第6話



(……俺は一体、何をやっているんだ)


 バスから降りたフミヤは、思わず片手で顔を覆った。


 今頃、試験会場ではまだ試験が続いているのだろうか。それとも既に終わっていて、合格発表が行われているのか。


 それはわからない。


 フミヤは逃げ出したのだ。


 一番強いという相手を圧倒し、いとも容易く倒してしまったカンジ。


 それを見たフミヤは、その場にいられなくなった。


 本来なら祝福してやるべきだっただろう。褒めてやるべきだっただろう。


 それなのに、できなかった。


 どうしようもなく駄目な自分と、光り輝く才能を見せつけたカンジ。


 耐えられなかった。


 すぐにその場から離れなければ、どうにかなってしまいそうだった。


「くそっ! くそっ! くそっ!」

 

 道端にある柱に頭を打ち付ける。


 痛みで負の感情が忘れられるまで、何度も何度も――。


 どれぐらいそれを繰り返しただろうか。


 額から流れ落ちる血が目に入って、視界が滲む。


 これだけやっても、少しも気分が晴れることはなかった。それどころか苛立ちは増すばかりだ。


「っ……!」


 フミヤが再び頭を打ちつけようとした、そのときだった。


「やめなさい!」


 そう声をかけられて、フミヤは思わず動きを止める。


 声の主は女性だった。


 外見から判断するに、年齢は20代後半ぐらいだろうか。


「親からもらった大事な体でしょう。どんなことがあったって、それを自分から傷つけるなんてことしちゃいけないわ」


 それを聞いたフミヤは、柱から離れその場を立ち去ろうとする。


 女性の言葉が届いたからではない。


 人に見られている状況で、柱に頭を打ちつけるのが酷く格好悪く思えたからだ。


 ここまで落ちぶれてもまだそんなことを気にしているあたり、本当に自分はどうしようもない人間だと思う。


「待ちなさい!」


 だが、そんなフミヤを女性が呼び止めた。


「話を聞いてあげるから、ちょっと来なさい」


 そう言って、女性はフミヤをすぐ近くの公園に連れて行こうとする。


 一瞬どうしようか迷ったフミヤだったが、結局拒否しなかった。


 女性の勢いに押されたというのもあるが、心のどこかでは誰かに話を聞いてもらいたいという思いもあったからだ。


 ここはフミヤの生活圏とはかなり離れている。


 この女性とはおそらくもう二度と会うこともないだろうし、話を聞いてもらう役としては悪くないだろう。


 公園は閑散としていた。


 とはいえ、まったく人がいないわけではない。


 フミヤと女性以外にも、わずかだが人がいた。


 砂場で遊んでいる子供が一人。そして、ブランコで遊んでいる親子。


「とりあえず、これで顔を拭いて」


 ベンチに座ると、ハンカチを渡された。


「……汚いですよ?」


「なに言ってるの。そんなこといいから使いなさい」


 そこまで言うなら遠慮する必要はないだろう。


 フミヤはハンカチを使って顔を拭いていく。


 それが終わると、女性は水筒を差し出してきた。


「飲む?」


「いいんですか?」


「遠慮しないで」


 せっかくなので、フミヤは厚意に甘えることにする。


 冷たいお茶が、やけに美味しく感じられた。


「それで、何があったの?」


「……俺、探索者なんですけど、試験に落ちたんです。クランの」


「あなた、探索者だったのね」


「もう20にもなるのに、一度も試験に合格できずにいる落ちこぼれですけどね」


「別に珍しくもないでしょ、そんな人。昔は私もそうだったし」


「お姉さんも探索者だったんですか?」


 フミヤがそう言うと、女性はキョトンとした顔になった。


「やだもうお姉さんなんて! 私、今年で31よ?」


「いや、普通に20代ぐらいかと」


「お世辞が上手いわね。君みたいなカッコいい子にそんなこと言われたら、おばさん本気になっちゃうわよ?」


 そう言って、女性は悪戯っぽく笑った。


「上を見るから苦しくなるの。自分に満足することを覚えないと、この先もずっと辛い毎日が続くわよ」


「自分に満足する、ですか……」


 女性は頷いた。


「人は人。自分は自分。そういうふうに割り切らないとキリがないわよ。世の中、自分より優れていたり幸せな人間なんていくらでもいるんだから。いちいちそういうのと自分を比べて落ち込んでたら、損をするだけ」


「……難しいですね。正論だとは思います。でも、実際にそれをやるとなると……」


 もし、今の自分に満足できるかと聞かれたら、間違いなく「ノー」と答えるだろう。


「確かにいきなりは無理でしょうね。でも、まずは自分を否定しないこと。そして、ネガティブなことよりもポジティブなことを考えるようにしなさい。それを意識して続けていけば、少しずつだけど見える景色が変わってくるはずよ」


「お姉さんも、昔は俺みたいに……その、落ちこぼれだったんですよね?」


「ええ。そうよ」


「だったら、どうやってそれを乗り越えたんですか?」


 フミヤがそう尋ねると、女性は少し間をおいてから口を開いた。


「3年前に、旦那が死んだわ」


「……すみません」


 女性は、「いいのよ。気にしないで聞きなさい」と言い、話を続けた。


「私が自分に満足できるようになったのは旦那が死んだ後からよ」


 それ以前は、今のフミヤのように自分を受け入れられず、毎日が辛かったという。


「私の両親は、成人する前に死んじゃってね。まあ、魔物に殺されたんだけど、昔は珍しくもない話だったわ」


「……そうですね。俺の両親もそうでした」


「大変だったわね……」


 フミヤが探索者になろうと思ったのは、両親の死がきっかけだ。


 両親を殺した魔物という存在が憎くて、この世から存在を消してやりたいと思った。そして、魔物に殺される人を一人でも減らしたかった。


 アサカには金のためだと言ったが、それがフミヤの本心だった。


 もちろん、お金が欲しくないわけではない。ただ、それだけの理由でここまで探索者に執着はしない。


「それで、私は一時期施設にいたの。同じ境遇だった旦那ともそこで出会った。彼のことはすぐ好きになったわ。凄くカッコよくて、優しくて。私には勿体ないぐらい。付き合ってからもそれは変わらなかった。でも、結婚してからはあまり上手くいかなかったわ」


「どうしてですか?」


「施設を出た後、私たちは探索者になったんだけどね。全然上手くいかなくて、結局すぐやめちゃったのよ。それで普通に働く道を選んだわけだけど、生活に余裕がなくてね。成功した人と自分たちを比べて、いつも憂鬱だった。元々私は探索者に未練があったから、それで旦那ともしょっちゅう喧嘩してた」


 しかし、そんな女性の結婚生活は唐突に終わりを迎える。


 彼女の夫が、魔物に殺されてしまったのだ。


「本当に馬鹿な話なんだけど……旦那が死んでから、不満だらけだったはずの日々がどんなに幸せだったのか気づかされたわ。本当に大切なものは失ってから気づくっていうけど、その通りだった。今の自分が持っているものは、ついついあって当たり前だと思っちゃうでしょ?」


「……そう、ですね」


 たとえば、自分の命。


 フミヤは今、生きているが、生きたくても生きられない人もいる。


 あるいは、健康な体。


 今フミヤは健康体だが、健康になりたくてもそうなれない人たちがいる。


 言われてみればそれがとても価値のあるものだと気づくが、日々の生活の中ではついつい忘れてしまいがちだ。


「でも、それは決して当たり前なんかじゃないのよ。あるだけで奇跡のように幸運なことなの。だから私は、自分にないものを見ることはやめたわ。今ある幸せに感謝して、毎日を生きることにした」


 そのとき、小さな女の子が女性のもとに駆け寄ってきた。


「ママー! 見て見て! あれ、私が作ったんだよ!」


 女の子は砂場を指差し、はしゃいでいる。


 そこには、砂で作ったお城のようなものがあった。


「偉いわねアイリ。すごく上手よ」


「でしょでしょ!」


 笑い合う、女性と女の子。


 二人は、親子なのだろう。


「……ありがとうございました」


 フミヤがベンチから立ち上がった。


「少しは力になれたかしら?」


「はい。話を聞いて、ちょっとですけど変われた気がします」


「そう。それなら、よかっ――っ!?」


 女性が、急に言葉を切った。そして、いきなり女の子を抱き締める。


 いや、それは抱き締めるというよりも、何かから子供を守るような仕草だった。


 不審に思ったフミヤが背後を振り返ってみると、そこには――。


「っ!?」


 一言で表すなら、二足歩行の狼。


 ランク3の魔物、狼男ウルフマンが立っていた。


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