く塗りつぶされたページには、美南が持っていた手紙と一言一句違わない文字が浮かび上がっていた。

「さて、あとはアリバイの整理だ。チェックメイトといこうか」



十三 不在証明


ラウンジに戻ると、三人の視線が俺へと集まる。捜査報告を求められているようだ。俺は美南を証人として、捜査で判ったことを説明した。最初はまだ希望的な表情をしていたみんなも、報告を聞くと次第に表情を曇らせていく。当然だ。これは犯人を糾弾するための捜査であることが明らかなのだから。

「外部犯ってことはないの?」

 里央が泣きそうな顔を向ける。俺は首を横に振る。残念ながら可能性はない。外部犯がこの事件の諸要素を構成するような行動をする意味がない。

「だが、泰崇。逆にここは雪で外界と隔絶されている。ここでもし殺人をすれば、犯人は自ずと絞られてしまう。そんなことをするメリットもまたないのではないか?」

 早人は里央を庇うように矢継ぎ早に言う。それは一理あるが、あくまでもメリットがないだけで、ここにいるメンバーの犯行を否定する根拠にはならない。

「過失致死や、計画性のない咄嗟の殺人だったら、十分に内部犯の可能性は残るよ」

「お前は僕たちの中にそんなやつがいると?」

「論理的にはそうなる。もちろん俺だってそうは思いたくない。だが、この段階でそれを言い出せないでいるのであれば、犯人はこの事件を隠し通そうとしていると考えるべきだ。これからくる警察は、捜査の原則に従い動機を洗う。俺たちは紛れもない容疑者だ。だから・・・・・・」

「・・・・・・だから?」

 俺は全員の目を順々に見ていく。この中にいる「犯人」を見つける。そのためにあらゆるデータを揃えなければならない。

「隠しごとはなしだ、無実ならば言いにくいことも言ってくれ。殺人犯にされるよりもずっとマシだろう。これから俺たちはすべてを共有する。自衛のためだ。警察やマスコミにアナザーストーリーを作らせないために。協力してくれ」



 ラウンジで顔を見合わせる俺たちの間には奇妙な緊張感が介在していた。それは俺の発言によって喚起されたものだ。隠し事をせずにすべてを共有する。それを改めて口にするということは、現時点でそれがなされていないと宣言するに等しかった。

「動機を考えたい。警察は動機で事件を追う。調べられてすぐに判るようなことは隠していても意味がない。単刀直入に聞くが、閑華を殺害する動機がある者に心当たりは? これは犯人だと決めつける議論じゃない。誰が疑われるリスクがあるか、という話だ」

 沈黙が深くなる。雪に閉じ込められた緑鴉荘で、わずかな息遣いが静寂の中に乱反射するようだった。匣の中に霧が立ち込めるような、そんな重苦しい時間が過ぎる。

「もし、閑華だけが狙いじゃなくて、泰崇も殺そうとしていたなら・・・・・・」

 沈黙を破ったのは、美南だった。

「泰崇が階段から落ちた件がもし、人為的なものだったら、犯人は閑華と泰崇に恨みを持った人物かもしれないわ。だとしたら、それって・・・・・・」

 美南の視線がひとりの人物へ刺さる。

「おれですか? 美南先輩」

 圭一が狼狽した様子で美南を睨み返す。美南は温厚な後輩の殺気だった目に動揺しつつも続ける。

「圭一、あなた閑華のこと好きだったでしょ」

「・・・・・・過去形、やめてもらえますか」

 圭一は肩の力が抜けたようにぐったりとした様子で言う。圭一が俺を突き落とした? 閑華のことが好きだった? 美南の指摘は俺にとっては意外な話だった。

「学校では閑華と早人が付き合ってるなんて噂もあったけど、私たちからしたら、一番閑華と距離が近かったのは泰崇でしょ。それに圭一は嫉妬していた。私は閑華のことをずっと見てきたんだ。判るよ、誰が閑華のことをそういう対象として見ていたかなんて」

 美南は圭一から目をそらす。表に出てこなかった不和が地底から噴き出そうとしている。だが、これを乗り越えなければ、俺たちの関係はもっとひどい形で瓦解する。

「圭一、これは弁護のための質問だ。昨日から今朝にかけての行動を話してくれ」

「泰崇先輩、おれは先輩のことを憎んだりしてませんよ。閑華先輩も殺してない。十三時頃に閑華先輩に会った。告白したんだ。でもフラれた。好きな人がいるのか、聞きました。でも答えてくれなかった。それだけです。それが閑華先輩を見た最後です」

「二十一時以降の行動は?」

「目を覚ました泰崇先輩の部屋から出たあとは、談話室に行きました。その時点では泰嵩先輩と閑華先輩以外の全員がいましたよ。そのあと二十二時からは早人先輩と食堂で喋って、二十三時十五分から三十分くらいシャワーを浴びました。〇時頃にはベッドに入りましたが、浅い眠りで、三時ちょうどくらいに食堂に行きました。そこに先輩たちが降りてきて、あとは知ってのとおりです」

 圭一の発言を記憶に留める。脳内のタイムテーブルが少しだけ埋まる。まだ、データは足りない。

「おれは、軽いやつだと思われてたかもしれないっすけど、役者の道は本気だったんですよ。本当の自分はもっと真面目でつまらなくて・・・・・・でも楽しいやつを演じているときは安心できた。それを全部解ってくれてたんだ、閑華先輩は。役者として尊敬してた。でもだんだんそういう感情じゃなくなって・・・・・・ケジメのつもりだった。早人先輩、あなたは本気じゃなかったかもしれないけど、おれは本気でしたよ。それとも、あなたも本気だった、なんてないですよね?」

 圭一は憔悴した様子で笑みを浮かべる。その視線の先には早人が憮然とした様子で座る。彼が足を組み直すと、ギシリとチェアが音を立てる。

「心配するな、僕は犯人じゃないよ。明け方、圭一と泰崇には話したが、僕と閑華は狂言で付き合っている噂を流しただけでお互い特別な感情はなかった」

 早人はもう覚悟を決めたらしい。断言した彼の隣で、ただひとり里央が目を丸くしている。本当に彼女はなにも聞かされていなかったのだろう。

「平等に疑いをかけるなら、僕が彼女のことを本当に好きになってしまい、フラれたから逆恨みして殺したってところだろうが、そもそもこの狂言は、閑華の演技を心から尊敬していたからこそ頼んだことだ。僕は彼女のようにホンモノになりたかった。外見だけで評価されるような役者ではなく、心底演技で人を魅了するような。閑華は僕にとっては目標だ。それ以外のなんでもない。どうにかしたかったんだよ、外見だけしか見ていないストーカーを」

 彼の悩みは、金持ちが金の使いかたに困るような贅沢なものに聞こえるかもしれない。だが、その表情からは感情が溢れている。今、彼は本当の意味で自分を曝け出したように見えた。

「アリバイを確認したい」

「十四時頃に閑華と会ったよ。狂言について噂が大きくなりすぎたことを詫びた。僕が彼女を見たのはこれが最後だ。二十一時以降は、二十二時まで談話室で圭一と話し、そのあと一緒に食堂に移動した。僕は二十二時十分から三十分ほどシャワーを浴びて、食堂に戻った。二十三時十五分には食堂から自室に戻っている。そのときに廊下で里央と会って話をした。美南と里央が部屋を交換した話とか」

 部屋の交換? 初めての情報だ。なぜそうなったのか気になったが、早人は話を続ける。

「僕も〇時には就寝した。起きたのはお前からのメールでだな。時刻は三時十分。あとはお前の知っているとおり四時に部屋に戻った。そこからまた寝ようとしたんだが、そういえば奇妙なことがあった。事件に関係するかは判らんが」

「教えてくれ」

「女の声を聞いた気がした。我ながらくだらないと思うが、一瞬怪談のことを思い出したよ。それから、たしか四時四十分頃だと思うが、廊下で物音が鳴ったな」

 女の声については見当もつかないが、物音についてはおそらく俺が圭一に支えられて自室に戻るときに転んだ音だろう。

 早人の証言はそれで終わった。タイムテーブルは順調に埋まっている。次は、比較的発言の少ない里央か。

「痴情のもつれ、警察が一番疑う動機だ。圭一も早人も勇気ある発言をしてくれた。そうなると、申しわけないが君にも協力してもらわねばならない、里央」

 びくりと里央が肩を跳ねさせる。

「あたしはなにも・・・・・・」

「十六時頃、後庭で争うような声を聞いた。里央、君と閑華の声だ」

「違う! あたしは殺してないよ! 喧嘩はしたけど、殺すなんて・・・・・・」

「隠し事はなしだ、里央」

「・・・・・・あたしは、ずっと早人と一緒だったから、早人のことは誰よりも知ってる。だからおかしいと思って。急に閑華先輩と付き合うなんて・・・・・・狂言だなんて知らなかったんだよ。早人だって肯定も否定もしないし、閑華先輩だって『すぐにわかるから』なんて意味深なことを言うから、あたし頭に血が上って・・・・・・でもちょっと強く言い過ぎただけなんです。本当に、それだけで」

 里央は過呼吸でも起こしそうなくらいに動揺していた。これ以上は限界か。俺は早人に視線を向ける。早人はそれを察知してか、覚悟を決めた様子で里央の肩を抱く。

「すまない、僕のせいだ。もういいんだよ里央、僕はお前を信じるから」

「閑華先輩にひどいこと言っちゃった。謝れなかった」

「閑華は気にしてないよ。僕のわがままのためだったんだ。僕が全部悪い」

「あたしは、早人のこと感謝してる。子供の頃に二階のベランダから落ちそうになったときから、あなたは私のことをずっと守ってくれてて・・・・・・だから、もし本当に閑華先輩のことが好きなら応援しようって、そう思ってたのに」

 この里央の動揺が本心なのか演技なのか、俺には判らない。だが、少なくとも嘘かもしれないと思っている時点で、俺はとっくにこの中の誰かを吊し上げる覚悟をしているんだと思った。無自覚なナイフが、冷血で研がれていく。

「酷なようだが、二十一時以降の行動をなるべく詳しく教えてくれ」

「二十一時からはみんなと一緒に談話室にいて、二十二時過ぎに部屋に戻ったよ。そういえば、十五分頃に廊下から風鈴の音が聞こえた気がして、すぐに廊下に出てみたけど誰もいないから、あたし怖くて・・・・・・。そしたら美南先輩が隣の部屋から出てきて、部屋を交換してもらったの」

「交換? 怖くて?」

「そうです」

「里央と美南とは部屋がすぐ近くだろう。そんな近くで交換しても変わらないんじゃないか?」

「あたしが風鈴の音を聞いたときに、閑華先輩の部屋のほうから聞こえた気がして・・・・・・」

 つまり少しでも遠くなるように、ということらしい。

「それで、実はそのあとも変なことが続いてて」

 どうやら、一番情報を持っているのは里央のようだ。

「美南先輩の部屋のドア下から、妙なメモが差し込まれたんです」

「美南の部屋というのは、つまり交換後に里央がいた部屋だね?」

「そうです。内容は、その美南先輩が持っているメモと同じもので・・・・・・というか、そのメモを先輩の部屋に入れたのはあたしなんです」

 そういうことか。部屋の交換が行われたのになぜ美南が手紙を受け取れたのか疑問だったが、これで解消できそうだ。


MJへ

二人きりで会えますか?

AM4時に後庭で待ってます

SHより


 この手紙は最初から美南の部屋に差し込まれたものだったことになる。

「あたし、このMJは『城ヶ崎美南』、SHが『本堂閑華』のイニシャルだと思ったから、美南先輩に渡したほうがいいと思って。それで部屋の外に出たら、ちょうど食堂から戻った早人と廊下で会って。部屋を交換したことを教えたの・・・・・・もしSHが『新藤早人』のイニシャルだったらって頭に過って。MJが誰かは判らないけど、あり得ない話じゃないですよね? だから、もし早人が差出人だったら部屋の交換に気づかずに手紙を出したことになるから動揺するはずだって。でも、そういう様子もなかったから、そのあと美南先輩のいるあたしの部屋のドア下から手紙を。一応、あたしが内容を知っているのは隠しておいたほうがいいのかと思って、直接は渡せなかったから」

「そのときの時間は判る?」

「二十三時二十分くらいだと思います」

 その時刻は、美南が俺の部屋に来ていた頃だ。つまり美南は〇時過ぎに部屋に戻って手紙を見つけたことになる。

「そのあとは〇時十分くらいから四十五分くらいまでシャワーを浴びて、寝ました」

「深夜、なにか変わったことは?」

「三時ちょうどくらいにまた風鈴の音が・・・・・・でも怖くて廊下は見れませんでした」

 風鈴の音がまた? なぜこのタイミングで?

 しかし、里央の証言で不可解な部分の多くが説明された。あとは手紙を受け取った美南の行動が知りたい。

「さて、俺はこの足じゃ犯行が不可能だから、美南、あとは君だ。・・・・・・少し気になったんだが、さっきなぜ真っ先に圭一を疑った? 俺と閑華の距離が近いと言っていたが、それは少々飛躍している気がする」

 途端に動揺する美南。まさかそこを指摘されるとは思っていなかった様子だ。だが全員に疑いを向けなければ、この受難は意味を成さない。

「それは・・・・・・私が彼女の親友だったから」

 迂遠な言いかただ。やはり、美南の圭一への疑念には裏がある。それはここで詳らかにしておかなければならない。

「解るように頼む」

「閑華とは幼い頃から友人だった。私は片親で、閑華も親がいなかったから。それに弟の面倒を見ていたのも同じ。だから、私は彼女のことを誰よりも知っている。閑華は、憧れだった。女神のようで、天使のようで、カリスマがあって、惹き込まれるような演技ができて、吸い込まれそうな瞳にぞくりとするような唇に真っ白な歯、ガラスのような肌、艶やかな髪、陶器のような手脚。そして太陽のように、みんなの中心にいる。私は彼女の影だった。でもそれが嬉しかったんだ。彼女が太陽なら、私は月。それに、私だけが知っていた。私にだけは曝け出してくれた。・・・・・・閑華は、普通の女の子でもあった」

 美南は、全員の顔を順々に眺める。すべてを糾弾するように。誰もが閑華を尊敬していた。誰もが彼女を太陽だと思っていた。

「悔しかった。閑華が、私以外に本当の自分を曝け出すことが。解るでしょ? 解るよね、泰崇?」

 彼女の視線が、俺に刺さる。その感情は複雑に絡まった糸のようだった。決して解けない感情の迷宮が表出する。

「閑華から、恋愛相談を受けた。それは普通の女の子のそれだった。そんな相談を受ける自分が特別なようで嬉しかった。閑華のことは大切で、だけど彼女が好きになったのは・・・・・・。でも、私は、彼女に告白を勧めた。あなたにもその気持ちが解ると思って」

「解るよ」

 美南の表情が歪む。

「嘘。だったらなんで、閑華の告白を断ったの? 彼女が急に部屋に引きこもってしまったのは、あなたに告白して断れたからでしょ?」

「・・・・・・やはり、美南は閑華が俺に告白したことを知っていたんだな。むしろ背中を押したのは君だったのか。昼食のあとに『十七時に自分の部屋に来て欲しい』と、呼ばれた。その約束のときに告白されたよ。そのときの会話が、里央が夕食前に閑華の部屋の前で聞いた誰かと話している声だ。だが、俺は告白を断っていない。明日必ず返事をする、と言っただけだ」

 結局、俺が誰を選んだかは、美南には伝えたつもりだったが。だからこそ、美南はあの手紙に応じたはずだ。雪の中、新たな朝が迫る後庭で、閑華が美南に話したかったこと。それは美南にとって大事なことのはずだから。

「そんな・・・・・・私、閑華は失恋したんだと思って」

「いま思えば、なんで俺はそんな返事をしてしまったのだろうな。美南、君の想いはなんとなく気づいていたんだ。だから、なんと答えるべきかなんて考えなくても決まっていたのに……」

 予想外のやりとりで、場に動揺が広がるのが解る。いま、ようやく真の意味で自分たちは共同体となったのだという実感がある。ただし、それでもまだ嘘は混じっている。決定的な嘘が。

「泰崇、美南、すまないがひとつだけはっきりとさせておきたいことがある」

 早人が決心した様子で口を開いた。

「なんだ?」

「最初に圭一に疑いが向いたとき、その動機は泰崇と閑華への嫉妬心からというものだった。だが今の話を聞けば、それはそのまま美南にも当てはまる動機といえる。であれば、閑華の殺害は一旦保留するにしても泰崇の落下事故についてはどうだ? あれは美南がやったのか?」

「いや、よく思い出すんだ。あのとき、閑華を除く全員があの場に揃った。全員がどこからやってきたか、俺は消えゆく意識の中ではっきりと覚えている。あのとき、美南だけは下階から来たんだ。つまり彼女にだけは俺を突き落とすことはできない」

 美南は俺の証言を聞いて、曖昧に頷く。彼女自身に、誰がどこから駆け寄ってきたか記憶がないのだろう。

 だが、他のメンバーの証言から、俺の記憶が正しいことはすぐに判った。早人は、納得した様子で疑念を取り下げた。

「それより、美南の行動を教えてくれ」

「私は、みんなと一緒に談話室に行って、二十一時十五分から二十二時までシャワーを浴びていたわ。二十二時にはみんな解散していたようだから、そのまま自室に戻った。十五分頃に風鈴の音がして、部屋から出ると里央が怯えた様子だったから、部屋の交換を申し出たの。そのあとは二十三時十分くらいに泰崇の様子を見にいって、一時間くらい喋ったよね」

「ああ、間違いない」

「〇時過ぎに里央の部屋に戻ると、床に件の閑華からの手紙が置かれていて、閑華の部屋に行こうと思ったんだけれど、寝ていたら悪いからやめた。それに、妙に非常識な時間だったから、逆にそれだけ重要なことなんじゃないかって思って。もちろん、里央の部屋に私宛の手紙があるのは変なんだけれど、それは里央が気を回したんだと思って」

 順当に考えれば妙な部分も多いが、たしかに状況的にそう解釈するほかなかっただろう。

「三時五十分頃、手紙に従って私は部屋を出た。裏口のほうへ向かうと、食堂に誰かがいて、なんとなくそこを通って外に出るのは憚られた。だって手紙には『二人きり』とあったし。だから玄関に向かったんだけど、玄関は施錠されていた。なのにラウンジには鍵があったの。それって閑華は玄関から外に出たわけではないということだよね。だって、外から玄関の施錠をするには鍵が必要なのに、その鍵はラウンジにあるんだから」

「長靴の数は?」

「判らない。長靴はもともと何足か置いてあるし、そのときは頭が回らなかった。でも、閑華の靴は下駄箱にあったよ」

 いずれにせよ、彼女の言うとおりなら閑華は裏口からしか外に出られなかったと見ていいだろう。だが、三時以降には圭一が食堂にいた。

「圭一、念の為に聞くが、裏口を出入りした人物は?」

「いや、いないっすよ。さすがにどんなに静かに動いても気づいたと思います。だから、閑華先輩は吹雪が止んでからおれが食堂に来るまでのわずかな間に外に出たんですよ」

 もちろん、玄関の鍵が施錠されていたというのが本当だった場合は、だが。

「そのあとは?」

「結局、迷ったけど外には出られないと判断した。きっと閑華も外に出てなんかいないだろうって思って。もしかしたら、AMとPMを間違えたのかもしれないとか、そう考え出したら、そんな気がしてきて。それで、結局四時になってしまって、私は念のために閑華の部屋に立ち寄って声をかけたの。でも特に反応はなかった。いま思えば、あの時点で彼女はきっと・・・・・・」

 美南の声がフェードアウトする。俯く彼女の姿は痛々しく見えた。

「そうだ、私そのとき早人の姿を見たわ。早人の部屋のドアが開いて、私も部屋に戻るところだったから、思わず隠れてしまって。早人が四時過ぎに聞いた女の声って、私の声だったんだ」

 憔悴した様子で、美南は証言を終えた。

 俺はタイムテーブルを脳内に描く。いままで得たあらゆる情報をひとつの「物語」に収斂させる。無関係と思われる要素も、逃すことなく組み込み、合理的な道筋を模索していく。まだ情報が不足している。

「みんな、ありがとう。言いたくないこともあっただろう。だけど、これで俺たちはお互いを守ることができる」

 俺はそう言って、彼らに背を向ける。

「どこ行くんですか、先輩」

「ひとりで考えたい。そうだ圭一、悪いが俺の部屋まで肩を貸してくれ」



十四 無風


 ドアが閉められ、俺はベッドへどさりと音を立てて座り込む。疲労がどっと押し寄せる。すぐにでも眠りたいくらいだった。

「ありがとう、圭一」

「いえ、それじゃあ、おれは戻ります。あんまり考えすぎないほうがいいです。まるで探偵みたいですよ、いまの泰崇先輩」

「光栄だね」

「褒めてないっすから。休んでくださいって」

「そうするよ」

 圭一は背を向けてドアノブに手をかける。

「圭一」

「はい?」

「風鈴を盗んだの、お前だよな」

「・・・・・・なんすか、急に」

「十七時過ぎに、閑華から夕食をパスするってメール来たよな。あのあと、俺とお前は階段ですれ違った。あのときお前は上着を腕に引っ掛けていた。あの上着の中に風鈴があったんじゃないか?」

「どうしてそう思うんです」

「俺が風に当たるために外に出ると言ったら、お前は寒くなってきたから外に出るのはやめておけと忠告したよな。あれは、玄関を開けたときに風鈴が鳴らないことに気づかれたくなかったからだ」

「言いがかりですよ」

「そうかな? 少し前には里央と美南がラウンジにいたらしい。そのときに風鈴はあったんだ。お前としては、風鈴がなくなった時間帯を特定されたくなかったんだろうが」

「・・・・・・仮にそうだとしてなんなんですか?」

「最後のピースなんだ。圭一、それさえ認めてくれればこの悪夢は醒める」

 圭一はこちらを振り返り、生唾を呑む。

「閑華先輩の仇を、討ってくれますか」

「最善は尽くす」

 圭一は諦めた様子で椅子に腰掛けた。憑物が落ちたような、どこかすっきりとした表情で彼は口を開いた。

「二十二時から早人先輩と食堂で軽食をつまみながら話していて、十分くらいに先輩がシャワーを浴びに離席しました。その隙に、おれは閑華先輩の部屋の前で風鈴を鳴らしました。昼食のときに、閑華先輩がすごく怖がっていたのを見て、彼女の気を引ければって思って。馬鹿ですよね、フラれたばかりなのに。それに閑華先輩は泰崇先輩のことが好きだったのに」

「俺はお前を責めないし馬鹿にもしないよ。続けてくれ」

「でも、閑華先輩は部屋から出てこなかった。出てきたのは里央ちゃんと美南先輩で、おれはトイレのほうに隠れてて、そこで部屋の交換を知りました。三時頃に、里央ちゃんが風鈴の音を聞いたって言ってましたよね。まさか聞こえたと思ってなかったんですが、あれはおれがラウンジに風鈴を結び直しにいこうとして、ほんの少し鳴らしてしまった音なんです。おれがあんな時間に食堂にいたのは、風鈴を戻して眠気が覚めてしまったからで・・・・・・」

「じゃあ三時以降、玄関の扉には風鈴が戻っていたんだな」

「はい。元あったみたいに切らないと取り外せないくらいにキツく結んだので、間違いないです」

「音は一度も鳴っていないか?」

「ええ」

 これで、必要な情報はすべて手に入った。

「ありがとう、あとは俺に任せてくれ」

「・・・・・・泰崇先輩は閑華先輩のこと、どう思っていたんですか?」

「太陽だったよ」

 圭一の表情は複雑だった。俺の言葉をどう解釈したのか解らない。だが、彼の聞きたかった言葉はきっと、こんな抽象的な言葉ではなかっただろう。

「最後にひとつ」

「はい」

「夏に雪は降るかな?」

「え?」

 圭一はポカンとした表情でこちらを見る。数秒経って、俺が回答を待っていることに気づいて、一瞬考える素振りをした。質問の意味が解らないのだろう。

「・・・・・・いえ、あり得ないですよ」

 そう、あり得ないんだ。夏に雪が降るなんて。


【読者への挑戦】


 ここであえて物語を中断し、本格推理小説の古典的作法に倣って、作者より読者諸君へ挑戦します。

 本編はここに至り、本堂閑華を殺害した犯人を推理するに充分なデータが出揃いました。次章にて、倉木泰嵩は自身の知る情報を元に「犯人の指摘」を行います。

 読者諸君には彼と同じ情報と、作者からのささやかなヒントを用いて、この事件の犯人を指摘していただきます。


 ヒントは大きく分けて二つ。

 第一に、本作は現実に起きた事件の再構成である都合上、作者により一部手を加えた部分があります。ミステリとしての体裁を保つため、作中の登場人物は自らの犯罪の露見を防ぐ以外の目的で嘘をつくことはありません。現段階で明らかにされていない嘘は、すべて犯罪者が犯罪行為の隠蔽のためについたものです。また、証言における時刻は無謬であることを作者によって保証します。

 第二に、この物語は劇作の古典的技法である「チェーホフの銃」に基づき、真相が明らかにされます。犯行可能条件を満たす複数の状況が想定された場合、より多くの銃弾が撃たれる状況――つまりより無駄なく伏線を拾い上げた状況が真実に近いでしょう。あなたは倉木泰嵩の知る情報以外にも、あらゆる情報を用いて事件の犯人を告発することができます。


 それでは、読者諸君の美しい幕引きを期待しています。


作者 倉木泰嵩


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2024年11月17日 17:00

ディアボルス・エクス・マキナ らきむぼん/間間闇 @x0raki

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