第11話 ヤンデレ彼氏、ヤンギレ彼氏

 スーパーからの帰り道、2人で並んで歩いている。当然のように買い物袋を持ち、車道側を歩く隣の黒髪の青年を楓音はそっと盗み見た。


(このひと、なんでこんな完璧なの?いくら神作画ゲームで2大美麗キャラクターのポジションにいたからって。他もできすぎじゃない?天が5物くらい投げ与えてる感があるわ……。欠点がないのよね。

だって現職キャリア警察官、剣道・柔道有段者かつ格闘技全般に精通、頭脳優秀、容姿端麗、本人は性格がよく、人当たりもよい……なんてったって、なんてったって)


 宵闇が忍び寄る。青を濃く塗りつぶした黒い夜空に銀色の瞬きが1つ、また1つ点灯してゆく。今日は星がよく見える。

 楓音が暮らすマンションは高台にある。少し急勾配の歩道を歩いて帰るところだ。

右の車道側に黒髪の青年、左のガードレール下は切り立った擁壁ようへきになっている。土を切り取った崖をガッチリ保持するかこい壁だ。鉄筋コンクリート造りなので強度は信頼できるが、かなり高所なのでこのガードレールを越えて宙へ足を踏み出せば転落死するだろう。

 感覚的に怖い。楓音は反対側の彼に体をそっと寄せた。前世で”イグニス”、現世で”澤井さわい國士くにし”という名の青年はサラッと髪を揺らして彼女に微笑んだ。


「どうした?……寒いのか?」

(――信じられないくらい紳士なのよねっ!)


 鼻血を噴くかと思った。危ない。そんな生き恥死んでもさらせない。前世からすごく好きだったが現世で再会した今、彼以外の男は考えられない。澤井に惚れきっている。ゾッコンというやつだ。楓音は首を振った。


(心底愛してるの。イグニス。……だから)


 優しい彼をこれ以上巻き込んではいけない。今日こそ解放する。勇気を振り絞れ!……自分から、離れるのだ。


「私に……付き合うことないのよ。自分でも自分が病気だって分かってる。現代で転生した魔王も白教皇も全然悪いことしてないし、ルビィは自分で自分を守れるぐらい強い性格だし。私が『ルビィを守る』必要なんてない。今みたいに理性がある時はちゃんとそれを理解してるのよ。

時々、頭が変になっちゃうだけ。……なんだっけ?お医者様が言ってたアレよアレ。仕事や対人関係ストレスで発症した、強迫神経症だっけ?こうしないと!って強く強く思い込むやつね。

『ルビィに危害を加える可能性のある存在を、殺してでも排除』とか馬鹿らしくて笑っちゃうわねー。何人目かのお医者様が『誰かに”そうする”よう強制された覚えは?』とかくどいぐらい尋ねてくるから嫌になっちゃって途中からまともに受け答えやめたし。結局、”強迫神経症”の診断で薬を山ほど出されるだけで虚しくて病院行くのも止めちゃったしー。プログラミングされた機械じゃあるまいし、人間に指令をインプットできるわけないじゃない!フフフ。

……だから、こんな妄言を吐く頭がおかしい痴女と付き合ってても時間の無駄よ。あなたの人生の貴重な時間のね。別れましょ。ここでいいわ。荷物持ってくれてありがと。」


 澤井が穏やかな表情で、うなずいた。楓音はホッとする。胸中は虚しさと悲しみではちきれそうだが、これでいい。精神病手前をうろうろしている自分に付き合わせては、彼が可哀想だ。せっかく転生したのに。自由にしてあげたい。


(さよなら……幸せになってね。)


 買い物袋を受け取ろうと伸ばした手を見もせず、澤井が淡々と言った。


「別れない。離れない。俺を捨てたら死ぬ。」

「はああああああッ?!」


 おっとー。ヤバい声が出た。静謐な夜の住宅街に楓音の間抜け声が遠く近く反響する。恥ずかしい。全力ダッシュで自室に飛び込んで鍵をかけ、布団に潜り込んで『ごめんなさい。奇声上げてごめんなさい。悪気はなかったんです。』とかどこかの誰かにブツブツ謝罪したい。

 いや待て。なんて言った?コイツ。黒髪の美青年がニコッと笑った。


「楓音の身辺調査は済んでる。マンションの鍵の型番も知ってるし、別にあんなのいつでも開錠できる。電話だって、内容は全部アプリで盗聴してる。マンション屋内・室内に俺が設置した小型カメラ24個、気づいてもない様子だな。

実家も、友人関係も、君をつけまわす有象無象の変態ストーカーどもの露払い状況も全部、常時把握している。前から思っていたんだが……君」


 彼の黒い穏やかな瞳がギラリと怒りに輝いた。怒った顔を見せたことのない恋人の姿に楓音の背筋がビクッと震えた。

 ええっ?!怖い!怖いけどイケメンの激オコ顔、超萌える!『穏やか系Sっ気彼氏』大好き。つい興奮したのは楓音の病んだ性癖ゆえだ。お恥ずかしい。


「俺をナメてないか?」

「……いやいやいや。別れる別れないの修羅場話してるのに、サラッと犯罪行為を自白してなかった?盗聴?盗撮?ストーカーの露払い?えっ?國士、何やってんの?何やっちゃってんの?!アンタ皆の憧れと尊敬の的、聖騎士パラディンでしょうが!」

「今は聖騎士じゃない。警察官だ。」

「ほぼ同じよッ!アホか――ッ!」


 信じられない。『好きなひとは、ヤンデレでした。』……そんなタイトルでアニメ化できそうだ。当然にして深夜枠。

 楓音は怒りでブルブル両手を震わせた。キッと涼しい顔の恋人を睨みつける。


「別れる。絶対、別れる。マンション引っ越すし、携帯は機種変更した上で変えて、二度とあんたとは会わない。そんなこと勝手にする男、信用できない。何が”ストーカーの露払い”よ。あんたこそ歪みないストーカーじゃないの!」


 イグニス澤井が不思議そうな表情を浮かべた。”そんな濡れ衣は心外だ”と言いたげだ。


「――言っておくが、君をつけ狙ってた変態連中の内には凶器や各種監禁グッズを用意していた輩が複数いたぞ。地下室。郊外の別荘。日本風家屋の離れ。廃ビル。そんなところで君を飼おうなんて、想像準備段階で万死に値する。

ああ。……ちなみにゲスどもは全部、脅した上で秘密裏に”処理”しておいた。もう心配はいらない。君は自分が人目をこの上なく惹く魅力的な容姿ということを肝に銘じ、俺の厳正な管理下で俺に守られて生涯幸せに暮らすといい。」

「ちょっ……すごいイイ話みたいにシメたけど、言ってる内容トチ狂ってるよね?

あんた自身も完全に『管理監禁系ヤンデレ』思考だよね?!どっかの魔王じゃあるまいし正気に戻って!

というか、そんな必殺仕事人じみたスキル持ってるなら、ザナディス猊下だってサクッと社会から抹殺できたんじゃ……。」


 澤井が真剣にうなずいた。


「ザナディスは、カノンきみに興味がないからな。現時点で殺す必要がない。」

「基準を”そこ”に置かないでっ!」


 頭痛がする。ダメだ。この男、黒教皇と並んで『伝説級クソゲー内、残された良心』と呼ばれたまともキャラのはずなのに。なぜか完全に犯罪者脳だ。


(イグニス、前世と別人じゃない?頭が固くて、融通きかなくて、正義感が強くて、犯罪行為なんて絶対しなかったのに。……あれ?イグニスだけじゃない?ひょっとして『転生者』全員、性格は昔と180度変わっちゃった、とか……?まさかね。)


 携帯電話がコートのポケットでブルブル震えている。『盗聴禁止!』とキツい視線を澤井に向けながら楓音は電話をとった。


「はい。瑠実。どした?」

『単刀直入に聞く。楓音、前世の記憶あるの?……あるなら、緊急で伝えないといけないことが』


 電話の向こうで『聖騎士も一緒にいるか聞いてー』と魔王の声がする。車の中にいる雰囲気だ。

 楓音は目の前の恋人を見つめたまま返事をした。きっと今から、白教皇を襲わせた件で瑠実に糾弾されるが当然だ。友人を失うかもしれない。腹をくくる。


「うん。前の記憶あるよ。魔王がすぐ近くにいるのも、知っててずっと黙ってた。……ごめんね。”イグニス”は一緒にいる。白教皇猊下の件ね?」


 少し間をおいて、瑠実が落ち着いた声で話し始める。


『……そのザナディスが”楓音を助ける”って言ってる。さっき電話で教えてくれた。楓音には”行動強制暗示”がかかってる、って。このまま放っておいたら精神分裂して自傷行動が始まるから危ないって。

カノンね……前世でウィーグ様が亡くなる時に『勇者を守れ』とか言われた?』

「えっ。ウィーグ様……?”遺言”?」


 突然出てきた単語に混乱する。不思議なことにその場面にまつわる記憶が白い。震える声で呟いた。


「……全然、何も。覚えてないよ。」

『”教皇の遺言”を聞いたら”行動強制暗示”がかかるんだって。ウィーグ様がザナディスに、カノンにそれを”かけた”って言ったらしい。』


 澤井が楓音の手を優しく握って、携帯電話を自分の耳元へ移した。楓音の代わりに瑠実と話す。


「そんな話は聞いたことがないが、確実なのか?」


 ルビィが静かに答えた。


「現世のザナディスは信用に値する。本来その暗示は解除不可能らしい。でも、”自分が何とかする”って。」

「お前は奴を信じるんだな。」

「信じる。こういう勘はぜんせから100%外さない。あいつの言葉は信じていい。イグニスもカノンも私を信じろ。ただ、最大の問題は……」


 瑠実が言いづらそうに口ごもった。ためらいと沈黙が広がる。魔王の冷ややかな声が通話口から代わりに流れ出た。隣からひょっと割り込んできた感じだ。


「肝心の黒教皇が、反対してるんだよ。」





 


 ダァンッ!


 本堂のルートから外れた人気のない場所で御堂の壁に体を押しつけられた。体の要所要所を押さえられ、逃げられない。

 工藤から奪った携帯電話を東条が自分のデニムの後ろポケットへ無造作に突っ込む。黒い双眸でギロッと正面から強く睨まれた。負けじと工藤も青い目で睨み返す。シンとした境内にサワサワ紅葉が揺れる葉音が鳴った。


「離せ。まだ話の途中だ。電話を返せ。」

「気に入らない。」


 東条が工藤の動きを封じたまま、低く恫喝した。


「”教皇の遺言”は解除不可能だ。カノンを助ける方法は存在しない。なんだって?『私が解除する。女司祭を連れてこい』って。何をする気だ?言ってみろ。」


 暗がりで2人の眼光が鋭く交錯した。金髪の青年が慎重に口を開く。


「お前が死に至る暗示をかけた相手を助けるだけだ。なぜ邪魔をする。……ちっぽけなプライドでも傷ついたか?己の失態で罪もない女司祭を死の危険にさらした尻ぬぐいを白教皇わたしにされるのが気に入らないか?

……くだらんな。貴様の葛藤なぞどうでもいい。離せ。小娘と魔王にまだ話が」

「暗示をかけた俺にも解除できない呪いものを、お前はどうやって解除するつもりだ。」


 工藤が東条の目を真っすぐ見た。心を定めた者の目だ。逃げず、言葉を紡ぐ。


「……解除は無理だがはできる。先代教皇より口伝で教わった。だから白教皇わたしの”遺言”で上書きする。『勇者を守らなくていい』と。それで相殺できる。急ぐ必要がある。自傷思考・行動が発露する前に解除しないと、前世同様に女司祭が自死するぞ。

それを知りながら、なぜ放置した?その貴様の神経が私には信じがたい。」


 東条がカッと黒目を見開いた。工藤の腕と腰をつかむ手にガッと強い力がこもった。


「やっぱりな!そっち系の裏技だと思った!――”白”の連中は本当に小賢しいな。

 ……で?お前は自分を殺そうと画策した相手を自分の命でもって助けようって?笑わせる。なんのドラマだ。誰も褒めてくれないぞ。前世のお前ならそんなこと意識の端にも上らないだろうよ。そんなことをしてお前に何の得がある?

お前さぁ~、どうしちゃったの?ヤッバいくらい前と別人じゃん。平和な時代に転生して、恵まれた環境で金も容姿も人が羨むレベルで持ってて、何を死に急いでんだよ!馬鹿か?ああ?馬鹿なんだなッ?!」


 ザナディスが小さく息を吐いた。瞼を閉じる。


「前世で多くの命を奪った私が再びこの世に生を与えられた意味をずっと……ずっと考え続けてきたが、答えは出なかった。だが、さっき”遺言”の話を聞いた時に心の欠けていた場所に最後の破片が埋まった気がした。……きっと、このために神は私に命をお授けになられた。ここで彼女を助けるために”駒”として。

それなら生まれ直した意味がある。……救われた気が、する……。

どけ。女司祭の暗示を解く。それが私の現代ここで最後の仕事だ。」

「お前は」


 ウィーグが厳しい声音でザナディスに言った。隠せない苛立いらだちが声に滲み出る。腰を封じる手がひどく熱かった。


「……生まれたことを誰かに『許して』欲しかったんじゃない。『罰して』欲しかったんだな。」


 暗闇の深い波間に沈黙が溶けて沈み込む。行き場のない激情が、暗い御堂の中をうごめいた。


「わかった。……なら」


 東条が工藤の腕と腰からスウッと自分の手を流した。スス、ス、と工藤の体を妖しくなぞって東条の両手が動く。工藤の両手のひらにたどり着き、そのまま手をギュッと握った。


(――まさか)

(正気か?『聖者』『人徳者』と名高い黒教皇ともあろう者が!)

(自らの固有魔法で白教皇わたしを――”洗脳”する気か?)


 何をされるか気づいた時には遅かった。身じろぐ間もなかった。黒髪の青年の体から慈悲深い緑色の燐光がゆらっと立ち上り、金髪の青年目がけて穏やかに襲いかかる。


「よせ!ウィーグッ!」

「お前が悪いんだよ。ザナディス」


 一切の躊躇ちゅうちょなく、東条は固有魔法『暗闇のゆるし』を全力で発動した。精神操作系魔法の極致と称される魔法だ。工藤の全身を淡くやわい緑色の光が包んだ。東条の硬い声がポツリと落ちる。

 

「……もう神に祈るのも、すがるのも、まして命を捧げるのもやめろ。祈るのも縋るのも、相手は”俺”にしろ。お前のすべてを受け取って奪って閉じ込めて――」


 月光も届かず、救いの光もない暗がりで黒い瞳をかげらせた元教皇の青年が愛しさを込めて微笑んだ。2人の足下にヒラリと舞った赤い紅葉がウィーグの固有魔法の輝きに照らされ、静かに緑色に光る。


「俺がお前を『罰して』やるよ。」







「そもそもウィーグ様のせいなのに!……なぜ、ザナディスの邪魔をするのか、理解できない!」


 瑠実が憤慨している。夜の住宅街なので声量を控えているが、怒りが収まらないのか拳を握った手をブンブン振っている。

 澤井はフッと微笑んだ。転生しても妹分のこの子供っぽさは相変わらずのようだ。

隣に立つ元魔王の青年はつまらない表情でそんな彼女を眺めている。彼女の関心が他人に向くのが嫌なのだ。こちらも変わらないな、と懐かしい思いに胸が満ちる。


(前世で2人が恋愛関係になる前、ユトが一方的にルビィを追い回していた頃の雰囲気そのままだな。……まだ、再会して間もないのか。”関係”が安定していないからユトが不安になってるぞ。)


 彼女の方は、彼の状態に気がついていない。ルビィは純真で真っすぐで愛情深い。とても素晴らしい性格だが人の心の機微に疎い。複雑にねじくれた性格の『彼』は、よくそれにイライラしていた。 


「……でも、どうして白教皇猊下が私を『助ける』なんておっしゃるのか、逆に私は分からないよ……。前世の悪逆非道なイメージ強いし。そもそも何の関係もないよね?襲ったことを恨まれこそすれ、助けてもらえる立場にないのに。」


 楓音が不可解な顔で首をひねった。瑠実から電話がきた後に相談の為、2人は楓音と澤井がいる場所まで車でやって来た。

 遅い時間だし、楓音の部屋へ入って続きを話した方がいいかもしれない。そう提案しようとした時、黙っていた一色が口を開いた。


「……ルビィ、なんで分かんないの?」

「え?何が?」

「だから!」


 一色がアッシュブラウンの髪を鬱陶しげにかき上げた。刺々しい口調で言い放つ。


「”教皇の遺言”は解除不可能。そこは白教皇も否定してない。つまり白教皇がやろうとしてるのは『解除』じゃない。」


 瑠実がう~ん、と宙を見つめながらうなずいた。一色の話を咀嚼するため考えながら聞いている。甘い顔立ちの優男は退屈な映画を強制鑑賞させられている目で説明を続けた。


「俺の推測だけど、多分外れてない。白教皇は自分の”遺言”で黒教皇の遺言をしようとしてる。

黒教皇は、それが気に入らない。白教皇に死んで欲しくない。だから反対して通話を妨害した。電話が突然切れちゃってあっちの状況は不明だけど、間違いなく白教皇の身柄を拘束してこっちには来させないよ。」


 瑠実が茶褐色の両目をパッチリ開いて、驚いている。疑問符がすごい速さで頭上を飛び交っていた。こんな時になんだが、世界で一番可愛い。くだらない茶番は放ってもう2人でとっとと帰りたい。一色は深いため息をついた。


「……な、ななな、なんで?なんでそうなった?ザナディスがする、の箇所までは理解した。私もザナディスが死ぬのはちょっと……。でも。

でも、ウィーグ様がザナディスのためにそこまでするのは、なんで?”守る”ってさっき約束したから?

あの2人、別に元々仲良くないよね?前世で白教会の密偵がウィーグ様を毒殺したのもザナディスの命令だし。天敵じゃないの?なんか、そこで思考が止まっちゃって……。」


 殴りつけたいくらい鈍い。そこが可愛いが、今は果てしなく腹が立つ。イライラが止まらない。一色は吐き捨てるように言った。


「現世の黒教皇は白教皇を”気に入ってる”。料亭で2人を見てて、気づかなかった?前世で自分を殺した憎い相手に『守ってやる』とか普通言う?言わないよ。目の温度が全然違ってた。”好き”だから”死なせたくない”の!分かった?」


 瑠実が呆然としている。元聖騎士の青年がなるほど、という表情でうなずいた。


「そうだな。俺なら”監禁”する。他者のために死ぬなど絶対に許容しない。」

「――あんたは、露骨なヤンデレ思考を言葉にしないでッ!」


 楓音がゾワ~ッと悪寒を耐えられない様子で両腕を抱きしめた。目に涙まで溜まっている。

 瑠実は(あ……イグニス、現世でもカノンのこと『管理』してるのバレたんだ……)と遠い目をした。一色が瑠実の腕を少し乱暴につかんだ。荒い声で急かすように言う。


「帰るよ。もう、いいでしょ?白教皇は来ないよ。女司祭は聖騎士が守ってるし、もう俺達何もできないし。ね?」


 ココアブラウンの髪をした元勇者の彼女はじっと地面を見つめ、顔を上げた。元魔王の青年を迷いのない瞳で見る。


「……ザナディスは『早く解除しないとカノンが自死する』って言ってた。強すぎる暗示に耐えられなくて自我が崩壊して、精神が逃避行動で自傷に走る、って。

やっぱり心配だから、今は楓音の傍でザナディスに頼らない方法が何かないか考えたい。悠……遅くまで付き合わせて悪かった。

もう少しこの2人と相談するから今日は先に1人で帰ってくれ。明日、連絡する。」


 一色が目を見開いた。顔色をなくす。震える唇を無理に開き、言葉を絞りだした。


「は?噓でしょ?俺より、女司祭そっちを優先するの?」


 瑠実が困った顔で答えた。なだめるように言う。


「お前をないがしろにしてるんじゃない。ただ、友達だから心配なんだ。前世も現世もずっと一緒にいた大切な友達だ。

しかも命がかかってるんだぞ?方法があるなら力になりたい。……普通の感情だろう?頼むから、ワガママを言わずにおとなしく」


 一色がグシャリと顔を歪めた。泣きそうな、こみ上げる怒りに何かが弾け飛びそうな危うい表情で瑠実を睨む。


「前世からずっと。ずっとおとなしくルビィの言いなりになってたよね?俺。

イヤだ。今、すごく腹が立ってどうしようもない。

探して探して探して探して、会いたくて会いたくて、やっと昨日会えたばかりなのに俺達まだほとんどお互いの話もしてないよ?

白教皇がどうとか!女司祭がどうとか!他人そいつらなんてどうでもいいよ!

――ルビィ、俺のことちっとも考えてくれないよね?

なんで?俺のこと、愛してるんじゃないの……?なんで他を優先して俺は後回しなの?ねぇ。変だよ。そんなの全然俺を『愛してない』よ。」


 瑠実が落ち着いた声で答えた。茶褐色の瞳は悲しみの色を宿していた。冷えた夜風が彼女のセミロングの髪を揺らす。


「『愛してる』し『信じてる』。だから、お前の気持ちを私は1ミリも疑わない。

逆だ。お前が不安で嫉妬ばかりするのは私を、私の気持ちを『信じてない』からだ。……『愛してない』のはどっちだ。

お前こそ、私を愛してるなんて口先だけだ。お前は、前世で感情を動かした”勇者ルビィ”のイメージに恋をし続けているんだ。

今、目の前に立っている私を見ていない。その証拠に現世の私の名前を呼ばないし、私の言葉もそうやって露骨にはねのける。

……もう、私達は昔のままじゃないんだ。違う世界で違う環境で育って生きてきた、ぜんせの記憶を持ってるだけの別人だ。私も、お前だってそうだ。きっとカノンとイグニスも。それをお前は頭で理解しているのに、心の奥で拒絶している。

魔王ユトが恋をした”ルビィ”は氷づけになって死んだ。もういない。私は、お前の恋人の記憶を持ってるだけの別の人間だ。お前は”ルビィ”ならしないことをする私が”気に入らない”んだよ。それはユトの恋人ルビィじゃないから。」


 一色ユトが苦しそうに首を何度も振った。ボロッと黒い目から涙がこぼれ落ちる。ぎゅうううっと拳を固く握った。一色の明るい灰色の上着の裾が風にはためく。寒いくらいの気温の中、感情の高ぶりで熱が全身を巡った。


「違う!ルビィは死んでない!必ずまた会えるって、それを支えにしてずっと……!」

「死んだ。でも、また会えた。私は――」


 瑠実ルビィが切ない表情で微笑んだ。人が何かに決別する時の、強い意思を秘めた顔だ。彼女はゆっくり言葉を続けた。


「お前がもう魔王ユトじゃなくても愛してる。ずっと愛してた。……でも、お前はそうじゃなかったみたいだ。

失望させて、ごめん。でも会えて心から嬉しかった。気をつけて帰れよ。

――じゃ、一色主任。休み明けにまた。友人と話があるので、お先に失礼します。」


 軽く頭を下げた彼女は綺麗な姿勢で踵を返した。黒髪の青年と、寄り添って立つ栗色の髪の美女の元へ歩き出す。彼を振り向きもしなかった。言葉が、出ない。心臓がドクドクいっている。全身から血液という血液を吹き出しそうだ。

 一色は目を大きく開いたまま、瞬きもせず彼女の後姿を見つめていた。


(……えっ?何が。何が起こったの?俺、ちょっと拗ねて文句言ったら)

(『仕方のない奴だな』って、笑ってルビィが俺を見てくれると思って)

(前世でいつもそうだったのに。なんで?なんて言った?『ごめん』『失望』?えっ?)


 ガクリ、と膝が崩れた。アスファルトの地面に膝をつき、呆然と去ってゆく愛しいひとの後姿を眺める。

 友人達と合流した彼女は彼を見ない。黒髪の青年が、気づかわしげにチラッと一色の方に目線を流した。彼に背を向けた3人が坂道を上ってゆく。

 世界がグニャグニャ歪んだ。体の震えが止まらない。冷たい汗がドッと全身から湧き出た。早鐘を打つ心臓は破裂寸前だ。痛い。信じられない。信じられない、が。


(俺、捨てられた?ルビィに)

(捨てた、よね。もう見限ったってこと?!)

(イヤだ……イヤだ。絶対、絶対にそれだけは)


 ザラリと一色のアッシュブラウンの髪の色が、銀色へ染め変わった。黒い瞳がドロッと深紅にかげる。キィィィンと魔王の証、深紅の双眸が闇の輝きを帯びる。周囲の空気がおぞましく逆巻いた。ハッハッハッハッハッ。息が苦しい。呼吸が浅く早く咽喉を締めつける。血液が体を逆流する。すべての力が体から抜け落ちるような、全能の力が体にみなぎるような不思議な感覚を持て余す。


「……ビ、ィ。……か、な……で」

(行かないで!)


 歩道の10メートル以上先。ハッと不穏な気配に気づいた栗色の髪の美女が振り向いた。瑠実を庇うように、前へ出る。その横へスッと黒髪の青年が並んだ。

 一色はユラリと身を起こし、立ち上がった。深紅の瞳が燃え盛る炎よりまぶしく輝く。茶褐色の瞳の彼女がキョトンと背後の友人達を振り向いた。強く熱く彼女を見つめる『彼』の変貌が視界に入り、驚いたように口を小さく開く。


「……ユト?」

「ひどいよ。ふふ。君にフラれるなんて、想像もしなかった。」


――ビキビキビキビキビキビキビキィ!


 一色から3人まで直線距離十数メートル、アスファルトの路面が一瞬で凍結した。厚い氷がガードレールや電柱を凍りつかせ、キラキラと零度の光を放つ。氷が支配する世界の中央に『魔王』がいた。


「前世で1度、言ったよね?ルビィ。俺を捨てたら」


 銀色の髪が夜風にサラッとなびいた。前世そのままの姿に戻った一色まおうが闇を従えて佇む。恐怖と美しさをまとった青年は、うっとりと元恋人を見つめて残酷に微笑んだ。


「……殺すよ。」

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