第10話 黒教皇の遺言

 藤色の番傘が頭上に艶やかに咲いている。はらりと散った紅葉が一葉、傘に乗った。足下から差す照明光が少しまぶしい。赤児の手を思わせる小さな華が下からの明かりに黒い影を身に纏う。

 長く続く石段を歩く足を止め、工藤は番傘を透かして浮かぶ紅葉の影をそっと見つめた。


(なんと美しい……)


 前世にこんな情緒はなかったように思う。心と生活に余裕がなかったとも言える。殺らねば殺られる。奪わなければ奪われる。先手必勝。追い立てられる日々の強烈な焦燥感はまざまざと思い出せるのに。肝心の自分が何を欲し、何を望んでいたかは思い出せない。希望も欲求も、なかったのかもしれない。


(生きている実感もなかったな。)


「おーい、そこのぼんやりさーん。まだ6時半だし、余裕で”夜間拝観”間に合うって~。行こうぜ。ここの紅葉ライトアップ気になってたんだよ!近所なのに、考えたら寺って行ったことなくてさ。

……はは。無意識に避けてたかも。ほら、”他宗派”感ぬぐいきれなくて。お前なら理解してくれるんじゃない?この感覚的な違和感?どう言えばいいかな。意識にかかる固いしこりみたいな気持ち悪い部分。」


 黒教皇ウィーグの有無を言わせぬ強引な論理展開により、工藤は東条の自宅に匿われることになった。

 『え?喧嘩しない?でもイグニスが襲ってきた時ウィーグ様が一緒の方が安心か……ウィーグ様強いしな。』という思案顔の勇者。

 そして『え?!身辺警護、丸投げしていいの?ラッキー!正直ザナディスの生死、全然興味ないしー。ルビィといる時間減るの嫌だしー。』という僥倖顔の魔王。


(弾けろ。貴様ら。聖騎士なぞ心底どうでもいい!なぜ私がこんなチャラい前世の敵対勢力筆頭、精神年齢100歳越え(前世享年76歳を含む)の輩に世話にならねばならんのだ!)


 という怒りの罵詈雑言を口から出す前に、引きずられ解散の流れになってしまった。気づくと帰り道から脱線して、とある有名な古刹の夜間拝観に連行されつつある。信じがたい超展開だ。

 更に信じがたいのは、明確な拒絶もせず流されるまま東条にフラフラついて行く自分自身だ。


(なんだ?こいつ……強引、雑、一方的を絵にかいたような振る舞いで相手のことを完全無視の態度なのに。なぜ)


 彼の言うことを聞いてしまうのか。従わされてしまうのか。自分も頂点に立っていた身だ。この乱暴さに怒りを覚えるはずなのに。

 石段を先に上っていた黒髪の爽やかな青年が上から振り向いた。黒い瞳をニコッと優しくゆるめる。ほら、と意外な優雅さで工藤へ右手を差し伸べた。


「来いよ。ザナディス。」







「黒幕は”カノン”とやらだな。小娘の仲間にいた白教会出のひら司祭の。」

「あー。やっぱ気づいてた?相変わらず若いのに慧敏けいびんだなー。……生きるのすっごいしんどそう。

さっきは料亭でわざと名前出さなかったけど。魔王の彼……一色君だっけ?も気づいてるね、あれは。うん、君ら似てない?

ルビィは懐に入れたら”盲目フィルター”かかる純粋仕様だから無理かなー。そういうトコ可愛いけどねぇ。……ちなみに何をヒントに黒幕、推理した?」


 腕を頭の後ろで組んだ東条が軽い調子で尋ねてきた。工藤は彼の後をついて歩きながら、答えを返した。


黒教皇きさま以外で聖騎士を動かせる人間は、そいつだけだ。」

「ご名答。」


 光の速さで拝観料を2人分支払ったこの男により、ライトアップされた幻想的な境内を引きずり回されている。

 のこのこついて行ってるのかお前は!という自分へのツッコミは無視だ、無視。

いや?断じて光に彩られた寺の各種造形美に感動なぞしない。こんな誰もが褒めそやすものに容易に心を動かすと思われること自体、不愉快だ。

 輝くほど磨かれた廊下に美しく映る紅葉の朱色がどろりと流れる血に見えた。その赤が妖しく心をグラグラ揺さぶり、惑わせる。

 ふいに思い出した。教会裁判で受けた罪人達からの怨嗟と糾弾の叫びが、ザナディスの記憶の闇を激しく叩く。


(呪ってやる……ッ!ろくな死に方ができると思うな!白教皇きさまは未来永劫、悪夢をさまよい続けろ!)


 青い瞳の端正な人形を思わせる容姿の青年は立ち止まり、視線を下に落とした。


「その女の動機は、前世の”怨恨”か。」


 後悔の表情を浮かべた工藤の横顔に、東条はふ~んと半目になった。夕方は少し肌寒い。風にそよぐ紅葉が上から廊下にパラパラ降ってくる。工藤の金色の髪に一葉、くれないの華が舞い降りた。


(コイツ、前世と別人じゃない?……なんでこんな”反省大魔神”になっちゃったの?ルックスと記憶はそのままなのに。でもこんなザナディスおまえの方が)

(不憫で不幸で)

(……すごく、可愛い。)


「若い2人に言わなかったヤバめの秘密があるぞ。ちなみに聖騎士イグも知らない。気づいてもないんじゃないか?昔の話だ。」

「ゲーム世界での?あの2人が知らないことがあったのか?」

「あるある。ルビィは”漆黒の大聖堂”が全焼した夜に他のメンバーとはぐれて、2ヵ月単独行動してたからな。でも魔王の彼がすぐ来てず~っと一緒にひっついて旅路を共にしてたから、実質2人旅かなー。

ハハハ。……彼はそのままかっさらって永久に2人でいたかっただろうけど。ちなみにカノンは魔王がしゃしゃり出てきたのにすごくイライラしてた。

イグは逆に安心してたな。あそこ、なぜか仲いいんだよ。」


 笑いまじりに語る東条に、工藤が驚いて顔を上げた。東条が優しく目を細める。

工藤の髪に挿さったままの紅葉をスッと指で抜き取り、華奢な葉柄ようへいをつまんでクルクル回した。


「まさか……勇者の仲間と一緒に行動していたのか?黒教皇の時に?初耳だぞ。密偵もそんな報告は一切」


 東条がはんなり笑った。ザナディスが知らない人間の顔に変わる。『清廉潔白、温和』な老教皇でなく『悪や混沌、憎悪というものの本質を理解した』側の人間の無機質な表情だ。

 工藤は我知らず寒気を覚え、身震いした。無意識に片腕で自分を抱く。目の前の男に、底知れない不気味さを感じた。


黒教皇ウィーグ、前世と別人じゃないか?昔は、いつも穏やかで善良な優しい雰囲気だったのに。この表現が似合うことに驚くが……”邪悪さ”を感じるぞ。)

(怖い)

(近づけば飲み込まれる)


「幻覚魔法だよ。全然違う人間に見えるよう、常時姿を遮蔽していた。処刑人や密偵を山ほど抱えてる白教皇に命を狙われてるんだ。それくらい普通だろ?

ともかく残り3人と合流して今後を相談してた時になんと俺、死んじゃって。死ぬとき”遺言”をしちまった。」


 工藤が片眉を跳ね上げた。


”教皇の遺言”。


 その隠語は白教会と黒教会の教皇経験者にしか知らされない。つまり現在この世界では、この2人にしか通じない言葉だ。


「貴様……。それは」


 目の前の男が、両手のひらを上げる降参のジェスチャーをした。肩から大きく息を吐く。他の拝観客の弾んだ声が廊下の角を曲がって残響のように木霊した。 


「死に際でミスった。真剣に反省してるよ。俺の『遺言』を聞いた相手が、”カノン”だ。」



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



 粗末な木のタライに張った水の表面が中心から急に波立った。ゆるやかに広がる波紋から水面が鏡になり、銀色に光り始める。

 しわひとつなくピンと張った水面に人影が映った。焦げ茶色の髪の少女だ。黒教会の漆黒の騎士服を身に着け、男装している。指名手配されている状況を考慮し、黒教会の司祭達が着替えに渡したとみられる。髪を後ろで1つに縛った姿が似合う。凛々しかった。


(おーい。聞こえる~?こっちからはみんなが見えてるよ。3人とも無事で安心した!……その、イグニスの隣でニッコリしてる若い女性、ちなみに誰?知らない顔なのに、知り合いっぽい気がしてならない……。

ん?っあ、あ、あ~~~~~ッ!)


「フッフッフ。未熟者が!こーんなお粗末な中級幻覚魔法も見破れんなら”勇者”の看板なぞさっさと返上せんか!」


(う、わぁ、あ――。やっぱウィーグ様だ……?申し訳ありません。

まさか若~い妖艶系巨乳美女に化けてるとか頭が完全に理解を拒否してて、未だに受け入れたくない現実を目の当たりにした気分です。

声まですっかり女の人?!幻覚魔法コワイ……。絶対、普通の男の人は引っかかっちゃうよなぁ。街で美女に一目惚れしたら正体は教皇様(76歳、男)とか、一生引きずりそう……グスッ)


「話が長く、要点が不明だぞ。異性に化けるのは逃亡戦略の初手じゃろうが。この3人と合流してからはずっとこの姿だぞ。」


 黒教皇ウィーグがケタケタ笑った。通信魔法を受信している水鏡の向こう側でまだルビィが『うぎゃぁ――』と頭を振っている。

 ひょこっと横から銀髪に深紅の瞳の青年が水鏡に顔を出した。カノンがゲッ!と嫌悪もあらわな声を出す。明らかにわざとだ。そもそもこの水を介した上級通信魔法自体、ルビィは習得していない。通信が来た時点で『彼』が彼女の傍にいることは明白だった。


(カノンが魔王を嫌うのは、親友ルビィを盗られた気がするんだろうな。)


 ただ、イグニスはそうでもない。意外に魔王ユトと話が合ったりする。カノンが魔王へグチグチ嫌味を言い始める前に、聖騎士の青年はそっと彼女の口元をハンカチで押さえた。この2人の口論は長い。話が先に進まないのは困る。

 途端にカノンが頬をボワッと赤く染めた。つられてイグニスまで思わずカアァッと赤くなる。


「……悪かった。急に」

「……いい。別に」


 周囲の残る全員の目が”生暖かい”。この聖職者・両片思いップルは年がら年中こんな感じなのだ。『お幸せに……!』を通り越し、『いい加減にしろ!』と全員が共通見解を抱いている。しら~っとした顔で魔王が水鏡越しに言った。


(……ねぇ。ルビィ。もう通信これ、切っていい?なんか見せつけられてる感じしてイヤ。あっちの無事は確かめられたんでしょ?

もう用事ないし、いいよね。じゃあ皆さん、どうぞ続く残りの人生を僕達に関係ないけどお幸せに――!)

(こら!何を”永遠とわのお別れ”みたいなセリフで締めくくって、通信を強制終了させようとしてるんだ!お前、邪魔だから後ろに引っ込んでろ。

イグニスとウィーグ様と今後の打ち合わせするからおとなしく石と砂利で遊んでおけ!)

(えー。イヤ。つまんないー。ルビィがこっち向いてくれないと全然つまんない!石と砂利で巨大ゾンビゴーレム造って近隣の村、よー。

構ってー構ってー。)

(話はなるべく短くまとめるから、いい子で待ってろ。ちょっ……お前どこ触って。や、やめろ。みんな見てるし聞いてるから!)

(ねぇ。やり返したい。こっちも見せつけようよー。ね?)


 水鏡を介したこちら側全員の目が”死んでいる”。屍の気分だ。この勇者・魔王両思いップルめ……!ひたすら『爆砕はぜろ』という爆発系攻撃魔法の呪文しか脳裏に浮かばない。水を介した向こう側に届くはずもないが腹立ちがひどい。

 実に恐ろしいことに、本人達はこれで付き合ってるのを隠しているつもりだ。ため息も出ない。


「……怪我はしていないか?襲ってきた戦司祭達は撒いたのか?」


 イグニスがぽつりとルビィに尋ねた。彼は妹分が白教会の暗殺者達に深手を負わされていないか、ずっと案じていた。通信で見る限り元気そうだが、なんせ1人 対 28人の戦闘だ。普通生き残れない。魔王が助けに来たのは本当に運が良かった。

勇者の少女が手を振って元気よく返事をした。


「大丈夫!ユトの固有魔法で戦闘前の『状態』に体を戻してもらった。どこも傷一つないし、魔力もフルパワーだよ。

心配したよね。悪い。あいつら全員とどめ刺して黒教会の司祭さん達が裏山に証拠隠滅してくれたから、口封じもバッチリ!ご安心を!」


(((は?)))


 ウィーグ以外の3人の目が点になる。世慣れた老爺だけが「ほっほお~、やるのう!」と朗らかに笑った。妖艶系美女の姿で。

 カノンがドン引いた声で言った。動揺で声が震えぎみだ。


「……いやいやいや。28人いたよね?あんた、1人でそれ倒したの?」

「27人は。最後の聖十字架剣ホーリーソード持ちはユトが凍らせて瞬殺した~。一瞬死ぬか、いやユトが助けに来るかもと思いつつ。」

から。間に合ってよかったよ。……ホントに」


 スルッと背後から魔王の青年の腕がルビィに巻きついた。きゅうっと抱き締めて、うっとりした深紅の瞳が彼女だけを見つめる。

 当代の魔王は顔がいい。この顔に愛しげに見つめられてオチない女性がいるだろうかと誰しも絶望するほど顔がいい。ルビィが鬱陶しそうにペチッとその手をはたいた。頬が赤い。


「話の途中にそういうのはやめろ。後で構ってやるから。」

「うん。”話”をやめればいいんだよ。」


プツン。


 人影が映っていた銀色の水鏡が光を失った。ただのタライに張られた水に戻る。なんの断りもなく一方的に通信を切りやがった。


「……あ、ん、のワガママ腹黒男がぁ――ッ!肝心な話が何もできてない状態でわざと切った!絶対間違いない!あの性悪魔王、ルビィをこっちへ返さない気よ。あわよくば2人で”愛の逃避行エスケープ”とか目論んでるの分かってるんだから!

悔しい。悔しい悔しい悔しい悔し~~~いっ!」


 清楚な女司祭が絶叫した。ガチギレている。やれやれ。イグニスはポリポリ頬をかいた。リュシーがジト目で『相変わらずあおるなぁ。魔王、カノンへの嫌がらせランクアップしてるよね。』とか小さく呟いている。

 ウィーグだけが無言で水面を見ていた。彼は魔王が言葉に混ぜた”警告”に気づいたのだ。


(”この先で”)

(”まとめて襲ってくる”)

(”近くにいる”)


 この数語だけ、いんを高く変えて発声していた。内容が意図するところは明らかだ。この町か宿屋か。既に周囲に白教会の密偵が潜伏している。

 油断するな。警戒を怠るな。そしてこの通信も聞かれている。魔王ユトはそれを言葉の欠片と視線に含め、さらりと伝えてきた。だから、あえて行先の相談など本題に入る前に会話を打ち切った。


慧敏けいびんな若造よのう……)


 実に心強い。彼がついているなら、教え子の少女は心配いらない。彼女が彼をフッたりしない限り。ハア、と妖艶な美女姿の教皇はため息をついた。


(その心配があったか。……恋愛はどう転ぶか分からんからのう。)


 願わくば、彼から彼女をフるか。でなければ、彼女も彼と同じかそれ以上の愛情をはぐくみますように。


(あの男を”捨て”たりしたら血を見るぞ、ルビィ。)


 もしくは痛めつけられて心をボロボロに壊されるか。ろくな終焉が待っていない予感しかしない。

 青年魔王の感情の温度は、高すぎる。戦場の強敵と命の奪い合いをするような。いっそ激しい『憎悪』にすげ変わりそうな。そんな苦しい熱だ。


(『愛』と呼ぶにはあまりに熱い……。)


 その過酷な感情を彼は理性のかせで押さえつけ、少女を大切にしている。それもまた愛ゆえだ。愛は、両面に蹂躙も慈しみも孕むものだから。

 ……だが、その理性の枷が外れた時、止められる人間は地上に存在しない。誰ひとり。







 砂塵が風に舞う。コンコンゴホッと急に咳が連続で出た。いけない。心配させてしまう。年寄りの咳の一つ二つ、無視してもらっていいのだが。


「教皇様。どうぞ。咽喉のどにいいんです。……ルビィもすごく好きなんですよ、この飴。見かけたらとりあえず買っておくんです。次いつ会えてもいいように。」


 すぐに傍へ寄ってきたカノンが小袋からとろりとした色合いの蜂蜜飴を出して勧めてきた。1つもらって口に放り込む。

 どこにでもよくある蜂蜜と適度に柑橘系の果汁を混ぜて煮詰め、冷やし固めた素朴な飴だ。露店でも必ず見かける。この辺りの地方で蜂蜜は幅広く流通している。作りやすく安価なので、一般の子どもが口にする定番の甘味でもある。


「ふむ。ルビィが幼い頃、新しい魔法を習得すれば口に入れてやった覚えのある飴じゃな。」

「同じことを言ってましたよ。懐かしそうに。『教皇様に育てて頂けて、本当に良かった』と……。

あの子がにっこり笑うと、私それだけで幸せな気持ちになるんです。あの子が行くからこの旅もついて来たようなもので。……なのに、あの腹黒陰険男が邪魔して全然一緒にいられないし。よりによって『魔王』なんて。他の男のひとにすればいいのに。」


 隣に腰かけた紫の髪の美人がブツブツ愚痴をこぼす。ウィーグは、穏やかにそれを聞いた。

 木陰で岩に座る2人は、偵察に出たイグニスとリュシーの帰りを待っている。魔王の警告を受け取った後、一行は支度を整え、密偵を撒いてすぐアメジスの王都を出た。今は目下、移動中だ。

 蜂蜜の濃密な甘さが舌にしみる。老教皇は晴れ渡った青空を見上げた。鳥が一羽飛んでいる。清々すがすがしい風が平原を吹き渡る。カノンの長い髪が優雅に宙を踊った。


(神よ。お許しを)


 若い頃とは違う。首も肩も腰も膝の関節も悲鳴をギチギチ上げっぱなしだ。動くたびに四肢がバラバラに壊れそうな痛みが襲う。それでも、この若人達の力になれる限りは生にしがみつき、己がすべきことを全うしたい。


(もう私の心から信仰の強き炎は失われました。……この老いぼれは今や無力です。でも、それでも)


 死ねない。目と手の届くところにいる愛しい子どもたちのためにできることがまだある。高望みはしない。ルビィ達4人を白教会の刺客の手から安全圏へ逃がすところまで命がもてばいい。

 足手まといになれば切り捨てて欲しい。囮として進んで彼らから離れる覚悟もとうにある。正義感の強いイグニス、カノンはそれを是としないだろうが。


(あっ。ウィーグ様ァ!見て見て!火炎魔法、上達した――っ!狼ぐらい丸焼きだよっ。)

(調子に乗るな。まだ訓練中だぞ!ウィーグ様に披露するのは、熊を単独討伐できるランクになってからにしろ。)

(え~~……イグニスさぁ、ダメ出ししかしないもんね。やる気しない。教わるの、ず~っとず~っとウィーグ様が良かった!)

(……褒めると訓練を怠る人間に、発言権は、ない。)

(ム~カ~ツ~く~ッ!そのサラサラの髪の毛、燃やしてやるっ。)


 ありし日々の弾ける幸せと愛に満ちた記憶が心の底を波打った。思い出の深い優しさに胸をわしづかまれ、涙がこぼれ落ちる。深緑色の瞳がじわりと潤んだ。隣に座った女司祭が慌ててこちらを覗きこむ。


「教皇様?どうし……教皇様ッ!どうされました?!」


 息が、できない。苦しい。ヒュウ、ヒュウヒュー、ヒュー……グムッ。ウィーグはかきむしるように咽喉を両手で押さえ、前のめりにうずくまった。

 咽喉と気管が焼けるように熱い。心臓が恐ろしい速さで早鐘を鳴らす。命の危機を知らせる警鐘には遅すぎたが。


わし耄碌もうろくしたな……毒か。さしずめ)


 ウィーグはカノンが岩の上に置いていた蜂蜜飴が詰まった小袋をひっつかみ、袋ごと初級火炎魔法でボウッと焼いた。老人の手のひらの上で黄緑色の清浄な炎がやわやわ揺らめく。毒入りの菓子を跡形もなく焼き尽くした。大丈夫。これでいい。

 カノンが取り乱した表情でウィーグの背を強く何度もさすっている。


「教皇様!しっかり!……ああ、私の、私のせいだわ!なんてことに。」

(目がくらむ……『違う』と言ってやりたいのに、声が、もう……)


 この飴を売った露店商が白教会の息がかかった者だったか、カノンが飴を買った後ですり替えられたのか、それは分からない。ただ最初に口にしたのが老い先短い自分で良かったと心底思った。その一点において神の慈悲に深く感謝する。

 眩暈がひどい。世界が何回転もグルングルン旋回を繰り返す。ウィーグは痙攣する体を持て余しながら最期の息を腹の底から絞りだした。


「ま、もって、く……」

(可愛い、かわいい、あのちいさな女の子を)

(泣き虫だったんだよ……引き取った時は)

(泣かなく、なってしまったけれど)


 思い出の光景の中、『ウィーグ様ァ――!』と茶褐色の瞳の幼い女の子が満面の笑顔でこちらへブンブン手を振った。幼女の背後に立った黒髪の物静かな少年が微笑んで共にこちらを見る。


「ル……ィ、――を……」

「『ルビィを守ってくれ』……で、す、ね……?」


 真っ青な顔で能面の女司祭がウィーグの深緑色の目を凝視している。機械のように正確に言葉を繰り返した。


「『ルビィを守ります。』」 

(……ッしまった――!駄目だ、カノン!儂の言葉ゆいごんを聞いてしまったか!)


 視界がどんどん暗くなる。老教皇は最後の瞬間まで懸命に死に抗った。大失態だ!毒の苦しみで不覚をとったとしか思えない。自分が何をしたか、老人はよく理解していた。


(”教皇の遺言”を聞いてはいけないのに!)

(なんてことを!)

(取り返しのつかない愚挙を犯してしまった!神よ。裁きの業火で今すぐこの身を焼き払いたまえ!)


「……この魂をもってあなたの言葉に従い、必ずやわが身に代えてもその言葉通り尽くすことを誓約いたします……。万難を排し、彼女に危害を加え得るものすべてを滅ぼし殺しこの世から消し去り、私が……。

私が、”教皇様のご遺言”通り『ルビィを守ります。』……。」


 カノンの顔には表情がなかった。強力な何かに意思を奪われ、操られた人形のごとく死にゆくウィーグに誓約の言霊を紡ぐ。

 白教会と黒教会の教皇経験者にしか知らされない秘密がある。教皇は死ぬとき、傍に人を置いてはいけない。孤独の中、永遠の旅路へ歩き出さねばならない。なぜなら。

 ”教皇の遺言”は相手の魂を支配するからである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る